ペンを落とした喫茶店

蛍野土産

ペンを落とした喫茶店

「外歩いてる人たち、暑そうだなー」

 

 午後七時半。営業を終えた店内にいるのは、俺一人。今日は一歩も外出していないだけに、余計身体が重く感じられ、いつも座るカウンター席の背もたれに寄りかかってぐったりしていた。

 厨房の方からマスターがやって来て、俺の有り様をひと目見て溜息をついた。

「おいおい、まだ七月の下旬、これから真っ盛りというのにこの体たらくじゃきついぞ?」

「もういい。夏は終わった。じきに冬になる」

 そう言う俺の声は、我ながら死人のように弱々しいと感じる。

 呆れ返った視線が痛々しい。

 マスターが言った。「そうだな、さっき美保が言っていたぞ。それだけ怠そうなら、小岩井くんの頭もだいぶ鈍ったんじゃないってさ」──美穂さんというのは、もう一人の店員なのだが……数少ない常連客に向けてなんという言い様だろうか。

「とんでもない」俺はゆらゆらと手のひらを胸の高さで揺らした。「どんな病気になったとしても、そう簡単に俺の頭脳は鈍らないさ。俺の一番の自信の糧だもんね」

「ほう、そうか」一瞬、マスターの目に奇妙な色が浮かんだ気がした。が、すぐに消えた。

 マスター──塩屋さんはカウンターを出てきて、よいしょと俺の向かいの席にそのまま腰掛けた。それから、よしそれじゃあとズボンのポケットに手を突っ込んで、徐ろに引き出し、俺の前に差し出した。

「そこのテーブルの下に落ちていたんだが、生憎誰のものかわからないんだ。だが湊なら、どこまで推理できるかなと思ってな」

 塩屋さんがにっと笑う。「頼むことにした。暑くてもちゃんと頭の働く湊ならと思ってな」

 眼の前に差し出されたのは、一本の白いシャープペンシル。近づいてよく見てみると、なんてことのない、俺も使ったことのあるタイプの安いシャーペンだ。普通に落とし物入れにでも放り込んで置けばいいものを。いや、思えば喫茶店に落とし物箱があるのを見たことがない。貴重品ではなくこんな安っぽいものを見せる辺り、これが俺への挑戦でしかないことを示している。

「湊。君は今、暑さで頭が鈍るはずがないと言ったね。だが少なくともわれわれ都会人にとって、暑いと思考回路が死滅することは広く知れ渡った事実なんだ。君だけが例外なんて許されないはずだ。そして美保も気になっているらしい」

 厨房を振り返ると、たしかに美保さんもエプロンを身に着けたまま、厨房の奥からカウンターに出てきていた。顔をわずかにしかめているのは、きっと暑さのせいだろう。

「……いやいいじゃん例外があっても」

「今年は特に暑いんだ!」

「さてはマスター、暑さで頭をやられたな?」

 よっこらせと俺は身を起こした。そして気だるげに、「ここでちゃんと論理的に推理できるかどうか見せろ、と。まあいいさ、やってやろうじゃないか。終わったら冷たい麦茶を一杯くれよ」

「わかった。約束しよう」塩屋さんはニコニコと笑っていた。「冷たいものをあげてやる」

 俺はすぐにはペンを受け取らず、まず「じゃ、マスターならこのペンの所有者をどう推察する?」と聞いてみた。ほんのお遊びぐらい、推理ゲームの出だしにあってよかろう。

 そう返されるとは予想してなかった塩屋さんは慌てて、「いや、わからんな。わからんから湊に聞いてるわけで」と弁解した。「なんだ、もうすこし付き合ってくれればいいのに」と湊くんは零した。

 ひょいと塩屋さんの掌からシャーペンをつまみ上げる。重心を掴まれたペンはいささかもぶれることなく、眼前に落ち着く。端点、中心、外側内側、上下方向……そして口を開いた。

「まあすぐに言えることなら、だ」

「ああ、聞かせてくれ」塩屋さんががたりと椅子を動かし身を乗り出す。

「……いやに食いついてくるな。まあいい。このペンの所有者は、『思慮はあるがガサツで、手癖の悪い裕福でない学生』だ」

 塩屋さんは驚いたように目を見開く。美保さんもぴくりと動いて静止した。店内音楽のない中、こう誰も動かなくなるとちょっと気まずく感じる。

「湊、考えずとも言えることを言ったみたいな顔はよしてくれ…」

「……いや、本当に考える必要はなかったんだ。見ればわかる」

「誰でもわかるなら、世の中は素晴らしいでしょうね」…厨房から皮肉が飛んできた。「会話に参加する気満々じゃないか。何故遠距離に徹する?」と湊くんはニヤニヤ笑っていた。ふん、と美保さんはそっぽを向く。

「じゃあ、俺が今の数秒間で見たものを言うと」

「シャーペンだな」

「…まず、ノックキャップが無い。消しゴムは大分擦り切れ、ちょっと先が覗く程度。引っ張り出そうとして、鋭い鉛筆で隙間から刺した跡。その周りのふちが黒く汚れている様子。ペンは全体的に黒く汚れ、しかしグリップの汚れは、爪で引っ掻いて剥がされた跡がある。以上だ」

 ああ、成る程ねという呟き。美保さんは納得したようだが、一方の塩屋さんはうんうん唸っている。俺の指先のペンを凝視し、今にも噛みついてこないか心配になる。見るからに大型犬ーーアメリカの超優秀警察犬ってこんな感じなのでは?

「一体どういうことだ?今ので、頭がよくデタラメで寝癖の強い…」

「店長、『思慮はあるがガサツで手癖の悪い裕福でない学生』よ」

 そうかと呟いたが、正しい言葉を教えられても尚唸っている。

「よしマスター、まず『ガサツ』についてだが、この消しゴムの詰めてあるノッカーの、縁を見てみると、黒ずんでいる。これは消しゴムがこれだけ短くなっているにも関わらず、無理に消そうとするから黒鉛がついたんだ。それも一度や二度ではない。白色が剥げてしまってるだろ?がさつだね。次、『思慮はある』についてだ。これは、消しゴムを見て気づいた。ほら、ここの縁の隙間から、黒ずんだ小さい穴が見えるだろ?これは、短くなって取り出しにくくなった消しゴムを取り出すために、先の鋭い鉛筆で刺して上に持ち上げた跡なんだ。シャー芯で刺したにしては太い穴だから、鉛筆だと言ったが、ちゃんと鋭い鉛筆を選んでいるところ、あと、シャー芯でさ刺していないところを見ると、がさつだがただガサツなだけでもないと言える。

 次だ、このペンは全体が、鉛筆の黒鉛と粘土の混合物で黒ずんでいる。こうなるのは、筆箱の中で黒くなってしまったからに違いない。何故か?所有者は、鉛筆の入っている大きめの筆箱を持ち歩いているから。そんな筆箱を持ち歩く人間といえば、学生だろう。そして、グリップを見ればわかるが、黒鉛がここにもついているが、結構剥がれてしまっている。剥がれ方だが、直線的に細い筋ができているだろ?爪で剥がしたのさ。手癖が悪いと言われても仕方がない」

「じゃ、『裕福でない』は?」

「まあ、貧乏とも言ってないし、これはあとづけだ。消しゴムをぎりぎりまで使っていて、かつこのペンはコンビニの一番安い種類だから」

「へえ、さすが……!」

 純粋に尊敬の目を向けている。塩屋さんは、とても素直な人だ。

 俺は塩屋さんの目を見つめながらシャーペンを手のひらで転がした。

「ところで、マスター。もう一歩進んでみようとおもうんだが、いいか?」

「うん、もちろん」

「このシャーペンは…元受験生のものだと言える」

「どうしてそう思ったんだ?」

 かたかたとペンを振ってみせる。

「このペンの中にはシャー芯が五本ほど詰め込まれている。そんなに一気に詰め込んでいるのは、詰め直すのを面倒とする人間だ。だから、ここ最近まで忙しかった元受験生のものだと推定できる」

 彼はにっこり笑って、人差し指と中指で挟んだそのシャーペンを、塩屋さんの眼の前に差し出した。


「というわけだがマスター、残念ながらこのシャーペンは持ち主に返せそうだ。なんたって……本人がここに座ってくれているからな」


 途端、塩屋さんの顔がみるみるうちに赤くなり、目が見開かれる。図星かな?

「ななっなんでそうなるんだ?」

 俺は塩屋さんの慌てっぷりを満足げに眺めている。シャーペンをくるくる回しながら。親指と人差し指と中指を使って。

「なんで、て言われてもな。これがマスターのものなんだから仕方ないんじゃないのか?」

「なんで店長のものなのよ?今元受験生のものだって言ってたじゃない」

 俺はにやりと笑って言った。「あれは嘘だ」

 二人は唖然とした表情で俺を見る。なんで嘘をついたのか?それは「マスターの反応を見るためさ」

 やっと美保さんは察して、顔を赤くして怒り出す。「なによ、それは卑怯ってやつ」

「今回の一件の首謀者には言われたくないがな」

 ぐっと言葉に詰まる美保さん。塩屋さんは未だ不思議そうな顔をしているが、諦めた様子で「降参だ。なにがどうなって全部推理されたんだかわからない」と手を上げた。

「ひとまず、『思慮はあるがガサツで手癖の悪い裕福でない学生』は正しいってことを言っておく。だが、シャーペンの中に芯が一気に詰め込まれていたから元受験生のものだっていうのは嘘だ。

第一さ」湊さんはシャーペンをかたかたと上下に振る。「ほら、芯の鳴る音がうるさい。こんなんで受験勉強したくないってのはぼくだけかな?」

「シャー芯を詰め直すのを面倒とする人間は、忙しいという理由のほかに、もう一つ」彼は盛大に笑顔を作ってみせた。「それだけ『ガサツ』だって人間さ」

「で、カマをかけてみると、案の定表情が動いた。何かの賭けで勝ったかのような顔。ぼくの推理があさっての方を向いたから、だろうな。要するに、ぼくへの挑戦だったんだ。このシャーペンが誰のものか、という推理ゲーム自体が。だから、あたかも最近まで使っていたかのようにシャー芯を入れたんだろう。このペテンめ。

 でもまあ、最初の時点でそれはわかっていたけどね」

 びっくりした顔で二人が俺を見つめてくる。「わかってたの?でも最初ってとくに変わったことは……」

「マスターの拒否だよ」ふふっと笑って、「最初に聞いただろ?『マスターならどう推察するか?』ってさ。それに対し、マスターはあっさり断った。何もわからないと言ってな。そいつはおかしいんだよ、マスター。君がこの小さな喫茶店のマスターである限り、そしていつもカウンターの後ろで立っている限り、このペンが落ちていた辺りに座る客のことを程度の差こそあれ、知っているはずだ。ペンを拾った日、一体だれがこの辺りに座っていただろう。そう考えるのが当然じゃないか?なのに君は、一切何も推察しようとしなかった。だから、他人のものを拾ったというのが嘘だと考えたんだよ」

 どうだ、と美保さんに目を向ける。無念そうに顔を背けた彼女は、「大体想像つくけど……私が首謀者ってのは?」


「マスターにこんな挑戦は思いつく器用さはない」


 俺はそう言い切って、爽やかに笑った。「じゃ、麦茶をくれるかな?冷たーいやつを頼む」




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