第5話「空白の地図」
朝の港は、錨の鎖が海底の砂をこする音で始まる。縫い所の窓を開けると、潮の匂いが秤皿の上で薄く丸くなるような気がした。昨夜、紙に刺しておいた頼み――欠番に薄い余白印を残す――が効いていれば、今日届く目録は“空白”の位置でほんのりと白むはずだ。
鐘が一度、ゆっくり鳴り、二度目の鐘が沈む直前に、古文書屋の少年が抱えた綴じ束を運び込んだ。紐は麻、背は革。表紙に「王都理術院 図書目録(抄)」の金の文字。ルシアが丁寧に受け取り、端を撫でる。指は紙の“質”を識別するように繊細で、目の端の光は隠しごとを見抜く猫のようだ。
「借覧用。塔に戻すまで、汚さないこと」彼女は半分冗談の口調で言い、綴じ紐を解いた。
並んだ項目は整然としていた。理数学、観測誌、地誌、言語。目次の見出しは塔らしい骨組みの固さだ。だが、俺の頼みが座っている場所――余白印は、確かにある。化粧紙に刷った黒の活字の間、ところどころ、ごく薄く紙が軽い。ルシアが眉をひそめ、指で軽く弾いた。「……ここ、空気が抜けてる」
「欠番だ」セヴランが覗き込み、淡く笑う。「君の“礼の印”は嫌いじゃない。書き換えるのではなく、座り方を変える」
俺は秤を引き寄せ、面白半分ではなく真面目に、目録の頁を重さで測る。秤皿の上で頁は微かに歌い、余白印のある箇所はわずかに軽い音を出した。歌の拍が、ところどころで半拍遅れる。昨日の港と同じ癖だ。印で示されているのは四ヶ所――分類番号の列のうち、「礼律学」「縫合法」「旧式地文」「名綴術」。どれも、塔の“命令”の層ではなく、言葉の座り方や布の通し方を扱う古い学だ。
「“礼律学”と“縫合法”が欠番?」エリナが静かに息をのむ。「塔は、礼のことを忘れようとしているの?」
「忘れたのか、抜いたのか」ゼンジが渋い茶を卓に置き、目録の余白へ指で輪を描く。「『知らぬふり』は、どの旗にもある。重要なのは、どこから見えないかだ」
俺は羊皮紙に、仕様として針目を刺した。
『欠番の位置は“軽い”/歌が半拍遅れる/港の“拍ズレ”と共鳴しやすい』
セヴランが糸張り器を目録の上に据え、細い銀の糸の震えで空白の輪郭を測る。糸は欠番の項の上で少したわむ。ルシアが筆を止め、俺と視線を交わした。そこにあったのは、責めでも擁護でもない、知りたいという真っ直ぐな光。
「塔は、昔から“命令”を磨き、礼を棚の上に置いた。埃を被った本は、たまに消えるのよ」ルシアは小声で言い、すぐに表情を消した。「……個人的な所感。記録には載せない」
「載せなくていい。針を通すのは、記録の端からだ」
俺は“秤の間”の真ん中に粗い地図を広げ、港と祈祷所と見張り台と縫い所を針山のピンで留めた。昨日までの理喰いや拍ズレの発生箇所に印を打ち、糸で結ぶ。線は綺麗な直線にはならず、布の地の目に合わせてわずかに斜行する。やがて、粗い織機の模様が浮かんだ。縦糸は祈祷所から見張り台へ、横糸は港から秤の間へ。欠番が指し示す学科名は、その交点に重なる。
「……この街そのものが機なんだ」ミラがぽんと手を叩いた。「古い機。『礼』で縦を、『重さ』で横を張る。だから“縫い所”が要になる」
「機があるなら、裂け目もある」ヘイルが槍の石突で地図の端を軽く叩く。「夜になると“穴”が開く場所、思い当たる。夜店の並ぶ裏の路地、灯りが揺れっぱなしだ」
ゼンジが渋面で頷く。「夜店は好くも悪くも抜け道を作る。塔は寝て、商人は起き、祈祷所は声を落とす。機の拍が乱れやすい」
セヴランが外套を整え、軽く頷いた。「課題だな。塔からの第一課題――『港における拍ズレと理喰い発生の相関測定』。君からの課題は『図書目録の欠番へ余白印を残す』。机は成った。やろう」
昼下がり、縫い所の窓から潮の風が入るあいだ、俺は小さな頼みを三つ街へ散らした。
『祈祷所の“唱え言”は、今夜だけ、拍を大切に数える(速くしない)』
『商人旗の下の会計は、今夜だけ、音を一つ静かに』
『見張り台の鐘は、今夜だけ、最初の一打を深く』
頼みは命令ではない。礼の層を震わせるだけだ。それだけで機の拍は揃いやすくなる。世界の布を直接引くのではなく、枠を整える。塔より港のやり方。セヴランはそれを観測し、ルシアは紙へ静かに書いた。
日が落ちる。夜店が開き、油の燻る匂いと焼いた魚の香りが路地を満たす。灯りは風に揺れ、拍に乗りそこねた灯が布の目の隙間に引っかかる。ヘイルとガロウが外を回り、ミラは屋台の子らと笑いながら結びを配る。エリナは祈祷所の石段で頼み言を教え、ゼンジは秤の間に腰を据えて重さを見張る。セヴランとルシアは縫い所の窓から糸で夜の震えを測り、俺は羊皮紙と炭軸を握って穴の出る場所を待った。
はじめの“穴”は、銅貨の音から始まった。夜店の端で、目の早い男が偽の秤皿を使って銅貨を多く掴み取り、じゃらりと鳴らした瞬間、音が半拍遅れた。空気の薄皮が一枚めくれ、地面の影が濃くなる。理喰いが音に寄ってくる。俺は素早く書いた。
『この路地の銅貨は、今夜だけ、正しい拍で鳴る(礼の頼み)』
音は落ち着き、穴は狭まる。男が顔をしかめ、銅貨を睨む。俺はその手首を軽く掴み、秤の間を指さした。「検印」男はゼンジの目を見て舌打ちし、そして観念した。重さが嘘を嫌うのは、塔も港も同じだ。
二つ目の穴は、童歌の途切れから生まれた。夜店の端で子どもたちが歌い遊ぶ輪の中、一人の子が喧嘩で輪から出て、歌が途切れた。拍が抜け、そこへ理喰いの糸がすっと差し込む。俺はひざまずき、子どもたちの顔の高さで、短く頼む。
『今夜だけ、歌は丸く繋がる。ケンカの間に、一手の拍手を』
子らが見合い、ちいさな手をぱんと合わせる。抜けた拍が埋まり、糸は迷い、ほどける。ミラが横から飛び出して輪に戻れなかった子の手を引き、笑わせる。礼の針は、命令より早く効くことがある。布の裏側から縫えるからだ。
三つ目の穴は、灯の影が伸びすぎたところに開いた。油の灯が風下に倒れ、影が長く伸び、影の端が遅れて動く。足がその影を踏み抜き、膝まで沈んだ。悲鳴。俺は灯に向けて書く。
『灯よ、風に礼をしておくれ。炎は少し低く、影は少し丸く』
炎が控えめに身を縮め、影は角を落とす。沈んだ男の足が外へ滑り、地面が正しい拍に戻る。セヴランが窓から糸を下ろし、ルシアがその震えを紙に写す。彼らの筆は命令を愛しているが、礼に学ぶことを拒まない。そこがセヴランの面白さだ。
夜の中ほど、穴は一度に三つ開いた。祈祷所の鐘の拍と、見張り台の旗の鳴りと、商人の声がずれた。港の機が少し混線する。俺は羊皮紙を捲り、呼吸を整える。同時維持は三。頼みと仕様の枠を慎重に配分する。
『鐘の拍は深く(祈祷所の頼み)』
『旗の鳴りは低く(商人旗の頼み)』
『売り声は、二の拍で伸ばす(夜店への頼み)』
三つが合わさり、港の機がもう一度経と緯を揃える。穴は細くなり、理喰いは食むべきを失ってほどけた。俺はこめかみの奥の痛みをやり過ごし、炭軸を握り直す。反動は薄い。礼は、反動を薄くする。これは、もう一度書いておくべきルールだ。
『“礼”を先に。命令は最後に。反動は薄く』
そのときだ。市場の中央――昨日、目録を広げた秤の間の前で、紙が風に舞った。誰かが落とした古い帳面の頁。灯りの下で一瞬だけ黒く光り、頁の文字が滲んで形を変える。俺の胸が冷たくなり、同時に、背骨のどこかに懐かしさが走った。文字が取った形は、縫い師の標――古い時代、書き換える者の名を帳に綴じるときに使われた針簿の印。
ページは地面に落ちる前に、俺の頼みでふわりと止まった。
『紙よ、少しだけ待っておくれ』
指先に紙が触れ、印の黒が皮膚の熱でわずかに薄まる。ルシアが駆け寄り、目だけで「それは?」と問う。俺は紙の隅に小さく仕様を書き、印に礼を尽くす。
『古い綴じに礼を。名前は問わない。ただ、場所を教えて』
黒はじん、と震え、紙の中央に小さな地図を浮かべた。港の外れ、波止場の下。沈んだ拱(アーチ)。古い港の骨。そこに針簿が眠る。そこに、俺と同じ針を持った者の頁が綴じられている。
セヴランが小さく息を吐いた。「君の先人がいる、ということだな」
「いる。……いた、だろう」
紙を折り、胸にしまう。心臓の鼓動が、いつもの拍ではなく、少し早い。怖れではない。期待でもない。手触りを確かめるための緊張だ。
夜が深くなるにつれて、穴は減った。祈祷所の頼み言が拍を守り、商人の声が静まり、旗が低く鳴った。理喰いの糸は残り火のように散り、やがて見張り台の影に溶け込んだ。ゼンジが秤の皿を撫で、ミラが結びを回収し、ヘイルとガロウが最後の見回りを終える。港の機は今夜、切れなかった。
縫い所に戻ると、セヴランが机の端で外套を畳み、ルシアが筆を置いた。彼女の目は紙束の山を通り越して、俺の胸の折り紙を見ていた。
「それは、塔では扱えない」ルシアが静かに言った。「塔は“命令”を愛し、“礼”を棚に置き、綴じを恐れる。だから、それは港で扱うべき」
「塔の書記がそんなことを言っていいのか」
「私は私」ルシアは肩をすくめ、口元だけ笑った。「記録は事実を書く。所感は紙に載せない」
セヴランは苦笑し、手で「続けろ」と合図した。「塔は君を檻に入れない。約は守る。だが、先人の頁は危うい。そこに名前が書かれているなら、名前は道だ。囁くだけで、人に届く」
「だから礼で囲う」俺は針山の地図の端を押さえ、羊皮紙に縛りを足した。
『“針簿”の頁は、港の礼の下でしか開かない(旗・秤・祈祷所の三つが揃う場所)』
頭痛は来ない。礼はやはり、反動を薄くする。セヴランが頷いた。「明日、沈んだ拱へ行こう。塔からは私とルシア、港からはゼンジの代理、祈祷所から老司、商人旗から組の若い衆、そして――君」
「ミラとエリナも」ミラがすかさず言い、エリナは頷いた。「結びと頼みがいる」
「外は俺がやる」ガロウが槍の柄で床を軽く叩く。「水夫に声をかけ、潜り手とザイルを用意する」
ヘイルが横目で俺を見て、にやりと薄く笑った。「針山は賑やかだ。塔も港も、今日は縫い目の上で同じ机を囲んだ。明日もそうだといいな」
「机の高さは、揃えた。あとは置くだけだ」俺は窓の外の旗に目をやる。風は夜の終わりを告げ、布は静かに眠りの方角から朝の方角へ向きを変え始めていた。
灯を落とす前、俺は一行だけ、明日のために刺した。
『沈んだ拱の水は、朝の三呼吸だけ、澄む(礼の頼み/旗と秤が見ている間)』
紙が微かに温かくなり、胸の内で針がひとつ座る。ルシアが目を細め、セヴランが小さく笑い、ミラが「やっぱり礼は強い」と呟く。エリナは杖に手を置いて目を閉じ、祈祷所の唱え言を短く口の中で繰り返した。
夜が背中から離れ、窓の縁に薄い青が乗る。港はまた、巨大で鈍い機の音を立てて動き始めるだろう。俺たちはその端に立ち、針を手に、頁をひらく。欠番の空白は、地図になり、道になる。そこに正解を、一本ずつ置いていけばいい。
「三呼吸で足りるか?」ヘイルが半分冗談で言った。
「足りないなら、礼で延ばす」俺は答える。「命令は最後に取っておけ」
そして俺は、胸の折り紙にそっと触れた。針簿の印は冷たく、しかしどこか懐かしい温度を内側に秘めていた。
明日、沈んだ拱で先人に会う。名前に会う。道に会う。
世界の縫い目は、まだほどけていない。だから、縫える。
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