閑話五:暗殺者と天運の絶対防壁(物理)
呉学人の旅は、遅々として進まなかった。
いや、あれはもはや「旅」ではない。「確認作業」だ。
俺、前田慶次は、安全な距離を保ちながら尾行していたが、退屈すぎて三度ほどあくびで顎が外れそうになった。
「……つまらん」
木の上で酒を呷りながら、俺は眼下の道化芝居を眺める。
学人の奴、分かれ道に来るたびに馬を止め、五人の通行人を捕まえては同じ質問を繰り返している。
「(農夫に)もし、お尋ねします。安土はこっちで間違いないか?」
「おう」
「(商人に)もし、念のため。本当にこっちで間違いないか?」
「そうさ」
「(通りすがりの僧侶に)もし、仏に誓ってこっちか!?」
「南無……」
……あいつ、本気でやってやがる。
本能寺での道迷いが、よほど骨身にこたえたと見える。
だが、真面目くさった呉学人なんぞ、ただの気の弱い小男だ。酒がまずくなる。
「おい、神様! そろそろ出番じゃないのか! 例の『うっかり』の!」
俺が天に向かって悪態をついた、まさにその時だった。
ピリ、と肌が粟立った。
前方、越前から近江へ抜ける峠道。あの茂みの中……いるな。
「ほう。ようやく面白くなってきたわ」
俺は
◇
茂みに潜むは、五名の刺客。
本能寺で信長を討ち損ねた明智の残党か、あるいは北条の残党か。どちらにせよ、信長の天下を快く思わぬ者たちだ。
「来たぞ……あれが、信長の天運の源、歩く護符『誤先生』!」
「小男とはいえ油断するな。あの男は、天の理を操る魔人……」
「奴を討てば、再び世は乱れる! 我らの怨念、思い知れ!」
おお、言ってる言ってる。
あいつら、学人を「魔人」だとよ。
見当違いも甚だしいが、ある意味では間違ってもいねえ。
刺客たちが弓を絞り、峠の
絶体絶命……
俺が飛び出すか、と腰を浮かせた、その瞬間。
「(フンッ!)」
学人が、緊張のあまり、道端のただの石ころにつまずいた。
「ひゃっ!?」
(――ここから、スローモーション)
学人のひょろ長い体が、宙を舞う。
まるで稽古を積んだ忍びのように、彼は見事な(そして意図しない)前方回転を披露した。
だが、その遠心力で、腰に下げていた大事な水筒が岩に激突。
カシャーン! パリンッ!
甲高い音と共に、水筒は無残に砕け散った。
利家から拝領したとかいう、立派な
(――スローモーション、終了)
しん、と静まり返る峠道。
学人は、受け身も取れずに転がったまま、ゆっくりと顔を上げる。
そして、砕けた水筒の残骸と、渇いた地面に染み込んでいく「命の水(ただの井戸水)」を見つめ……
「ああ、私はなんという失敗(ミス)を~~~~~っ!」
本日一番の慟哭が、山々に響き渡った。
彼は、刺客の存在など少しも気づかず、ただ己のうっかりを呪って絶望している。
「水が! 利家様から拝領した、命の水がぁぁぁ!
これでは私は、安土に着く前に干からびてしまう! 私は、道に迷う前に、渇きで死ぬのか!」
その時、彼の耳が、かすかな水音を捉えた。
崖の下……谷底からだ。
「み、水……!」
学人は、正規の道筋(刺客が待ち構える峠道)を完全に無視。
「水~! 水~!」と、獣のような声を上げながら、崖を転がるようにして谷底へと消えていった。
後に残されたのは、弓を構えたまま硬直する刺客たち。
「……行ったぞ」
「……ああ」
「我らの殺気、読まれたのか?」
「いや……あいつ、峠越えより、水か?」
俺は、木の上で腹を抱えた。
「ぶっは! 歩く前にまず転ぶか!
そして水筒を割るか! 期待を裏切らんわ! はっはっは、ああ、酒が美味い!」
◇
刺客たちも、
「魔人は水浴びで身を清めているのだ」と(あらぬ)解釈をし、先回りして次の罠を仕掛けた。
場所は、谷底にかかる古い吊り橋。
「今度こそ逃がさん。奴が橋の中ほどに来たら、この縄を切る」
「谷底の川霧で、奴も油断するはずだ」
果たして、一刻(二時間)後。
全身ずぶ濡れになった学人が、谷底から這い上がってきた。
「はあ、はあ……なんとか生き延びた。危うく溺れるところだった……」
どうやら、水を飲む際に、足を滑らせて川に落ちたらしい。
どこまでも「うっかり」を
学人は、目の前の吊り橋にたどり着く。
「さて、この橋を渡れば、街道に戻れるはず……」
学人は、懐から大事そうに、あの自作の看板(← 安土はこっち(のはず))を取り出した。
それだけが、彼の心の支えだった。
だが、その手が、川の水で濡れて滑った。
(――ここから、スローモーション、再び)
看板が、手からスッポ抜けた。
それは、まるで意志を持っているかのように、ひらり、ひらりと舞い……
吊り橋の板の隙間から、吸い込まれるように、谷底の深い霧の中へと、落ちていった。
学人の顔が、凍りついた。
時が、止まった。
「あああああっ! 私の! 私の完璧な道標がぁぁぁぁぁ!」
学人は、橋を渡ることを完全に忘れ、看板が落ちた方向を見つめる。
幸い、谷底へは、橋の脇から急な獣道が続いていた。
「看板ど~の~! 待ってくだされ~!」
学人は、刺客が潜む吊り橋に見向きもせず、再び谷底へと続く獣道を泣きながら駆け下りていった。
再び、取り残される刺客たち。
「……また行ったぞ」
「……ああ」
「今度は、自ら看板を谷に投げ捨てて、飛び降りたように見えたが……」
「あれは、我らを誘う罠か?」
「いや、ただの馬鹿か?」
「馬鹿があの竹中半兵衛を超えるか! やはり魔人だ! 我らの思考を、奴は読んでいる!」
◇
刺客たちの心は、もう折れていた。
弓矢も罠も、物理的に当たらない。
あいつは、未来が見えている。
我らの動きを察知し、あえて水や看板を理由に、罠を回避しているのだ。
「だめだ……勝てん。あんな人外、相手にできるか!」
「撤退だ! 生きているのが不思議だ!」
彼らが踵を返そうとした、その背後。
俺は、音もなく木から飛び降りた。
「おう、お前らみたいな虫けらじゃ、先生の『天運(うっかり)』には傷一つ付けられんぜ」
「なっ!? ま、前田慶次! なぜここに!」
「だが、わしの退屈の種にはなってくれた。礼に、一瞬で地獄へ送ってやるわ」
朱槍が一閃する。
「ぎゃああああ!」
悲鳴は、谷底に落ちていく学人の絶叫に、上手いことかき消された。
◇
さて、当の学人先生は、というと……三刻(六時間)後。
日が暮れかけた頃、泥と木の葉まみれになって、ついに谷底から這い上がってきた。
その手には、奇跡的に回収した少し折れた看板が、固く握りしめられていた。
「はあ、はあ……危なかった。この看板さえあれば、もう迷わな……」
学人は、満足げに顔を上げた。
そして、気づいた。
そこは、東西南北まったく不明の、ただの森のど真ん中だった。
正規の街道は、もはや影も形もない。
「……あれ?」
俺は、遥か頭上の木の枝で、腹筋を痙攣させながら酒を呷った。
「はっはっは! やったぞ、あの男! ついにやり遂げた!
これぞ『完全なる迷子』の爆誕よ!
さて、神に愛された迷子の先生は、明日、どっちへ行く?」
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