第18話「契りの戦場」
赤月の朝
夜明けと同時に、湖畔の空気は張り詰めた。
赤月は西に沈みかけていたが、その不吉な光はなお大地を染めている。
丘の向こう、王太子軍三千が列を組んで迫っていた。槍の穂先が朝日にきらめき、鼓動のような軍鼓が響く。
クラリスは湖畔の高台に立ち、深く息を吸った。
「……今日が、この国の始まりの日」
背後には百五十の辺境兵と民兵、そして数百の農夫や職人。剣も鎧も揃ってはいない。だが、皆の胸には契り袋が光っていた。
第一の防壁
王太子軍の先陣が進み出る。馬が嘶き、槍の列が街道を覆った。
クラリスは手を上げ、ユリウスに合図する。
堰が解かれ、湖水が一気に流れ出す。乾いた街道は瞬く間に泥に変わり、馬が足を取られ、兵たちは膝まで泥に沈む。
「ぬかるみに……!」
「進め! 止まるな!」
だが列は乱れ、前進は鈍る。クラリスは静かに頷いた。
「これが塩湖の盾。剣を抜かずとも、軍は止まる」
第二の仕掛け
混乱する敵軍に向かい、フェンが旗を振った。
「西風強! 撒け!」
民が袋を破り、灰を風に投げる。白い粉が敵陣に舞い込み、咳と涙を誘う。
兵たちが目を覆い、槍の列が崩れた。
ドミトリが笑みを浮かべる。
「どうした王都の兵! 灰にすら勝てぬか!」
硝の閃光
しかし敵は数に勝る。後方から新たな列が押し寄せ、辺境の陣を圧し潰そうとした。
その瞬間、ユリウスが仕込んだ樽が火を吹いた。硝石の粉と火薬が閃光を生み、轟音が山に響く。
敵兵が叫び、馬が暴れ出す。
「雷か!?」「魔法か!?」
クラリスは声を張った。
「これが辺境の力! 塩と硝、民の知恵が生んだ光です!」
剣を抜かず
だが圧力はなお強い。敵の将校ハーゲンが馬を進め、剣を抜き放った。
「女狐を捕らえよ!」
辺境兵は剣を抜きかけたが、クラリスが叫ぶ。
「待て! 剣は抜かない! 私たちは殺さずに退ける!」
イングリットが盾を構え、敵の刃を受け止める。ドミトリが棍棒で相手を弾き飛ばし、フェンが旗で合図して兵を誘導する。
辺境の戦いは、血を流すためではなく、守るための舞だった。
契りの声
戦場の喧騒の中、クラリスは両手を掲げた。
「民よ、声を上げて!」
辺境の人々が一斉に契り袋を掲げ、叫んだ。
「守れ! この大地を!」
「剣なき国を!」
「契りこそ我らの誓い!」
その声は波となり、敵兵の心を揺らす。
泥に足を取られ、灰に咳き込み、閃光に怯えながら、彼らの耳に響くのは「国を守る民の声」だった。
ハーゲンの顔が歪む。
「……こんな戦は……戦ではない!」
退却
夕刻。王太子軍はついに陣を崩し、退却を始めた。
追撃を求める声もあったが、クラリスは首を振った。
「剣を抜かずに退ける。それが勝利です。血で汚せば、我らは殿下と同じになる」
泥に沈む街道に、赤月が沈みゆく光を落とした。
辺境は守られた。――だが戦いは終わっていない。
王都の動揺
その報はすぐ王都に届いた。
玉座の間で、王太子アレクシスが震える声を上げる。
「三千の兵が……百五十の農民に退けられたと!? あり得ぬ!」
重臣たちは沈黙し、やがて一人が口を開く。
「殿下……もはやこれ以上は隠せません。民は皆、辺境の女を“女王”と呼び始めております」
アレクシスの瞳が狂気に燃えた。
「ならば最後だ。あの女を、この手で――」
終幕への兆し
辺境の夜。湖畔に立つクラリスは静かに湖面を見つめていた。
イングリットが隣に立ち、低く言う。
「勝ったが、殿下は必ず自ら動く。次が最後になる」
クラリスは頷いた。
「ええ。剣を抜かずにここまで来ました。次こそ、決着の時です」
黄金の湖は静かに揺れ、やがて夜明けを映し出そうとしていた。
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