第17話「赤月の前兆」

 夜空に浮かぶ月は、いつもより赤く滲んでいた。湖面に映る光は血のようで、辺境の人々はその不吉な色を「赤月」と呼んだ。

 そして今宵、その赤月が昇った。


王太子の宣告


 王都から急報が届いた。ルーカスが汗を拭いながら会合所に駆け込む。

「クラリス様! 殿下が正式に軍を動かしました。名目は『辺境の乱を鎮める』――三千の兵が南門を出立したとのことです!」


 会合所はざわめきに包まれた。百五十人の辺境兵と数百の民に対し、三千の正規軍。数字だけを見れば絶望的だった。


 イングリットが机を叩く。

「焼き払いだ。塩湖ごと辺境を潰すつもりだ!」


 ドミトリが剣の柄を握りしめる。

「正面からは勝てん。だが湖を武器にすれば、まだ道はある!」


 フェンが旗を掲げ、叫んだ。

「俺たちは逃げない! あの塩と硝は、もう俺たちの国だ!」


決断


 人々の視線がクラリスに集まった。

 彼女は深く息を吸い、静かに言葉を紡ぐ。

「確かに数では勝てません。けれど、私たちには“契り”があります。塩湖を盾にし、硝を光に変え、民の力を一つにすれば……剣を抜かずに、軍を退けられるかもしれません」


 沈黙が流れた。やがて老いた農夫が立ち上がり、契り袋を掲げた。

「わしは逃げぬ。あんたに付いてきたのは、畑を守るためじゃ。畑も湖も、この国も……命を懸けて守る!」


 その声に続き、次々と契り袋が掲げられる。

「塩を育てた手を無駄にするな!」

「硝を仕込んだ汗を捨てられるか!」

「この大地はもう我らの国だ!」


 会合所は熱気に満ち、誰もが震える声で叫んだ。


赤月の下の準備


 その夜、赤月の下で準備が始まった。

 ユリウスが堰の仕掛けを調整し、湖水を街道へ流す導線を作る。

 フェンは旗を持って丘を駆け、風の流れを測り続ける。

 ドミトリと傭兵団は灰を袋詰めにし、硝石を少量ずつ樽に仕込んだ。


 イングリットは夜警を率い、村の子どもと女たちを学び舎に集める。

「怖がるな。ここは砦だ。お前たちが未来を学ぶ限り、この国は負けない」


 クラリスは広場に立ち、民の一人ひとりに契り袋を手渡した。

「これはあなたの剣です。血で汚さず、汗で満たしてください」


 赤月が高く昇るころ、辺境はひとつの大軍に変わっていた。


王太子の軍


 翌日。砂煙を上げて王太子軍が迫る。槍と盾の列、旗の林、規律正しい足音。

 先頭の軍鼓が鳴り響き、赤月を背に進む姿はまさに鉄の洪水だった。


 アレクシスは馬上から冷笑する。

「愚かな女よ。辺境ごと焼き払ってやろう。悪役令嬢は舞台から去るのがお似合いだ」


 だがクラリスは湖畔に立ち、赤月の光を浴びながら叫んだ。

「辺境はもう舞台の端ではありません! ここが国の中心となるのです!」


前夜の誓い


 戦いは避けられない。だが誰も怯えてはいなかった。

 クラリスは仲間を見渡し、静かに誓った。

「明日、私たちは試されます。塩も硝も、契りも、すべてを懸けて――“剣を抜かずに国を守れるか”。負けても、奪われても、この日が歴史の始まりになるでしょう」


 ドミトリが剣を掲げ、フェンが旗を振り、イングリットが盾を鳴らす。

 民の声が夜空に響いた。

「守れ! 契りの国を!」


 赤月はなお血のように輝き、戦の前兆を告げていた。

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