月香喫茶ルナリウム
海原
第1話 月光に溶ける闇~艶めく濃厚ザッハトルテ~
繁華街から遠く離れ、静かな森の中に現れるその店はいつも控えめな光を放っていた。
琥珀色の照明、静かに流れるアンビエント、そして何よりも店主が淹れる珈琲の香りが都会の孤独な魂を静かに包み込む。
その夜扉を開けて入ってきたのは、周囲の空気を一瞬で変えるような、異質な美しさを持った女性だった。
彼女の名前は
ロングコートを肩にかけ、黒いレースのブラウスに身を包んだ彼女は、まるで夜の
「いらっしゃいませ、緋月さん。いつもの席でよろしかったですか?」
店主は静かに尋ねた。この店の常連である彼女の好みは熟知している。
窓際の、街の灯りが木々の間からわずかに望める特等席。
緋月は微かに頷いただけだった。
その動作一つにも、何か張り詰めた緊張と、疲労の影が見て取れた。
彼女の背景を知る者は誰もいない。
何を仕事にしているのか、どこから来て、どこへ帰るのか。全てが謎に包まれている。
店主とて、知っているのは彼女が知性と美の化身のような女性であること、そして時折、限界まで自分を追い詰めているらしいことだけだ。
「……いつものを頼む。」
席に着くなり彼女は顔も上げずにそう言った。
その声からは感情が読み取れない。
だがその一言が、いつもより僅かに震えているのを店主は聞き逃さなかった。
そして彼女は早々に一冊の分厚い本を開いて読み始める。
しかしその視線は活字の上を滑るばかりで、集中しているようには見えない。
店主は珈琲の準備をしながら、厨房の奥に目をやった。
今夜は、星屑ブレンドだけでは彼女の心を解きほぐせないだろう。
なにか彼女に相応しいものを…そうだ。
つい先日瓶詰にしたあるものを思い出し、冷気の戸棚を開く。
しばらくののち、店主がテーブルに運んだのは、芳醇な香りを放つ漆黒の珈琲。
そしてまるで月明かりのように静かに輝くケーキだった。
「これは…?」
珍しく、緋月が本を閉じて皿に視線を落とした。
艶やかなチョコレートでコーティングされたそれは深く、重厚な色合いをしていた。
「ザッハトルテです。少しビターに仕上げました。ダークチェリーのコンポートを添えてあります。」
そう言って店主はケーキに寄り添う、とろりとした深紅の果実を指した。
コンポートはキルシュ(さくらんぼの蒸留酒)を利かせ、その香りがチョコレートの苦味と調和するように工夫されている。
「お疲れのようでしたので。甘いものは、時に薬になります。」
緋月は少し驚いたように店主を見上げた。
しかしすぐに無言でフォークを手に取り、
まず、舌を包むのはビターなチョコレートの重厚な苦味。
普段の彼女の口調そのままのような、研ぎ澄まされたシャープさ。
次にその苦味の中から、層になって挟まれたチェリージャムの酸味と甘味が、じわりと滲み出てくる。
そして、添えられたコンポートのチェリー。
それを口に含むと、キルシュのクリアな香りが鼻腔を抜け、チョコレートの闇に一筋の光を差し込むように、鮮烈な風味を加える。
苦味と甘味と酸味、そしてアルコールの芳香。
それはまるで、彼女の人生のようだ。
常に張り詰めた苦味に満ちていながら、時折、甘美で危険な誘惑が顔を出す。
緋月は二口目をゆっくりと味わい、静かに息を吐いた。
「……悪くないな。」
それ以上は何も言わない。
しかし、その「悪くない」という言葉には、彼女にしては珍しいほどの安堵と、緊張の糸が少し緩んだ気配が感じられた。
皿の上のザッハトルテは、少しずつ、確実に。彼女の疲弊した魂を慰めていった。
店主は何も尋ねない。
彼女の謎に満ちた生活に踏み込む権利は誰にもない。
ただそっと見守り、彼女が求める静寂と、疲労を癒すための最高の「ひととき」を提供すること。
それが、この店の唯一の役割だ。
緋月は珈琲を一口飲み、そして再び残りのケーキへと視線を戻した。
先ほどまで滑っていた視線は、もう迷うことはない。
彼女は今、この一瞬、この味に集中している。
一切れのケーキを完食し、緋月はコートを羽織った。
立ち上がる姿は来店時とは違い、背筋がすっと伸びていた。
纏っていたどんよりと重い空気が、わずかに軽くなったように思える。
「ごちそうさま」
そう言って、緋月は店の扉に向かった。
最後にくるりと振り返り、店主に一瞥をくれた。
その深紅の瞳に、先ほどよりも微かな、しかし確かな光が宿っているのを店主は見た。
「……また、来るよ。」
その言葉は、店主にとって何よりの賛辞だった。
「またのお越しを、お待ちしております。」
緋月は夜の街へと消えていった。
彼女がどこへ向かい、何をするのか、店主は知らない。
だが彼女が再び疲れたとき、この「月香喫茶ルナリウム」の灯りだけは、静かに、そして確実に彼女を待ち続けているだろう。
ビターなチョコレートが、かすかな甘さを秘めているように。
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