クッキーを食べてはいけません

尾八原ジュージ

クッキーを食べてはいけません

 夫と幼い息子とともに、古いマンションに住んでいる。

 エレベーターもまた、マンションと同じく古い。気息奄々という感じで、それでもどうにか動いている。


 この一基しかないエレベーターの中に、ときどきクッキーが落ちている。

 最初に見かけたときは、だれかがうっかり菓子折りでも落としたのかと思った。思わず手をのばしかけた息子を制して、六階でエレベーターを降りた。息子も強いてクッキーを拾おうとはしなかった。

 ロシアンクッキーというのだろうか。まるで金の土台に赤や黄色の宝石をはめ込んだブローチのような美しいクッキーが、深緑の床の上に五枚ほど散らばっていた。絵本の挿絵のような眺めだった。

 ただエレベーターの中は、肉が焦げたようなにおいで満ちていた。


 古参の住人によれば、このマンションが建った当時からずっと、誰かがクッキーをエレベーター内に置き続けているらしい。

『エレベーターを汚さないように。落としたものは持ち帰りましょう』

 そんな張り紙をしても、回覧板を回しても、クッキーは現れる。

 一度、監視カメラの映像らしき写真が、掲示板に貼りだされたという。

 白黒の粗い画面だが、黒っぽい帽子とロングコートを身に着けた女性らしきものが写っているとわかる。それは縦にむりやり引き延ばしたように細く、長く、異様な姿をしていたらしい。

『この人がクッキーを置いています。クッキーを食べてはいけません』

 写真の下に、赤いペンで書きなぐったような文言があった。

 どうやら当時の管理人が貼ったらしい。その人はまもなく管理室からいなくなってしまったので、詳細は不明とのこと。


「あんな気味の悪いクッキー、だれも食べないわよ。ねぇ」

 古参の住人は笑い、わたしも「そうですよね」と返す。

 一度夫が酔っぱらって食べたらしいんですよなんて、恥ずかしくて言えない。

 だから食べてはいけないものだとわかっているけれど、それも言えない。

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クッキーを食べてはいけません 尾八原ジュージ @zi-yon

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