第19話 母を断つ声

夏休みの午後、母と娘の距離はさらに深く裂けていった。


真夏の陽射しはカーテンを透かし、白い布を淡く照らしていた。

外ではセミが途切れることなく鳴き続けている。


浩司さんは仕事が休みのはずなのに、朝から外出して戻らなかった。

恵理子も昼過ぎに「買い物に行ってくる」と言い残し、玄関のドアを閉めた。


残された私と沙耶は、行き先もなく部屋で過ごしていた。

机に広げたのは夏休みの宿題。

ときおり読書に切り替えたり、また問題集に戻ったり。

ゆるやかな静けさの中で、鉛筆の音とページをめくる音だけが続いていた。


やがて玄関のドアが開き、恵理子が紙袋をいくつも抱えて戻ってきた。


「ただいま。ちょっと見て、いいもの買ってきたの」

声はどこか弾んでいた。

袋から取り出されたのは、淡い色合いのおそろいのワンピース。

涼しげな生地が夏の光を受け、ひらりと揺れた。


私は思わず手に取った。

けれど胸の奥には、どう受け止めればいいのか分からない戸惑いが広がった。

その横で沙耶は、一目見るなり表情を硬くした。


「……いらない」

「え?」

「服なんて自分で選ぶから。趣味じゃないし」

冷えた声。恵理子の笑顔がすっと消える。


母親として、せめて形に残るものを——そう思ったのだろう。

だが、あまりに真っ直ぐな拒絶に、彼女は立ち尽くした。


「……母親として、何かできることはない?」

しぼり出すような声。

その問いに、沙耶の瞳が鋭く揺れた。


「前にも言ったけど、母親なんてもういらない」

張り詰めた空気の中で、恵理子は息をのむ。

胸元でワンピースを握りしめ、指先が小さく震えていた。


「私の父を奪った女なんだから」

吐き捨てるように言い残し、沙耶は椅子を乱暴に引いて立ち上がった。


部屋に駆け込んだ彼女の背中から、小さな嗚咽が聞こえた気がした。

拒絶の言葉の代償に、沙耶自身も傷を負っているのだと分かった。

足音を響かせ、自室のドアを強く閉める。


残されたリビングには、揃わないままのワンピースが取り残された。

恵理子はその場に立ち尽くし、紙袋を抱えたまま動けない。


——その一部始終を、私は廊下の影から見てしまった。

声をかけたいのに、喉が固まり言葉が出ない。

心臓の鼓動だけが速まり、呼吸は苦しくなる一方だった。

足は床に縫いつけられたように動かない。


きっと沙耶も寂しかったのだ。

幼い頃に母を亡くし、父と二人きりで生きてきた。

だからこそ、恵理子を母と呼ぶことなんてできない。

そして恵理子もまた、母親の代わりになれない自分を痛感している。

その姿は哀れにさえ見えた。


——誰も悪くないのに。

それでも埋められない空白だけが、そこに残されていた。


私はただ、胸の奥に冷たい痛みを抱えたまま、影に立ち尽くしていた。

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