第17話 欠落の記憶を語る夜

タオルケットの薄さの下で、互いの欠落を初めて語り合った。


勉強を終えて机の電気を消すと、部屋は闇に包まれた。

二人だけの小さな空間。

私は上段のベッドに、沙耶は下段のベッドに、それぞれタオルケットをかけて横になった。


窓の外の街灯が、薄いカーテンを透かしてぼんやりと光を落とし、部屋の輪郭をかすかに浮かび上がらせる。

エアコンが微かに音を立て、冷気は流れているのに、肌には夏の湿気がまとわりついていた。

眠気よりも、心に沈殿した記憶のざわめきが勝っている。

どうしても口に出したい言葉が胸を圧してくる。


「……ねえ、ちょっといい?」

下のベッドが小さく軋み、沙耶の声が返る。

「なに?」

「小さい頃のこと、思い出しちゃって……」

言葉を探しながら、ゆっくり続けた。


「私ね、母に抱きしめてもらった記憶がないの」

暗闇に間が落ちる。

やがて、下から小さな「そうなの?」が届いた。


「物心ついたときには、もう父親はいなくて。

母はずっと働いてて……生活は支えてくれたんだと思う。ご飯もあったし、服も買ってくれた。

でも、それは“世話”であって、“愛情”って感じじゃなかった」

そこで一度言葉を切り、タオルケットの下で拳を握りしめる。


沈黙の中、沙耶の呼吸がわずかに早まるのが伝わってきた。


「七歳の誕生日のときね、リビングに風船を飾ってケーキを待ってたの。

でも母さんは帰ってこなくて。夜が更けても玄関のドアは開かなくて……

結局、一人でろうそくを吹き消した。電話も鳴らなかった。

あのときの静かな部屋の感じ、まだ忘れられない」


下のベッドから短い吐息がもれた。

それは同情のため息ではなく、重さを一緒に背負うような音だった。


「だから、時々思うの。母は私を本当に欲しかったのかなって」

声が震え、枕に涙がしみていく。

少しの間があり、やがて沙耶の低い声が落ちてきた。


「……私もね」

その声はふだんの彼女とは違い、かすかに震えていた。


「私、小さい頃に母を亡くしたの。

記憶なんて断片だけ。葬式の白い花の匂いと、泣いてる大人たちの声しか残ってない。

母の温もりなんて知らないまま、父さんと二人で暮らしてきた。

父さんは本当に頑張ってくれたけど……やっぱり、どこか足りなかった」

彼女の言葉が暗闇に滲み、私の胸に突き刺さる。

下の段で沙耶が息を整えようとしているのが分かった。


——欠落していたのは、私だけじゃなかった。

下段からかすかな嗚咽が伝わってきた。

強く見える沙耶もまた、母を知らぬ寂しさを隠しきれずにいるのだと気づいた。


「……そっか」

声がかすれて、涙が枕を濡らした。

沙耶はそのあと何も言わなかった。

けれど、その沈黙は拒絶ではなく、むしろ私をそっと包み込むような柔らかさを持っていた。


気づいてしまう。私は沙耶に“母”を求めている。

母から与えられなかった温もりを、沙耶ならくれるかもしれない。

もし一度でも抱きしめてもらえたなら——

それだけで救われる気がする。


暗闇の中で、その想いが静かに、しかし確実に膨らんでいった。

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