第2話
幼い頃、
一度だけ第二王子に声をかけられたことがある。
礼法の稽古に励む私を見て、彼は静かに言った。
『君の姿は、きっと未来を支えるだろう』
ほんの短い言葉だったのに、不思議と胸に残り
続けていた。
だからこそ私は、王妃教育に励むことを選んだが、
未来は残酷だったーー
◆
婚約破棄の噂は、瞬く間に宮廷全体へ広まった。
とある昼下がりのサロンでは――
「まぁ、さすが冷酷公爵令嬢。慰謝料まで
請求なさるなんて」
「えぐいわねぇ。でも王太子殿下のあの態度じゃ、
仕方ないとも思うわ」
夕刻の舞踏会の控え室では――
「でも殿下は“真実の愛”を貫かれたのよ。困難を
乗り越えて結ばれるなんて、まるで物語だわ!」
「物語? 笑わせないで。
家の面目を潰された公爵家が黙っているとでも?」
廊下の片隅、杯を手にした男たちは低い声で。
「公爵家の後ろ盾を失った王太子は詰みだな」
「慰謝料の額次第では、王家の財政も揺らぐぞ」
誰もが勝手な物語を語り立てる。称賛も非難も、
恋愛譚も。
だがどの解釈であれ、視線の中心にいるのは常に
“冷酷令嬢”であった。
――噂の断片は、いやでも私の耳に届いていた。
けれどどうでもよかった。勝手に盛り上がればいい。
下手に反論すれば火に油を注ぐだけ、それくらいは
心得ている。
◆
そんな話が飛び交う中、私は夜会に参加した。
煌びやかなシャンデリアが眩く光り、弦楽の調べが
大広間を包む。
杯を手に、ひとり静かに立つ私へと、幾重もの視線が
注がれていた。
「来たわよ、例の冷酷令嬢が」
「よく来られるわね」
「王太子妃の座を自ら放り出すなんて……」
囁きは途切れることなく流れてくる。だが私は
動じなかった。
表情ひとつ変えず、淡々と杯を傾ける。
「まぁ、こんなところに」
鈴のような声が背後から降ってきた。振り向けば、
緋色のドレスをまとった令嬢がにこやかに歩み寄って
くる。
第二王子の婚約者――。
権力だけを欲することで知られる令嬢。
「お一人で過ごされるなんて、さすが公爵令嬢。
気丈でいらっしゃいますわ」
「……ご機嫌よう」
「王太子妃の座を自ら手放すなんて、大胆ですこと。
ですがもう、あなたに戻る場所はありませんわね」
その言葉に、周囲の貴婦人たちが一斉に耳を
そばだてる。
野心家令嬢は唇に艶やかな笑みを浮かべ、
はっきりと告げた。
「所詮あなたは“終わった人”。次代の王妃の座は、
この私のものですから」
会場の空気が張り詰める。
私は杯を口から離し、ゆるやかに微笑んだ。
「……この度の婚約破棄、私が“慰謝料を受け取る側”
だということをお忘れですか?」
ざわ、と大広間が揺れる。
扇を口元に当てる貴婦人、目を見交わす紳士たち。
野心家令嬢の笑みが一瞬だけ強張った。
「私は後ろめたいことなどございません」
杯を置き、まっすぐ相手を見据える。
「令嬢、私が今どんな立場にあるか――
理解されておられますか?」
私は視線を逸らさず、淡々と告げる。
ざわ、と広間が揺れた。
「慰謝料を受け取る側、公爵家の令嬢……」
「身分が違いすぎる」
「第二王子殿下の婚約者と入れ替わっても、
おかしくはない……」
「さすが冷酷令嬢、したたかだ……」
囁きが飛び交い、
野心家令嬢の笑みが一瞬で凍りつく。
私は一歩も動かず、ただ杯を口に運んだ。
◆
夜会の喧噪から離れ、中庭のひとけのない片隅に
立つ。
夜風が頬を撫で、胸の奥に抑え込んでいた言葉が
零れ落ちた。
――そもそも私が王妃として勉学に励んできたのは、
第二王子こそが次代の国王にふさわしいと信じていた
から。
第二王子との結婚を、ずっと夢見ていた。
けれど――。
「……私は第二王子の気持ちを踏みにじってまで
“狙う”つもりはないわ」
あの場では言うしかなかった。
権力だけを目的とする令嬢を、どうしても窘めた
かったのだ。
「君は、狙う必要などない」
低く澄んだ声が背後から響いた。
はっと振り返れば、
月明かりに照らされた第二王子が立っていた。
凛とした佇まい、まっすぐに射抜くような瞳。
「……殿下」
「君は十分に価値ある人だ。私の目には、最初から
そう映っていた」
「……そして今も、君こそが未来を支える人だと、
私は信じている」
夜風が一層強まり、頬が熱を帯びる。
抑えていた鼓動が、どうしようもなく高鳴っていた。
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