婚約破棄された冷酷令嬢、幸せですが何か?

福嶋莉佳

第1話


「きみこそが、僕の唯一の花だ」

絹糸のように甘やかな声がサロンに響き渡った。


王太子殿下は、

白百合を思わせる愛らしい令嬢の手を取り、

至近の距離でその瞳を覗き込む。


「王太子殿下…うれしいです」

頬を染める令嬢の仕草に、

取り巻きの貴婦人たちは小さくため息を漏らす。


「まぁ、素敵」

「よくお似合いですこと」


どこからどう見ても絵に描いた恋人同士。

完璧な恋愛譚の一幕。


けれど——。


その王太子の婚約者は、この私である。



「お前の婚約者は王太子だ。

いずれ王妃になるのだからな、しっかり学ぶように」


幼い頃からずっと父上に言われ続けた言葉。


父上に言われた通り、

私は王妃になるため一生懸命学び続けた。


礼儀作法、昼は政務の基礎、夜は歴史と法典…

舞踏や楽器も疎かにせず、

声色一つにも厳しい指導が入った。


その努力の積み重ねは、

私の振る舞いを端正に整えた。


けれど同時に、

容貌の鋭さもあってか「冷ややかな公爵令嬢」

と揶揄されることもしばしばだった。


殿下からも、差し出した茶に礼を述べた後で

「きみは可愛げがない」

と笑われたことがある。


可愛げなど、

王妃教育のどこにも含まれていない。


正しくあれと教え込まれただけだというのに…


殿下は、そんな私を好まなかったらしい。


「僕にはもっと可愛い妃がふさわしい」


当てつけかのように、

私とは正反対の柔和な令嬢を見初め、交際を始めた。


「殿下…私でよろしいでしょうか?」

そう言って潤ませた瞳で殿下を見つめる令嬢は、

令まるで夢の中にいるかのような幸福を

振りまいていた。



かつて学園の庭園でのこと。


私が何気なく視線を向けただけなのに、

彼女は小さく肩を震わせて言った。


「きゃっ…また、

公爵令嬢様に睨まれてしまいました…」


「なんだと?」殿下が慌てて振り返る。


「ご、ごめんなさい。私、何かお気に障ることを…」

涙をにじませ、震える声で。


「心配するな、君が怖がることはない。僕が守る」

そう言って殿下は、

当然のように彼女の肩を抱き寄せた。


周囲の令嬢たちは「まあ、可哀想に」と囁き合い、

視線は一斉に私へと向かう。


――くだらない


抗弁する気にもなくそのまま放置していたら、

次第に私は“冷酷無比の公爵令嬢”と

言われるようになった。


あれ以来、殿下の庇護欲は彼女に注がれ、

二人はますます親密になっていった。



そして今、衆人環視のサロンにて——。


「婚約破棄しましょう」


寄り添い見つめあう2人に向かって言い放った。


一瞬、空気が凍りついた。

サロンに集う貴族たちが息を呑む。


令嬢はぽかんとした顔で私を見ていた。


「ほら、聞いたか? 

僕たちの愛を誰も邪魔できない」

殿下は自信満々に言い切る。


「はい…」

令嬢が潤んだ瞳を向け、頬を紅潮させる。


私は氷のように冷たい声音で告げた。

「では婚約破棄に際し、

殿下には相応の慰謝料をお支払いいただきます」


「何?」


「当然でしょう。

王太子妃教育に費やした年月、家が投じた支度金、

失われた縁談の数々。すべて、

責任を取っていただきます…もちろんあなたにも」


「そんな!」

令嬢が慌てて殿下の腕に縋る。


「当たり前でしょう?

人から婚約者を奪うということはそういう事よ」


殿下は声を荒げて

「君は本当に冷たい奴だ!

彼女をいじめて楽しいか?」


「心配するな、君は僕が守る。

なんたって僕は次期国王だからな!」


「殿下!」

互いに抱き合い見つめあう二人。


…けれど周囲の空気は白けきり、

誰一人として祝福の声を上げなかった。

見ていられないというように視線を逸らす貴族たち。


私は静かに会釈をして、その場を後にした。


◆ 


廊下に出た瞬間、

胸の奥で押し殺していた溜息がこぼれ落ちる。


「終わった…」


——あの二人は、何も分かっていない。


私には殿下への未練など欠片もない。

むしろ、婚約破棄できて済々している。


私の心を占めているのは別の人。

誠実で、民を大切にし、誰よりも国を憂うあの方――


そもそも殿下が“王位継承第一位”でいられるのは、

私との婚約があってこそ。


公爵家の後ろ盾を失えば、継承権など砂上の楼閣だ。


第一位の座に就けたのは、王妃の子だから。

それだけの理由。


対して第二位の王子の才覚と人望は

誰もが知るところ。二位に甘んじているのは、

ただ母の身分が低いからに過ぎない。


だからこそ、宮廷では密やかに囁かれているのだ。


「次代の国王にふさわしいのは、あの方だ」と。


私は唇に微笑を刻む。

「ああ、やっと…あの方の時代が来るのね」


軽やかに歩みを進める足取りは、

もう振り返ることなどなかった。


あの二人のことなど、

私にとって何の意味も持たないのだから。

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