婚約破棄された冷酷令嬢、幸せですが何か?
福嶋莉佳
第1話
「きみこそが、僕の唯一の花だ」
絹糸のように甘やかな声がサロンに響き渡った。
王太子殿下は、
白百合を思わせる愛らしい令嬢の手を取り、
至近の距離でその瞳を覗き込む。
「王太子殿下…うれしいです」
頬を染める令嬢の仕草に、
取り巻きの貴婦人たちは小さくため息を漏らす。
「まぁ、素敵」
「よくお似合いですこと」
どこからどう見ても絵に描いた恋人同士。
完璧な恋愛譚の一幕。
けれど——。
その王太子の婚約者は、この私である。
◆
「お前の婚約者は王太子だ。
いずれ王妃になるのだからな、しっかり学ぶように」
幼い頃からずっと父上に言われ続けた言葉。
父上に言われた通り、
私は王妃になるため一生懸命学び続けた。
礼儀作法、昼は政務の基礎、夜は歴史と法典…
舞踏や楽器も疎かにせず、
声色一つにも厳しい指導が入った。
その努力の積み重ねは、
私の振る舞いを端正に整えた。
けれど同時に、
容貌の鋭さもあってか「冷ややかな公爵令嬢」
と揶揄されることもしばしばだった。
殿下からも、差し出した茶に礼を述べた後で
「きみは可愛げがない」
と笑われたことがある。
可愛げなど、
王妃教育のどこにも含まれていない。
正しくあれと教え込まれただけだというのに…
殿下は、そんな私を好まなかったらしい。
「僕にはもっと可愛い妃がふさわしい」
当てつけかのように、
私とは正反対の柔和な令嬢を見初め、交際を始めた。
「殿下…私でよろしいでしょうか?」
そう言って潤ませた瞳で殿下を見つめる令嬢は、
令まるで夢の中にいるかのような幸福を
振りまいていた。
◆
かつて学園の庭園でのこと。
私が何気なく視線を向けただけなのに、
彼女は小さく肩を震わせて言った。
「きゃっ…また、
公爵令嬢様に睨まれてしまいました…」
「なんだと?」殿下が慌てて振り返る。
「ご、ごめんなさい。私、何かお気に障ることを…」
涙をにじませ、震える声で。
「心配するな、君が怖がることはない。僕が守る」
そう言って殿下は、
当然のように彼女の肩を抱き寄せた。
周囲の令嬢たちは「まあ、可哀想に」と囁き合い、
視線は一斉に私へと向かう。
――くだらない
抗弁する気にもなくそのまま放置していたら、
次第に私は“冷酷無比の公爵令嬢”と
言われるようになった。
あれ以来、殿下の庇護欲は彼女に注がれ、
二人はますます親密になっていった。
◆
そして今、衆人環視のサロンにて——。
「婚約破棄しましょう」
寄り添い見つめあう2人に向かって言い放った。
一瞬、空気が凍りついた。
サロンに集う貴族たちが息を呑む。
令嬢はぽかんとした顔で私を見ていた。
「ほら、聞いたか?
僕たちの愛を誰も邪魔できない」
殿下は自信満々に言い切る。
「はい…」
令嬢が潤んだ瞳を向け、頬を紅潮させる。
私は氷のように冷たい声音で告げた。
「では婚約破棄に際し、
殿下には相応の慰謝料をお支払いいただきます」
「何?」
「当然でしょう。
王太子妃教育に費やした年月、家が投じた支度金、
失われた縁談の数々。すべて、
責任を取っていただきます…もちろんあなたにも」
「そんな!」
令嬢が慌てて殿下の腕に縋る。
「当たり前でしょう?
人から婚約者を奪うということはそういう事よ」
殿下は声を荒げて
「君は本当に冷たい奴だ!
彼女をいじめて楽しいか?」
「心配するな、君は僕が守る。
なんたって僕は次期国王だからな!」
「殿下!」
互いに抱き合い見つめあう二人。
…けれど周囲の空気は白けきり、
誰一人として祝福の声を上げなかった。
見ていられないというように視線を逸らす貴族たち。
私は静かに会釈をして、その場を後にした。
◆
廊下に出た瞬間、
胸の奥で押し殺していた溜息がこぼれ落ちる。
「終わった…」
——あの二人は、何も分かっていない。
私には殿下への未練など欠片もない。
むしろ、婚約破棄できて済々している。
私の心を占めているのは別の人。
誠実で、民を大切にし、誰よりも国を憂うあの方――
そもそも殿下が“王位継承第一位”でいられるのは、
私との婚約があってこそ。
公爵家の後ろ盾を失えば、継承権など砂上の楼閣だ。
第一位の座に就けたのは、王妃の子だから。
それだけの理由。
対して第二位の王子の才覚と人望は
誰もが知るところ。二位に甘んじているのは、
ただ母の身分が低いからに過ぎない。
だからこそ、宮廷では密やかに囁かれているのだ。
「次代の国王にふさわしいのは、あの方だ」と。
私は唇に微笑を刻む。
「ああ、やっと…あの方の時代が来るのね」
軽やかに歩みを進める足取りは、
もう振り返ることなどなかった。
あの二人のことなど、
私にとって何の意味も持たないのだから。
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