先生は将軍

スター☆にゅう・いっち

第1話

「静まれい! これより授業をはじめるのじゃ!」


 徳田信之丞は、黒板の前に仁王立ちしていた。背筋をぴんと伸ばし、古風な口調で声を張ると、その姿はまるで江戸城の大広間に立つ大名そのものだった。


「わしの祖先は将軍家に連なる高貴な血筋。貴様ら、ありがたく拝聴するがよい」


 彼の眼前には机が整然と並び、そこに制服姿の生徒たちが腰かけている。だが生徒たちは誰ひとり顔を上げない。うつむき、沈黙している。


 いや、正確に言えば――そこには誰もいない。制服の中身は空虚であり、それはただ、彼の目にだけ映る幻影だった。


 徳田は将軍家の子孫ではない。

 むしろ凡庸な家に生まれた、ただの浪人生だった。進学校を出て、教師を志し、東大を目指して四浪。しかし夢は潰え、彼は世間の視線を避けるようになった。親戚からは「もう働いたらどうだ」と言われ、友人たちは次々と社会へ羽ばたいていった。


 昼間は布団をかぶって過ごし、夜になると街をさまよう。ある晩、足が自然と向かったのは、取り壊しを待つ廃校舎だった。かつて地域の子供たちが通った中学校。窓ガラスは割れ、廊下には落書きが残っていた。


 ふと教室の扉を開けると、そこに漂うのは埃と、かすかなチョークの匂い。彼は黒板の前に立ち、ためしにチョークを手にとってみた。


 カツン、カツン――。

 黒板に字を書きつける音が響くたび、目の前に机が並び始め、幻の生徒たちが姿を現したのだ。


 その瞬間、胸の奥でくすぶっていた「教師になる夢」が燃え上がった。いや、それは教師であると同時に、自分が支配者であることの夢でもあった。


「いいか、世の中には序列がある。わしは偉大な血を継ぐ者。そしてお前たちは臣下。学び、従うのじゃ」


 幻影の生徒たちは一言も発しない。ただうつむき、彼の声に耳を傾けているかのようだった。


 徳田は熱を帯びた口調で語り出す。

 古文と歴史を教えたかと思えば、歴史の偉人を引き合いに出し、自分の人生を重ね合わせる。時には「忠義とは何か」を語り、時には「江戸幕府がいかに優れていたか」を語る。

 自分の挫折も屈辱も、講義の一部として語れば、胸の痛みが薄れるような気がした。


 生徒たちは沈黙のままだったが、徳田にはそれが「敬意ある沈黙」に思えた。


 ある夜、授業の最中に風が吹き込み、黒板の前のチョークが転がった。拾おうと屈んだ彼の耳に、微かに返事のような声が聞こえた。


「……はい、先生」


 空耳だったのかもしれない。しかし徳田は確信した。幻影の生徒たちは、確かに自分を「教師」として認めている。


 以来、彼の授業はますます熱を帯びた。歴史の講義では自らを「信之丞公」と名乗り、数学では「そなたらの未来に必要な知恵」と説き、道徳の時間には「世を生きる心得」を諭した。


 黒板いっぱいに文字を書き殴り、白い粉が宙を舞う。そのたびに月明かりが差し込み、光の粒子のように教室を漂った。


 やがて午前二時を過ぎると、彼はチョークを置き、幻の生徒たちに深々と頭を下げる。


「本日の授業、これにて閉じる。……ご苦労であった」


 返事はない。教室には風の音と、遠くで壁が軋む音だけが響く。


 だが徳田信之丞の顔は、満足に満ちていた。彼にとって、そこは夢を失った人生の中で唯一の城だったのだから。

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