第17話「影の反撃、声なき夜」

 弟がかすかに声を漏らしたその翌日、村は祝祭のように湧き立った。

 「聞いたか? あの子が言ったんだぞ!」

 「小さくても、確かに声だった!」

 広場に集まった子どもたちは真似をして「ひとつ」と叫び、大人たちは目を潤ませ、老人たちは互いの手を握り合った。

 奪われた声を返せる。囁きに勝てる。そう信じられる瞬間だった。


 だが、俺の胸の奥には冷たい影が残っていた。

 耳の底でまだ、囁きが笑っている。

 ――「ひとつ多い」。

 取引を拒んだ俺を、囁きは決して許さない。

 今度はもっと大きなものを奪いにくる。そう直感していた。



 その夜。

 広場の輪は三重に組まれ、声の訓練が続けられた。

 「ひとつ」「ふたつ」……。

 合声が重なり、囁きが割り込む余白はなかった。

 しかし「ななつ」を唱えた瞬間、空気が一斉に抜け落ちた。

 ――音が消えた。


 誰もが口を開き、喉を震わせているのに、音が出ない。

 輪の全員の声が、一瞬にして奪われたのだ。

 広場は無音。

 鈴も鐘も、子どもの泣き声さえもない。

 ただ、耳の奥で――「やっつ」と、囁きが唱えた。



 「戻せ!」

 老人が杖を振り下ろし、石畳を強く打った。

 杖の衝撃音だけが広場に響く。

 その音を合図に、皆が必死で声を押し出した。

 「……くつ!」

 遅れて、かすかな声が戻る。

 囁きが全員の声を一度に奪ったのだ。


 ミナが俺に縋った。

 「リク、もう合声じゃ足りない! 囁きは輪ごと食べてる!」

 「なら、もっと広げるんだ」

 「広げる?」

 「村全体を輪にする。家の中の声も、畑の声も、すべて合声にして重ねる」



 翌日、老人は決断を下した。

 村全体をひとつの輪に見立て、朝から晩まで拍を回す。

 子どもは遊びの中で、女は作業の中で、男は労働の中で。

 誰もが同じ拍を唱え、声を重ねる。

 「ひとつ」

 「ふたつ」

 「みっつ」

 声が村中を巡り、合声の波が絶え間なく続いた。


 囁きは割り込もうとする。

 だが、声の壁に弾かれ、痕跡しか残せない。

 「よっつ」「いつつ」……。

 村が拍を持つ巨大な器となり、囁きを押し返していた。



 だが、夜。

 再び無音が訪れた。

 今度は広場だけではない。

 村全体が、まるごと声を失った。

 犬の吠え声も、風に軋む戸板の音も消えた。

 空気が耳を押さえ、月の光だけが冷たく降りていた。


 ――「ひとつ多い」。

 囁きが村全体を舐めるように唱える。

 「ふたつ」「みっつ」……。

 俺たちの数えを、影が代わりに続けていく。


 ミナが必死に口を開き、声を出そうとする。

 だが音は出ない。

 目に涙が浮かび、震える手で俺の腕を掴む。

 俺も声を出せない。

 喉が凍りついたように沈黙している。


 ただ、胸の奥の鼓動だけが――

 「ひとつ」「ふたつ」と数えていた。



 無声の広場で、俺は悟った。

 囁きが次に狙っているのは、声そのものではない。

 鼓動だ。

 声を奪った次に、命の拍を奪おうとしている。


 老人が杖で地を叩いた。

 音は出た。

 ――杖だけは囁きに奪われていない。

 「鼓動を声に乗せろ!」

 老人が叫んだ。声は出ていないのに、心で響いた。

 「胸を叩け! 鼓動を合声にせよ!」



 俺は胸を拳で叩いた。

 ドン。

 隣のミナも叩く。

 ドン。

 輪が広がり、全員が胸を叩いた。

 ドン、ドン、ドン……。

 鼓動と重なり、無声の合声が広場を満たす。


 囁きが乱れた。

 「……よっ……つ……」

 影の声が掠れ、崩れていく。

 鼓動の合声は、声を奪えない。

 命の拍そのものだからだ。


 やがて村全体に、かすかな音が戻った。

 子どもの泣き声。犬の遠吠え。

 そして俺たち自身の声。



 その夜、広場は静まり返った。

 皆が疲れ果てて眠りに落ちたあと、俺は吊台に立った。

 囁きはまだ消えていない。

 耳の奥で微かに笑っている。

 ――「鼓動も奪える」

 「おまえが死ねば、それも返せる」


 俺は胸を叩き、囁きに返した。

 「奪わせない。俺が生きている限り、拍は俺のものだ」


 その声は掠れていたが、確かに俺の声だった。

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