第17話「影の反撃、声なき夜」
弟がかすかに声を漏らしたその翌日、村は祝祭のように湧き立った。
「聞いたか? あの子が言ったんだぞ!」
「小さくても、確かに声だった!」
広場に集まった子どもたちは真似をして「ひとつ」と叫び、大人たちは目を潤ませ、老人たちは互いの手を握り合った。
奪われた声を返せる。囁きに勝てる。そう信じられる瞬間だった。
だが、俺の胸の奥には冷たい影が残っていた。
耳の底でまだ、囁きが笑っている。
――「ひとつ多い」。
取引を拒んだ俺を、囁きは決して許さない。
今度はもっと大きなものを奪いにくる。そう直感していた。
◆
その夜。
広場の輪は三重に組まれ、声の訓練が続けられた。
「ひとつ」「ふたつ」……。
合声が重なり、囁きが割り込む余白はなかった。
しかし「ななつ」を唱えた瞬間、空気が一斉に抜け落ちた。
――音が消えた。
誰もが口を開き、喉を震わせているのに、音が出ない。
輪の全員の声が、一瞬にして奪われたのだ。
広場は無音。
鈴も鐘も、子どもの泣き声さえもない。
ただ、耳の奥で――「やっつ」と、囁きが唱えた。
◆
「戻せ!」
老人が杖を振り下ろし、石畳を強く打った。
杖の衝撃音だけが広場に響く。
その音を合図に、皆が必死で声を押し出した。
「……くつ!」
遅れて、かすかな声が戻る。
囁きが全員の声を一度に奪ったのだ。
ミナが俺に縋った。
「リク、もう合声じゃ足りない! 囁きは輪ごと食べてる!」
「なら、もっと広げるんだ」
「広げる?」
「村全体を輪にする。家の中の声も、畑の声も、すべて合声にして重ねる」
◆
翌日、老人は決断を下した。
村全体をひとつの輪に見立て、朝から晩まで拍を回す。
子どもは遊びの中で、女は作業の中で、男は労働の中で。
誰もが同じ拍を唱え、声を重ねる。
「ひとつ」
「ふたつ」
「みっつ」
声が村中を巡り、合声の波が絶え間なく続いた。
囁きは割り込もうとする。
だが、声の壁に弾かれ、痕跡しか残せない。
「よっつ」「いつつ」……。
村が拍を持つ巨大な器となり、囁きを押し返していた。
◆
だが、夜。
再び無音が訪れた。
今度は広場だけではない。
村全体が、まるごと声を失った。
犬の吠え声も、風に軋む戸板の音も消えた。
空気が耳を押さえ、月の光だけが冷たく降りていた。
――「ひとつ多い」。
囁きが村全体を舐めるように唱える。
「ふたつ」「みっつ」……。
俺たちの数えを、影が代わりに続けていく。
ミナが必死に口を開き、声を出そうとする。
だが音は出ない。
目に涙が浮かび、震える手で俺の腕を掴む。
俺も声を出せない。
喉が凍りついたように沈黙している。
ただ、胸の奥の鼓動だけが――
「ひとつ」「ふたつ」と数えていた。
◆
無声の広場で、俺は悟った。
囁きが次に狙っているのは、声そのものではない。
鼓動だ。
声を奪った次に、命の拍を奪おうとしている。
老人が杖で地を叩いた。
音は出た。
――杖だけは囁きに奪われていない。
「鼓動を声に乗せろ!」
老人が叫んだ。声は出ていないのに、心で響いた。
「胸を叩け! 鼓動を合声にせよ!」
◆
俺は胸を拳で叩いた。
ドン。
隣のミナも叩く。
ドン。
輪が広がり、全員が胸を叩いた。
ドン、ドン、ドン……。
鼓動と重なり、無声の合声が広場を満たす。
囁きが乱れた。
「……よっ……つ……」
影の声が掠れ、崩れていく。
鼓動の合声は、声を奪えない。
命の拍そのものだからだ。
やがて村全体に、かすかな音が戻った。
子どもの泣き声。犬の遠吠え。
そして俺たち自身の声。
◆
その夜、広場は静まり返った。
皆が疲れ果てて眠りに落ちたあと、俺は吊台に立った。
囁きはまだ消えていない。
耳の奥で微かに笑っている。
――「鼓動も奪える」
「おまえが死ねば、それも返せる」
俺は胸を叩き、囁きに返した。
「奪わせない。俺が生きている限り、拍は俺のものだ」
その声は掠れていたが、確かに俺の声だった。
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