第38話【誰が為の未来】
空は白み始めている。
朝方までやっている銭湯と蕎麦屋。
面倒を見てくれる女を持っていない大雅にとっては、有難い存在である。
あまりに大雅が常連なので、特別に蕎麦を丼ごと持ち帰らせてくれるのだ。
次に銭湯に行く時に丼も持って行く。
世の中というのは、上手く回っているものだ。
自分の家の、大したことのない門をくぐり大雅はおや、と思った。
誰もいないはずの家に明かりが付いている。
とはいえ、
予想通り、奥の囲炉裏の部屋には
御所にも
「お前は相変わらずいい塩梅で現れるな。
上手い握り飯と卵焼きあるぞ。蕎麦屋の出汁と鰹節をふんだんに使った……」
入って行くと、こちらは珍しい客がいた。
「
「借りてるぞ」
「久しぶりだね、大雅」
溌春は小さく笑った。
大雅は腕を組む。
「なんだお前ら揃いも揃ってこんな時間に……」
呆れたように彼は言った。
「来るならもっと早くに来いよ。だったらもう少し飯買って来てやったのに」
「いや。我々のことは気にしないでいい。場所だけ借りる」
「湯を貰ってるよ」
溌春が茶碗をこちらに見せたので、大雅は肩を竦めた。
「全く、陰陽師なんてのは強欲なんだか欲が無いんだか分からん連中だな」
大雅は珍客二人を構わないことに決めたらしい。
囲炉裏は彼らに貸して、銭湯で使った布を部屋の中に干し、隣の座敷の火鉢の側で持って来た蕎麦、握り飯、卵焼きを広げた。
「……御所にいるのは、その
話を再開し、溌春が尋ねると瑞貴は頷いた。
「俺達の見立てが間違っていなければな」
「
「……。今回のことですでに死者が二人出ている。
【
結界の支柱となる三つの要を作り上げ、強力な術域を生み出す。
【安倍晴明】殺しの痕跡が無かったのは、すでに二つの支柱が完成しているからだ。
感知出来なかったのはそもそも強力な結界に守られている御所の中に術師がいるから。
出産を控えて常葉女御は奥の院に移った。
強い光の中に埋もれて、俺は見逃していた」
瑞貴は額を押さえる仕草をした。
「お前が常葉女御と那智殿の繋がりに気づかなかったら、三つ目の支柱まで完成していたやもしれん。ゾッとする」
「……しかし三つ目の支柱が完成し【
「【三界呪】は結界術としては最高位の一つ。
俺でも容易くは打ち破れない」
「ですが御所には他の【安倍晴明】がいます。
安倍家の陰陽師達も。
多くの者の力を合わせれば……」
「奥の院の宝殿が気掛かりだ。
あそこには無幻御所の秘宝、三種の神器が納められている。
中でも【
三種の神器は
日本建国に関わる創始の
八百年前に起きた【
防ぎようもない天災の中の、千年に一度の厄災を、防ぎきるほどの霊力を秘めている。
人の技の及ぶ領域にはない」
「つまり……」
「【安倍晴明】や安倍一門が【
「神器が奥の院の宝殿にあることは……」
「当然、知っているはずだ」
「
「
これは本当なのだと思う。
天帝の御世になった時、神楽岡家は貴族として当然、自分の家から
修学院の寺に美しい双子の娘がおり、一人は霊力が強いため魔統化を許さない家の決め事から呼び寄せられなかったが、もう一人は霊力がほぼ無く、並の人間だった」
「神楽岡家に呼び寄せられたのが常葉女御、呼び寄せられなかったのが音羽殿ですか」
「負い目もあったのかもしれないが、
気掛かりなのが常葉女御だ。
……音羽はあくまでも、表立って動けない状況にあった。
だが御所におられる常葉女御ならば、遠い縁戚関係もあるのだからと、入内の後蓼原那智を御所に呼び寄せるのは容易い。
那智を呼び出したのが常葉女御ならば、彼女も音羽の企みに絡んでた可能性もある」
「那智殿の遺体も確認せねばなりませんか」
「いや。その心配はない。同じ術師なら追える。先ほど得た灰が役に立つだろう。
しかし現時点の見立てでは、遺体は同じように蓼原家の墓には無いと思う。
御所のどこかに埋もれているはずだ。
そして音羽と常葉が共謀していたにせよしていなかったにせよ――、どこかで音羽が常葉女御と入れ替わった。
二つ目の【支柱】はこの時に完成した。
この段階で音羽の周囲には、守りの壁が出来つつある。
探索の手が及ばなくなったのはそのせいだ。
人の命そのものを使った呪具は強力だからな」
瑞貴が引っ掻き棒を使い、囲炉裏の炭の上に『小さな円』と、それを囲む『点』を三角に描いた。
「……三つ目の【支柱】には『誰』を使うつもりでしょうか」
「誰でもあり得る。奴は人間の身体を命ごと術式に組み込んでいる。死んだ直後に呪を施せば、一定時間は人間すら式神のように使役することが出来る。
【安倍晴明】を殺していたのは、常葉の使役する人間の姿をした式神かもしれん。
特に蓼原那智の方は、機才殿にさえ見い出された高い霊力を持った陰陽師だ。
器としては強力だし、式神の使う術は生身の人間とは違う。
だが幸い、御所には今、生き残っている【安倍晴明】が三人いる。
私の兄弟子で皆、優れた術者だ。
この際協力を仰げば
溌春お前は蛍姫の側にいろ。音羽とは私が対峙する。
奴を封じ込めるつもりだが無幻御所の内部でここまで魔の領域を誰にも悟られず生み出した術師は初めてのことだ。何が起こるか分からん」
「蛍殿にはこれから御所に行ったら八坂の屋敷に戻って頂きます」
「『管弦の宴』を共に見るのだろう。宴には
溌春は眉を寄せた。
「瑞貴殿……それはこれからでも幾らでも出来ることです。
しかし此度のことは命が掛かる。私もお供します。
蛍殿は…………必ず分かって下さる」
瑞貴は少しだけ笑んだようだ。
「……話の分からん奴だな。
俺に何かあった時は、その時はお前に頼むと言っているんだ」
溌春は瑞貴の横顔を見て、思わず息を飲んだが、すぐに目を伏せた。
「どうあっても共に行きます。
貴方に万が一のことが起これば、天帝の大きな守りが崩れる。
天帝はご自分だけではなく
貴方は未来の天帝の守り手でもあるのです。
ここで失わせるわけには行かない。
真剣に訴えて来る溌春の顔を瑞貴は見返し、少しだけ苦笑した。
「お前は思っているよりずっと頑固な奴だな」
「共に行きます」
引き下がらなかった溌春に、やがて瑞貴は小さく頷いてみせた。
「未来の天帝の守りなどどうでもいい。
無幻京が壊れれば、人の世の帝など、意味など無くなる」
ハッとして二人は戸口を振り返った。
会話を聞きながら、蕎麦を食べていた
いや、いた。
小さな狐がいつの間にかそこに優雅に寝そべっていたのだ。
大雅は目を丸くした。
「これは珍しい。
一瞬は身構えたものの、瑞貴と溌春はすぐに警戒を解いた。
「仲間などという大層なものでは無いが……何のつもりだその姿は」
「私の神々しい姿を見ると、人間の目が潰れよう。
だからこうして普通の狐に化けてやったのだ。
私の計らい、有難く思え人間どもよ」
「私は天帝の守護者だ。私の前で天帝の悪口を言うな。調伏するぞ」
「やかましいわ
蕎麦を食べていた
「浅葱って瑞貴のことか。お前、あんな格の低い色の狩衣着てるからそんなあだ名を付けられるんだぞ」
「うるさい。誰が何と言おうと俺はあの色が美しくて好きなんだ。放っておけ」
「何か御用ですか」
「何が『何か御用ですか』だ。凡愚め。
お前はまだ御所のことなどに頭を悩ませているのか。
それ以外のことなど全てどうでもいい。どうせ
「どんな乱暴な理屈なんだその考え方は……。腐っても貴様、無幻京に君臨する【
瑞貴が眉を強く顰める。
「【
貴方の考え方では、無幻京さえ守れればそこに住まう人々の人生など、救った未来で後から何とかなるかのように聞こえますが、その未来の人間たちは過去の人間の血や想いを受け継いで繋がっているのです。
だから今、目の前にいる人を救うことは無意味などではなく、意味があることです。
その人達が救われない今が連なって、未来だけ救われて、何になりましょうか。
その頃にはその救った未来で幸せに暮らせる人たちがきっといなくなってしまう」
眉を顰めていた瑞貴が、溌春の方を見ていて、ふと目が合うと表情が緩んだ。
瑞貴は優しい表情をしたが、溌春は妙に居心地が悪くなった。
つい心を入れて話してしまったが、長い間無幻京から離れて、何の責任も負わずのんびりと自分の暮らしをして来た人間が、なんだか大層なことを言ってしまった気がする。
「……すみません。喋り過ぎました」
「いや。そんなことはない。私もそう思うよ。
目の前の若い命も、所詮十年、二十年後には誰かの親で誰かの祖父だ。
彼らを救ってこそ未来が輝く。
――というわけだ。
今はこちらが取り込み中だから、全て終わってから出直してくれ。
行くぞ、
邪魔したな
「おお。何だか知らんが大変そうだが。頑張れよ」
瑞貴と溌春が出て行ったが、そこにいた銀の狐は残り、囲炉裏の側に寝そべっている。
「お前は出て行かんのか? 人語を喋るということはお前も物の怪の類いなんだろうが、俺は生憎あいつらと違って物の怪だの陰陽だのには疎いからな。相談事は勘弁してくれ」
「物の怪でも毛繕いとかするんだな」
【九尾の狐】は囲炉裏の火を見つめる。
揺れる火の、時折混じる黄金色の輝き。
炎は生と死の螺旋だという。
そこに生み出されると、一瞬ずつに生と死を繰り返す。
炎が時折輝くのは、輝く生や、輝く死が時折生まれるから。
『今を救わず、未来を救って何になる』
【九尾】は輝く炎から目を背けるように、目を閉じた。
「……全く人間の血とは忌々しい。
何故時をこれだけ経ても、同じことしか言えぬのか」
微かに聞こえて来た呟きに大雅はそっちを見たが、銀狐は何も言わず眠りに入ったらしかった。
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