第30話【高貴なる女】
朝、目が覚めると辺りはまだ少し暗かった。
溌春はゆっくり起き出すと、使った寝床を軽く整え、
着替えを済ませた。
白み始めるまで少し時を待とうと思い、庭に面した襖を開く。
冷気は感じたが、
朝霧が薄く立ち込める中、そこに広がっていた池を眺めていると。
視界の端で何かが動いた。
霧に溶けるような白い着物を着ている。
瑞貴だった。
池に張り巡らされた朱色の橋の上にジッと佇んでいる。
御殿の側の池なので声を出せば聞こえる距離だったが、
御所のまだ目覚め切ってない朝に自分の声を張り上げるのも躊躇われ、
溌春は静かに襖を閉じると、部屋を出た。
回廊を通り、途中の木道を下りて池の方に歩いて行く。
ある所で瑞貴は気配に気づいたらしく、振り返った。
瑞貴は小さく笑ったようだ。
二人で軽く頭を下げ合う。
「もう目が覚めたのか。お前も朝が早い」
「山暮らしの癖のようなものです」
「そうか。私は都暮らしだが夜も遅いが朝も早い。
眠っているより起きていることの方が好きなのだ。
特にこうして人が目覚めていない時間はいい。
溌春は軽く声を出して笑った。
それを見て、昨日より随分溌春の張り詰めていた空気が解けた、と瑞貴は思った。
「少し御所に慣れたか。野宮。一晩寝ただけだが、昨日より明らかに肩の張りが減ったように見える」
溌春は瞬きをしてから、小さく微笑む。
「瑞貴殿の顔を見たので」
瑞貴が首を捻った。
「なんだそれは」
「貴方が稲荷山を尋ねて来た時の顔をよく覚えています。
私をはっきりと疑っていらした。
その次訪ねて来た時も。
三条大橋で不意に再会した時には、そういうものが少なかった。
次に会う時はもっとです。
そして今出会った時、笑って下さったのを見て、
私を信じて心を許して下さってるのを感じられた。
それが嬉しくて」
言われた言葉を逡巡して、瑞貴が驚いたような顔を見せ赤面した。
「おまえ……そんな風に何でもかんでもはっきりと口に出すな。
見透かされているようで恥ずかしくなるだろうが」
溌春は笑っている。
「別に見透かしてはおりません。私は、貴方が見せて下さるものを見てるだけです」
瑞貴は咳払いをした。
この話は終わりだと言うように、別の話を切り出した。
「どうだ、どうせどっちも起きているなら散策がてら
戻って来てから朝餉にしよう」
「構いません」
池からも通り抜けていけるということなので、二人は歩き出した。
御所を出て南へ向かう。
瑞貴は思い出した。
「そういえば……お前、この前蛍殿に文を預けて一人で
私もそんなに堅苦しいことは言わん質ではあるが、相手はお前の許嫁でも大納言家の姫なのだから。いくら重要な文でも使い走りのように使ってはいかん」
「一人で?」
溌春は知らなかったようで、瑞貴の顔を見る。
「そうだ。一人で来たぞ。供も付けず、単独で馬で来た」
暢気なもので、額など押さえている。
「いえ……そうでしたか……すみません。いえ、勿論そのようなことはしたつもりはないのですが。私は確かに文は預けましたが、大納言家の人を伴うと思っていて……」
「なんだそうなのか。またお前は女心の分からんことをと説教しなければならないのかと思っていた」
「その……、何と言いますか、……あの方は、そこに佇んでおられれば可憐な大納言家の姫に間違いないのですが、見た目よりもずっと行動力のある方です。そういう自分を好んでおられる。だからこそ、私などの元に来て下さったわけですが」
「そういえば八坂の屋敷も抜け出したとか言っていたな」
「
瑞貴はさすがに声を出して笑ってしまった。
「今時そのような女子がいたのだな。大したものだ」
「今聞いても全身に冷や汗が出る……」
聞いた感じだと、溌春は蛍に対して「彼女は大納言家の姫なのだから、大切に扱わなくては」という気持ちはあるようだ。
どちらかというと蛍が自主的に、人の世と関り薄い溌春に会いに行く為に抜け出して会いに行ったりしているらしい。
「蛍殿は本当にお前のことが好きらしい」
微笑ましそうに瑞貴は言った。
今度は溌春が赤面する。
「はい……それは……その、……とても嬉しく感じますが、あまり私の為に無理はなさらないで欲しいとは思っています……」
「そういえば聞いたことがなかったが、蛍殿とはいつからの付き合いなのだ?」
「私が【
別に何かを想像していたわけでは無いのだが、瑞貴は少し意外だった。
「そんなに前からなのか? いや、お前が御所を出てから嵯峨野に行ったことは聞いたが、何か身を寄せた祖母君の関係からの出会いかと」
「いえ。蛍殿とは仙洞御所の庭で会いました。あの方もまだ小さかった。大人たちの夜宴は退屈だったのでしょう。いつも抜け出してこられて、私も眠れぬ夜に庭を散策するのが趣味でしたから」
瑞貴が足を止めた。
「瑞貴殿?」
数歩歩いて、溌春が気づき振り返る。
「何故蛍殿が
「……? 何故とは?」
「仙洞御所は女人禁制だ。童でもそれは例外にはされない。
ましてや当時あそこは安倍機才殿が管理されていたのだ。厳格にそれは守られたはず」
ああ、と溌春は笑った。
「蛍殿もそれは知っておられました。ですから仙洞御所の建物内に入ったことは一度もない。いつも庭先で遊びました。雨が降ると庭に出られないので、蛍殿はいらっしゃらないのです。私は雨は嫌いではないのですが、あの頃はそういう理由で、雨が少し疎ましかったですね」
溌春は十分な説明をしたつもりだったので歩き出そうとしたが、瑞貴は首を振る。
「……いやそうなるともっと話がおかしい」
「え?」
「お前はどこから蛍殿が来ていると思っていたのだ?」
少し瑞貴の喋り方が固くなった。
何か気の障ることを言っただろうかと溌春は身を正す。
「仙洞御所には上がられないので、対面の
仙洞御所の側にある、別の御所だ。
本当に庭を挟んですぐそこにあるため、確かに宴席など催せば楽の音すら聞こえる距離だ。
子供の足でも行き来出来る。
「大宮御所は今から五年ほど前まで、
長く闘病されていた為、居を移されたのだ。
それからここ二十年ほど閉じられて使われていない」
「閉じられていたというのは……」
「封印されていた。浄化の儀を行い、次に門を開く時には帝の一族を改めてお迎え出来るようにと。実際今は帝の幼い姫君が住まいにされている。開封されたのはたった三年ほどまえのことだ」
「知りませんでした」
「封印を行ったのは機才殿だぞ。聞いてないのか」
溌春は首を振る。
「蛍殿は密かに抜け出して遊びに来て下さっていたので、訳を聞きにくかったのです。
自分がここに来たことも絶対に秘密にしてほしいと念を押されたので……あれこれ姫の素性を詮索すると、嫌われて、もう会いに来てくれなくなると思った」
『大納言家の末の姫に、物の怪が憑りついている』
昨夜全く意に介さなかった、姉の言った言葉が思わず頭に過った。
「では……蛍殿はどこからいらっしゃっていたのでしょう?」
「
「ですが……」
「子供の足で夜行き来出来る距離ではない。衛兵もいるし、必ず見つかる。この通りを見ろ。隠れる場所もない。
――溌春。来い。仙洞御所は後にする」
「瑞貴殿?」
瑞貴は行く方向を改めてから歩き出した。
元の道を戻って紫宸殿に向かっている。
溌春がついて行く。
「もう一つ聞きたいことがある。この前蛍殿が蹴上の私の屋敷に来て下さったが、お前がちゃんと伝えぬからあの方は最初御所に私を訪ねて来たそうだ。
昨日会っただろう、遠矢という私の侍従が訪ねて来たあの方に会っている」
「いえ。私は蛍殿に、瑞貴殿は蹴上の屋敷におられると伝えました。
蹴上に行って来ると言ってちゃんと出て行かれましたよ。
……瑞貴殿? 何を考えておられます?」
溌春は足を止めた。
瑞貴も少し離れた所で、止まる。
背を向けたままだ。
「昨日お前と後宮の三人の女御と会って、また一つ確信が持てた気がする。
あの方たちは呪術とは無縁だ。私は何も感じなかった」
溌春も小さく頷く。
「……私もそう思います」
「私の姉に、例の
主に血筋のことだが。これはお前と系譜の関りが無いかを調べる程度だ。
本流の女なので、恐らく古くとも記録は残っていると思う。
調べればわかることだ。
これでお前と全く関わりがなければ、私は一度あの【九尾】が口にした『高貴な位の女』という言葉は忘れようと思っていた。
それよりも今一度御所をくまなくお前と探索した方が、手がかりが掴める気がしたからな。仙洞御所はまだ見ていなかったし」
「はい……」
「これから
「!」
「一度蛍姫とお前の【桔梗院】時代の話をしてみたい」
「瑞貴殿、どういうおつもりですか!」
歩き出した瑞貴の腕を溌春が掴んだ。
振り返った瑞貴の顔は、親しみを感じさせるような色が消え、一番最初の疑うような表情に戻っていた。
「今一度聞いておくが、お前の【桔梗院】時代、特別高貴な位の女に会ったことは心当たりがないのだな?」
「ありません! 私が【桔梗院】時代に向き合ったのは陰陽道と闇の眷属たちだけです! だから逃げ出したのです。嘘じゃない!」
「彼女も『高貴な位の女』だ」
溌春は息を飲む。
瑞貴は彼を睨んでいたが、不意に自分の腕を掴んでいた溌春の手を、手の甲で押しやるような仕草をし、遠ざけた。
腕を組む。
「彼女があの日御所に来たのは事実だ。
明らかに私に会うために御所に来ていない。
何のためだとお前は思う?」
溌春に少しの迷いもなかった。
「三番目の姉上が
私と違って、蛍姫は別に家族と疎遠であるわけではないのです。瑞貴殿。
今回も倒れた私を八坂の屋敷まで送ってくれましたが、蛍姫も、家の方たちも……それは本心では不安なことはあるでしょうが、私を親切に迎え入れて下さいました。
それは、蛍姫が是非にと願って下さったからなのです。
あの方の願いだから八坂の方たちは私を屋敷に入れて下さった」
「いい答えだ。私も彼女が御所に来たのだとしたら、理由はそれだと思う」
瑞貴は溌春の抗議のような言葉を静かに受け止めた。
「そこまで分かっていらっしゃるなら何故……」
「実際には蛍姫は
これは御本人が言っておられたから間違いない。入内されてからは蛍姫は一度も女御とお会いになっておられない」
会ってないと言われて、溌春は眉を寄せたが、すぐに首を振る。
「ご本人が仰るならそうなのでしょう。ですが何か理由があってそうしたことです」
「つまり、その理由を私は聞きたいだけだ」
「今のあなたは、蛍殿を疑っておられます! そんな貴方を彼女の元に連れて行けば、私もあの方を疑っていることと同じです! あの方を傷つける!」
「……別に同じではないだろう。私は疑っているが、お前は疑っていない。それでいい。
理由を聞いて二人とも納得すればそれで終わる」
「瑞貴殿! 私が嫌なのです!
貴方ほどの方が【九尾の狐】の言葉を理由に、
蛍姫に疑惑の目を向けていらっしゃることが!
貴方は余程素性怪しい私を信じて下さった。
御所に連れて来て、帝にまで引き合わせて下さった方です。
私が幼い頃とんでもない罪を犯したことは事実なのです。
疑惑じゃない。私は許されないことをしでかした。
実際に起きたことだ。
そういう私を、この世でたった一人信じて下さった方が、
蛍姫です。
あの方を疑うくらいなら、【九尾】に喰い殺された方が私はマシです!」
温和な溌春がそこまで言ったので、さすがに瑞貴は息を飲んだ。
瑞貴も幾度か蛍には会った。
優し気な眼差しの、器量も性格もいい姫だったと思う。
彼女が溌春と一緒になった理由は驚きの連続ばかりだったが、
一途な女ならば好きになった男をどこまでも信じることはある。
今も猛烈に何か彼女を疑ってるわけでは無いのだ。
しかし、分からないことがあるし、
姉の言った通り、腑に落ちないことが並んでいる。
そこまで考え、自分自身が姉に言った言葉が帰って来た。
疑い事が十個二十個並べば、自分を疑うのかと。
「溌春……」
「瑞貴殿。信じてください。
蛍姫は心清き方です。そして心優しき方です。
あの方はご自分が稲荷山の庵に来たことを、私に詫びておられました。
理由が分かりますか?」
溌春が一歩、瑞貴に近づいた。
「私が無幻京を離れた理由が、私自身の犯した不名誉に家族たちを巻き込まないためだとあの方は考えられたからです。その私の元に、ご家族に大切に愛されて生きて来た自分が、その想いを無下にして――飛び出して来たことを、疎ましく思われたのではないかと詫びて下さったのです!」
溌春の瞳から一つ、雫が零れた。
悲しみの涙というより、それくらい心が必死だったからだろう。
感情の昂ぶりから生まれたものだった。
「私が去ってくれと言ったら、
あの方はすぐに去ったでしょう。
あの方は誰かを苦しめてまでご自分の心を押し通そうとなど、
決してなさらない方です。
呪いなどとは最もかけ離れた所にいらっしゃる!」
「溌春」
瑞貴の手が溌春の肩に置かれた。
静かな声で呼ぶ。
真っすぐに瞳を合わせた。
「全ての呪いが憎しみから来るのではない。
優しさや大切に想う心が生み出す呪いもある。
そこに何か呪体が現われた時――大切なのは悪しきものか正しいものかではない。
一体誰が生み出しているものなのか。その本質を正しく捉えるのが陰陽師の仕事だ。
蛍姫が優しい人間であるかどうかはこの際関わりない。
彼女が呪術の
私が知りたいのはそれだけだ」
「……。」
「蛍姫のことを信じて想っているなら、
分かるだろう。
あの方は我々とは違う。普通の人間だ。
知らずのうちにそういう轍の中に囚われている可能性がある。
それが何か間接的にでも潜在的にでも呪いに関わっているならば、
あの方なら私やお前に自分を大いに調べて確かめて欲しいと思うはずだ」
溌春の瞳が初めて揺らいだ。
「蛍姫を信じていないのは、お前の方だ。溌春。
そのようなことをすれば彼女を傷つけ、心を遠ざけられると思っているのだろう。
だが真に愛する相手ならばそんなことにはならない」
「…………貴方には……分からない……」
溌春が瞳を反らす。
「……貴方のように、生まれた時からずっと、片時も離れず光の中を歩いて来た人には、私のように暗がりを歩く人間の心は……。
貴方は陰陽師として闇の道を歩いても、なお、輝いているのだから」
瑞貴は溌春の肩から手を離した。
「片時も離れず光の中を歩いて来た、か」
小さく笑う。
一瞬表情を緩めたが、天帝の寵愛を受ける若き陰陽師は溌春を強く見据え直した。
「私たちは名高き安倍家の陰陽師だ。
陰陽師らしいやり方で、この話に決着を付けよう」
「陰陽師らしいやり方……?」
「
溌春は息を飲んだ。
「陰陽師は自分の目で見て、聞くことで、【
お前の師――
お前は言ったな。私の目はすでに何かを捉えていると。
捉えていても、私自身がそれを認識出来ねば、その存在は無いことと同じになる。
優れた陰陽師はその時は例え認識出来なくとも、一度どこかで目にしていたり、聞いていたり、脳に記憶として刻み込んでいれば、来るべき時にそれを引き出すことが出来る。
此度の無幻京の怪異に関わるものは、流星のように捉えにくいものだ。
定期的にどこかに流れているが、刹那的で捉えにくい。
兆しが光った瞬間に見つけねばならない。
全身全霊で集中しなければ流星の姿をその目で見ることは出来ない。
蛍姫が御所に来て、何をしていたか、お前の探索術で明らかにしろ。
姫を信じるお前の力で、私の疑念を晴らしてみせろ」
溌春は厳しい表情をした。
「私には……、無理です。陰陽術は本当に、御所を離れた時から封じて使っていません」
「やる前からゴチャゴチャ言うな」
瑞貴が右腕を上げ、宙に呪印を描いた。
判を押したように正確な呪印を輝く指先で描くと、霊力を送り込む。
「!」
光が一瞬発露し、
瑞貴の腕に一羽の鳥が舞い降りた。
瞳が
呪印から呼び出されたということは瑞貴が普段から飼って使い込んでいる式神なのだ。
自分の使役としてこうして飼うこともあれば、
不意にそのあたりのものを呪術により一定時間、使役し式神として使う方法もある。
しかしその場合は、普段から術師の霊力によって飼われている式神の方がより強い力を発揮する。
ほとんどが探索のような役回りだが、力のある式神ならば守りの術を展開したり、敵を攻撃することも出来た。
「私がどんなに安倍機才に憧れているかは知っているだろう。
お前は機才殿の最後の弟子だ。
私はどんなに願ってもあの方の弟子にはなれなかった。
一度機才殿の愛弟子と競ってみたかったのだ」
瑞貴の瞳が青く輝いている。
「お前の次は、私が探索に入る。
蛍殿とは数度会っただけだが、十分『姿』は捉えきれている。
幼い頃に会った縁の強さを見せてみろ。野宮。
蛍殿はただの人間なのにその縁だけを頼りに護国結界の外までお前に会いに行った。
腐っても陰陽師の端くれにあるお前が、御所を確かに訪れていた蛍殿の気配を追えんなどという言い訳はさせん」
まだ動かない溌春に、瑞貴は舌打ちをした。
「御所に今、不穏な噂が流れているのを知っているか?
『大納言家の末の姫に物の怪が憑りついている』のだと」
溌春の瞳に、怒りの感情が出た。
衣の袖を捌き、溌春はその場に片膝をつく。
地に、手を突き目を閉じた。
(式神を使わずに探索するか。面白い)
流れでこのようなことになったが、瑞貴は真実の心で、一度野宮溌春の陰陽術を見てみたいと思っていたのだ。
式神を使えば、それを操るだけではなく式神自体が呪気を察知することも出来る。
つまりそれだけ探索の『眼』が増えるわけだ。
溌春の術は【
一定範囲の気の流れを広範囲に探ることが出来るが、この御所のように人が密集している場所では効力は薄い。
山中や荒野、辺境の地で何かを探索するのに適している術なのだ。
御所内には陰陽軍団の本拠地さえあり、強い霊力を持った人間も御所は多い。
その中でたった一人を的確に探し出せたとしたら、確かに才ある術師と言えるだろう。
地の上に手を突いた時はまだ、迷いのある顔をしていたが、目を閉じ、ある所で溌春の表情と空気が変わった。
(霊力)
溌春の身体から霊力の気配が吹き出して来るのを瑞貴は感じた。
溌春は普段、側にいてもほとんど霊力を感じない。
瑞貴も霊力を内に秘める術などはとっくの昔に会得しているのだが、溌春は今まで陰陽術を行使する所を見たことがなかったので、これほどはっきりと霊力を纏う所を初めて見た。
いや。
一度だけ溌春の霊力を強く感じたことがある。
【九尾】が襲い掛かって来た三条大橋で。
溌春はあまり顔色を変えない男だったが、今は険しい表情を浮かべて目を閉じている。
それほど真剣に、必死に集中しているのだろう。
(蛍どの……)
来たかどうか分からないのなら自信がなかったが、
この数日のうちに彼女が御所に来たのが事実ならば、
必ずその気配を見つけられるはずだ。
――むしろ見つけてやれず、どうするのだと思う。
これが何か、彼女が危機に陥って動けなくなっていたり、行方が知れなくなったりしていた探索ならば。一度捨て去った陰陽術を引きずり出してでも、見つけ出してやらなくてはならないことだ。
強く、溌春は集中した。
今の彼女の姿を思い出そうとして、
不思議なことに、
頭に思い浮かんだのは仙洞御所で初めて会った時のことだった。
『どうしたの?』
陰陽師の修業が辛すぎて、耐えられず、夜中に庭の隅で泣いていた。
振り返ると一人の少女が佇んでいる。
泣き顔で振り返ったのに彼女は優しい表情で手を差し出して来てくれた。
『大丈夫?』
私も一人なの、と彼女は笑う。
御所には遊び相手になるような年頃の子がいないから。
貴方がいてくれて嬉しい。
『わたしは蛍』
彼女の名前を教えてもらった時の光景が蘇った時、
溌春はハッと瞳を開いた。
顔を上げる。
「――捉えたか?」
溌春が人差し指で土に触れた。
自分の足元から縦に一本、引く。
次にその中ほどからもう一本は真横に。
そして次に、十字に区切られた図の、左上のある場所に点を付ける。
瑞貴は背後に回ると、溌春の背から同じ視点でそれを見下ろした。
安倍家の探索図の描き方だ。
自分自身を中心に世界を捉える。
蛍が訪ねて来たのならば御所に印が付くはずだが、全く真逆の方角についている。
瑞貴は一瞬、その図を見た時に背中がざわりとした気がした。
彼女が今いるはずの八坂方面でもない。
八坂方面ならもっと西南だ。
印は、北西に付いていた。
印をなぞるように、瑞貴がその方向に向かって指先を伸ばす。
その指の先に建物が見えた。
瑞貴はどこかで、蛍というあの姫を自分もやはり信じていたのだと思った。
溌春などは更に強く信じ抜いている。
その溌春が、蛍とは全く縁のないはずの場所を示した。
(安倍機才が見い出した子供)
才があっても心が闇の恐怖に負け、この地から去った。
心を尽くして行使した術が、
――今は才を示す。
溌春自身も、集中してた時はそんなことを考える余地もなかったが、醒めれば、自分が示したことの意味は理解したらしい。
恐らく溌春が予期していたのは『東』か、『西南』だったはずだ。
瑞貴も予想はそうだった。
「……瑞貴どの……、……あの場所は……?」
微かに声が震えた。
瑞貴は答える。
彼は背筋は一瞬震えたが、紡ぎ出した声は静かに落ち着いていた。
「――――【
この二十年余り封じられていた場所。
蛍はまだ二十年、生きてもいない。
護国結界を張り直した偉大なる安倍機才が封印し、
三年前に開封されたばかり。
今は帝の幼い姫君たちが、強い守りの宿ったその場所で過ごしている。
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