第29話【姉の不安】
「瑞貴」
夜中、明かりが密やかに掲げられた
「姉上もやはり安倍家の血ですね。女なのにこんな夜中に眠気が来ないとは」
「風邪を引きますよ」
「大丈夫です。自分の体のことは心得ていますので。
今しがた来たばかりですし。冷え切る前に部屋に戻ります」
「……。」
数秒沈黙が落ち、瑞貴は
「なにか?」
「少しいいですか、瑞貴。尋ねたいことがあります」
「どうぞ」
ちら、と美景が
「
すぐに瑞貴は言った。
美景も名門の娘として心をひた隠す術を心得ているが、それでも冷泉家の末の弟には心を読まれる。
「この前は私も会ったばかりであったし、素性がまだ分からなかった。
ですから疑う心もありましたが、あれから色々と話しました。
今では人柄を信頼しています。さもなくば、私が御所に怪しい者を連れて来るとお思いですか」
静かに、彼は言った。
「正直な所、私は野宮殿の素性をまだ疑っています。幼い頃無幻京を出て、何をしていたのかも分からぬし、今も護国結界の外で住んでいる。安倍家の人間ならば護国結界の外がどんな世界かは分かっているはずです」
「姉上」
「……けれど、構いません。貴方が連れて来たのです。それだけで私の疑念があろうと、あの方を信じてここに置く理由になります」
「……。では何のお話でしょう」
「遠矢から聞きましたが……一昨日ここに八坂の大納言家の姫が訪ねて来たそうです。
貴方を訪ねて来たと。聞きましたか?」
「八坂の大納言家の姫……ああ、蛍姫でしょう。
大納言家の姫自ら文を届けるなどおかしいと姉上が思われることは分かりますが、此度のことは目を瞑って差し上げてください。あれは溌春からの文であり、私も受け取り読みましたから内容は分かりますが非常に重要な、大切な文だったのです。
真面目で健気な方なので、溌春に頼まれて誰にも預けるわけには行かないと思ったのでしょう。
安倍家の姉上ならば分かっていただけるはずです。
私も重要な文は自分で相手に届けることがある。
他人に預けても、式神にちゃんと届けられたか監視させることもある。
陰陽師は髪の毛一つからでも呪術を展開出来る。
文などは他人の手に渡りやすい。当然警戒するのです。
姉上……。
大納言の蛍姫は、野宮溌春の元に行かれたことは、余程の覚悟です。
あの方は護国結界の外、伏見の稲荷山の山中にある野宮溌春の庵に、屋敷を抜け出して行かれました。どのような暮らしをしているか、ご存知ですか?
野宮は普段は薬師として生計を立てている……。
つまり薬草や呪い花を植え、育て、日常のことはあの二人は、全て二人だけでやっています。庵には召使の一人としていないのですよ。
野宮が薬師の仕事で家を留守にすることもあります。
蛍殿は一人であの屋敷に残っておられるのです。
私などは子供の頃からの習性と、陰陽師としての修業のお陰で今や闇夜を恐れもしませんが、そんな私でも大納言家で大切に育てられた若い娘が、深き山中の庵でたった一人で夜を越せるなど正直驚きます。
蛍殿はそれほど、野宮を想っておられるし、陰陽師としての力も信じておられるのでしょう。強い守りを感じているのです。
さもなくば大の大人でも耐えられぬ者は耐えられぬ環境です」
「それです」
「それ?」
ふと、姉を静かに諭していた瑞貴が目を瞬かせた。
「普通の、裕福な家の娘が耐えられるはずがない。貴方も今言いましたね?
宮中に……不吉な噂があるのです」
「不吉な噂?」
「大納言家の末の姫に、物の怪が憑りついていると」
声を落として、美景が囁く。
「姉上……」
身内の眼で見ても、姉の美景は宮中の女たちの罪のない噂話を真に受けて、一緒になって楽しむ性格はしていなかった。
冷泉家の家風なのだが、男も女も性格は厳格だ。
末の瑞貴は、兄弟の中でもむしろ大らかな方だった。
姉も女性としては冷静な
だからこそ、瑞貴は眉をひそめた。
本来そんな噂を持ち込んで来ない姉だったからだ。
「野宮殿は、確かに安倍家の一族。機才様が見込んだ弟子ならば物の怪や呪術の類いから自分の身を守れる術をお持ちでしょう。ですが、大納言の姫は普通の人間です。
八坂の末の姫の姉君が
私は今日、直接話を聞きに行きました。
麗景殿の女御様は、妹の身を案じておられましたよ。
それに……」
「他にも何か?」
「遠矢が八坂の姫は貴方に会いに来たが会えなかったので、麗景殿の姉君にご挨拶をして帰ったと言っていました。今日女御様にお会いしたら、妹君とは御所に上がられてからは一度もお会いになっていないと聞きました」
「では会ってないのでしょう」
瑞貴が言う。
「遠矢は帰りがけ、今挨拶をして来たと言われたと言っていました」
「姉上……蛍殿が溌春の元にいる事情は複雑です。単に帝とも縁ある姉上に、遠慮されただけかもしれないではないですか。溌春も御所に来るのは随分遠慮していた。
あの二人は好き勝手生きているのではないのですよ。ああ見えてどちらも周囲の人間には気を遣う。しかも後宮は今、常葉女御が子を身籠られておられる。
野宮は陰陽師は廃業し、薬師として生きていますが、護国結界の外で暮らしているのは確かです。
姉上も仰った通り後宮におられる姉君や帝に、万が一瘴気に触れる自分が関わってはいけないと遠慮されたのでしょう。無論御所の結界は強力で瘴気などを容易く入り込ませませんが、人として賢明なご判断と言える。
何故姉君に会わず帰ったことを怪しいなどと今回に限って仰るのですか」
「怪しいことが一つなら、怪しみません。偶然にあったことで人は片付けます。
しかし怪しいことが三つも四つも重ねれば、そこには偶発的ではない、何らかの意図を人は見つけるものなのです」
「なるほど。その説明はよく分かりました。
では姉上は、私に何か怪しいことが三つ四つ重なったら、
私のことも疑われるのですか」
「貴方を疑うわけないでしょう。例え何か不審なことが百個あっても疑いません」
瑞貴は苦笑する。
「それは何故です」
「貴方は私の弟です。人柄を知っています。
信頼出来る人間だからです」
「……姉上。私があの二人を信じる理由も同じです」
「でも」
瑞貴は首を振った。
「もう何も仰られますな。
姉上、私を信じておられるならば、溌春と蛍姫のことも信じてやって下さい。
それともこの安倍瑞貴があの二人に出し抜かれてるとお思いですか」
美景は押し黙った。まだ難しい顔をしている。
「……分かりました」
「姉上。【安倍晴明】が三人も殺められた。
敵はそれほどに力あるものです。
だから強く不安に思われている。そのお気持ちはよく分かります。
ですがどうか、安倍家と御所が平穏を保てるよう、姉上が計らって下さい。
主上と無幻京は、何があっても私が守りますから」
「ええ……」
「すっかり冷えてしまいましたね。部屋まで送りましょう」
瑞貴が立ち上がる。美景もそうした。
「その巻物は?」
瑞貴が持っているものに気づいた。
「安倍機才殿が残された遺品の、特に書物の目録です。
重要なもの故書き写した時に記録を取ったものであり、御所に運び入れられたものは全ての記録を取っています。
先ほど主上の遣いが届けてくださった」
「何かを探しているのですか?」
「はい。溌春の話では機才殿が、若い頃から無幻京各地を己の足で歩いて記録を取った、『妖魔伝』という記録書があったはずなのですが、御所の書庫にも、安倍家の書庫にもその本が無かったので、目録で確認を」
「あったのですか?」
瑞貴は首を振った。
「目録の中にはありませんでした。御所に運び込まれてもいない。移す過程で紛失したのでしょう。機才殿の遺品故、扱いは厳重にされていたはずでしょうが……しかし、よりによって消え去ったのが『妖魔伝』というのが気になる」
姉の部屋の前まで来ると、瑞貴は一礼した。
美景は部屋の中に入る。
「明日は仙洞御所に溌春を伴います。
溌春は幼い頃、機才殿が管理されていた【桔梗院】で暮らしていた。
色々と思い出すこともあるでしょう」
「瑞貴。これからも溌春殿と親しく付き合うならば、一度蛍姫と会わせて下さい。
いいでしょう? どのような方か、この目で見てみたいのです」
「……断る術、なさそうですな。
退屈しておられるご様子の姉上に、では二、三頼みごとをしてもいいでしょうか?」
「貴方が頼み事とは珍しいこと」
「今は色々手が足りぬので。
「七百年前ですって?」
「千年都である無幻京にとっては、さして昔のことではありませんよ。守護代には記録が残っているはず。特に彼女の前後の血筋について、系譜を確かめて欲しいのです」
「……分かりました。もう一つは?」
「今申し上げた『妖魔伝』について行方に知らないか、
「分かりました。聞いてみましょう。
溌春殿のことは、話しても良いのですか? 無幻京に戻って来ていると……」
「構いませんよ。しかしその際、黎明帝にも挨拶を済ませ私の助手として此度の怪異を追う手伝いをしてくれているということも、きちんと伝えておいてください」
美景は頷いた。
「そうしておきましょう」
「ありがとうございます。では、今日はこれで失礼いたします」
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