二切れ目

人から褒められて純然たる気持ちを抱ける幼さを私は捨ててしまった。私が勘繰る意図はすべて私にとって不利なものばかり。何かのバイアスがかかっているのか、はたまた事実なのか、確かめる術は私には、世界にはない。


人は宇宙である。すべてを知り得ることはない。だから断定しないといけない。すべてを推測で語ることしかできない。高い声で鳴けば楽しいなどという法則に相手を閉じ込めることでしか知った気にすらなれない。それは事実などというものではなく、ただの推測でしかないことに自覚的な人間ほど、口数が減る。言葉について考えれば考えるほど、こうして言葉を紡ぐ馬鹿らしさを肌で感じる。


ほんのひとかけらの言葉で誤解され、勘違いされ、決めつけられるこの世界で、楽しく言葉を喋っている私たちは気が狂っている。この言葉を使う病を治す薬を開発するべきだ。死という対処療法しかない現状を変えたまえ


ただ言葉を喋っただけなのに私みたいな愚かな人間に存在すらしない言葉の裏側を決めつけられて、それを本当の意味として受け取られる可哀想な世界。


音は振動でしかないのに、そんなものにすら意味を与える意味。実存の恐怖に負けた人間の愚かさよ。意味がないものを意味がないままにしておけない人間の弱さよ。自らが神に成り変わったような気になって、世界に意味を与えていこうとする。


宗教が狂気の象徴のように扱われていて、私は発展と平和を感じる。神の存在を認めないと生きていけないような苦痛を味わう人が少ないということは喜ばしいことだ。


人は原罪を抱えているというが、いつまでも神が林檎如きで罪を与え続けるとは私は到底思えない。よく考えてみると、皆同じ罪を抱えているではないか。生誕の罪。この世という物を続けてしまう罪。生まれながらにして呪われた子として我々は生きていくしかない。


エクスタシーにこそ神の影があると、気が狂った人間の行き着く先はいつも似ている。あの心地よさに神を見出したくなる気持ちもわかるが、随分と不敬なものよ。


自ら道化を演じるものほど気が狂いやすいものはない。彼ら彼女らその他は可哀想だ。生存戦略の一部とはいえ気が狂ったふりをさせられ、最後には正気ではいられなくなるのだから。自らを道化た呼称し、自分を蔑む人間ほど、自らをうまく愛せない人間はいない。


正気だの狂気だの世間が貼ったラベリングをそのまま使って何かを下げるようなことを言うのはあまりにも楽しい。こんなに愉快なら地獄までラペリング降下したって構わない。その狂気すら社会が生み出したもので、狂気を狂気と呼ばずに正気だという世界線もあるというのに簡単に切り捨ててしまうところには憧れてやまない。


孤独だと感じる。途方もなく寂しい。私も皆みたいに誰かと結ばれてみたかった。信用してもいいと思える人に一生を捧げてみたかった。一度で構わないから、心の底から信用できる誰かと、永遠を誓ってみたい。


どれだけ体が近づこうが、どれだけ相手の事を知った気になろうが、結局は何も知ることはできないのだから、変わらない。誰も周りにいなくても、人に囲まれていたとしても、他人との距離は常に一定でしかない。常に他人は私の手の届かない位置にいる。それはすごく寂しいことだ。私も他人の手に触れて温かみというものを感じてみたい人生だった。

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星空の断片 三井しろ @mitui_siro

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