ある人の幸せ

しーぶる

ーー前編ーー

 これは、ある一人の人間の物語です。


 いきなりですが、物語に入る前に一つだけ。

「ある一人の人間」という呼び方が長いので、ここからは一文字で呼べる三人称である「彼」に統一しますね。


 では、改めてーー


 外から見た彼は特別ではないですが、その内には異質なものがありました。

それは、人生を物語と感じる価値観です。


 さらに彼の中には、物語の主人公・執筆者・読者が存在しました。

どこまでも一人で完結していたのです。


 彼は今、幸せを感じています。

それが他人から、社会から見た幸せとは違うものだと知っていても。


 では、なぜ彼は幸せを感じているのでしょう。

彼にとっての幸せとはなんでしょう。


 もし興味が湧いたら、ぜひ続きを読んでみてください。

この物語があなたにとって、面白いと感じるものであってくれたら、そうであってくれたら嬉しいなと考えつつ、この物語を紡いでいこうと思います。


 では始めましょう、彼の物語をーー



 ーーあるとき彼が生まれました。

父親と母親がいたから、彼が生まれたのです。


 しかし彼が生まれたことで、父親は去っていきました。

生まれたばかりの彼には、なぜ父親が去っていったのかを知る術はありませんでした。


 そして、母親だけが残ったのです。

母親は生きるために、朝早くから夜遅くまで仕事をしました。

……彼を児童保育所に残して。


 幼かった彼は、その時の出来事を詳細には覚えていません。

しかし、ただ暗く無機質な恐ろしい感覚だけは、彼の心に残っていったのです。



 ーーそんなある日、暗闇の中にいた彼に光が差します。

それは祖母の存在でした。


 祖母は彼の現状を知り、このままではいけないと手を差し伸べてくれたのです。

そして叔父と住む、小さなマンションに彼を迎えてくれました。


 その日から、一人だった彼の世界には祖母と叔父という他人が現れます。

祖母はずっと彼と一緒にいてくれました。

叔父は彼に遊びを教え、毎日一緒に遊んでくれました。

……そうして彼はようやく、人と生きることを知ったのです。


 しかし人と生きるということは、必ず何かが起こるものです。

いつも通り彼が叔父と遊んでいるときに、いつもとは違うことが起こりました。


 彼が叔父に勝ってしまったのです。

その時、叔父は見てわかるほど不機嫌になりました。

いつもニコニコしている叔父しか知らなかった彼が、初めて見た叔父の顔。

……それは衝撃の体験でした。


 その不機嫌は、自分の行動が引き出したもの。

彼にとって自分の行動で人をここまで変えてしまう可能性があるのか、という恐怖を植え付けられる体験だったのです。


 その体験以降、彼が叔父との遊びで心から楽しむことは無くなりました。

表は今までと変わらず楽しんでいるように、しかし内では相手の地雷原を探り、踏まないように避けるサバイバルのような緊張感を持つようになったのです。


 この頃から彼は行動をするときに自分がしたいことではなく、相手が何を望んでいるのかを考えるようになっていきました。

何をしたら喜ぶのか、何をしたら不機嫌になるのかという考え方をするようになり、相手を観察する目を育てていったのです。


 そんな日常を過ごす中、ある日彼は友達を家に呼びました。

そして彼は友達と話している中で、つい叔父の悪口を言ってしまいました。


 それは彼にとっては悪意のない、ただの軽い愚痴だったのかもしれません。

幼い子のよくある愚痴、ただ場所が悪かった。

……狭い家であるがゆえに叔父にも聞こえてしまったのです。


 その夜、彼の価値観を決定的に変える出来事が起こります。

彼の目の前で叔父が姿見を殴り割り、そして彼の頭を鷲掴みにして言ったのです。

「なんか文句あるのか。あるなら今、目の前で言ってみろよ」……と。


 この出来事は彼のトラウマとなりました。

自分の何気ない本心が、人を豹変させてしまうことに対してのトラウマ。


 このトラウマによって、彼は明確に気付いたのです。

自分の何気ない行動や本心で、人をここまで変えてしまえることに。

その力の大きさに恐怖しました。……これは危険なものだと。


 その出来事があった後も変わらず、毎日遊びに誘ってくる叔父。

彼にとって、もう叔父との遊びの時間は安心できる楽しいものではなく、生きるか死ぬかの戦場の只中にいるような緊張感を持つようになっていました。


 そして小学校低学年という幼い彼には、自分の家という、常に叔父がいる空間は安心できる場所ではなくなっていたのです。


 この出来事によって、彼は他人に対して本心を隠すようになりました。

それが過去の叔父との遊びの体験によって得た考え方と合わさって、本心を隠して、相手の期待通りの自分を演じていれば誰もおかしくならない、安全だ、という生存戦略のような生き方をするようになっていきました。



 ーーそんな彼ですが、壊れることはありませんでした。

なぜなら祖母の存在があったからです。


 祖母は保育園の送り迎えを毎日してくれたり、買い物に一緒に行ってくれたり、精神を病んでしまった母親の代わりに、小学校の行事にいつも参加してくれました。


 だから彼は、小学校でも普通に過ごせていたのです。

友達もいるし、世間から見て平凡な小学生を自然とできていました。

家での安心がない彼にとっては、家の外は安心できる場所だったのです。


 しかし、また彼の価値観を変える出来事が起きてしまいます。

それは小学高学年の林間学校にて、彼は友達との悪ふざけで禁止されていたゲーム機を持ち込んでしまいました。


 そのことは学校側にバレてしまい、彼は叱られます。

そこで終わればよかったのですが、ゲーム機の所有者でもあった彼は主犯だったため、学校から祖母にも連絡がいき、禁止されていたルールを破ったという事実が伝わってしまったのです。


 彼は「おばあちゃんにも叱られるけど、悪いことをしたし仕方ない」と考えていました。……しかし彼の予想に反して、祖母は彼を叱らなかったのです。


 それどころか、ずっと泣いていました。

「こんな環境で育ててしまったから、悪いことをするようになってしまったのね。全て私が悪いの。ごめんね」……と、謝罪の言葉を繰り返しながら。


 このとき、彼はまた学んでしまいます。

自分の行動によって、大切な人まで傷つけてしまうことを。

……自分の行動は、自分だけのものではないのだということを。


 そして彼は、祖母が自分に申し訳なさを感じていると知り、自分に対しての心の壁を感じてしまいました。

さらに祖母もまた、壊れてしまう可能性がある人だと理解してしまったのです。


 以降彼は、祖母相手にも本心は話さなくなっていきました。

話すと壊してしまう可能性があると、すでに学んでいたから。


 この出来事は彼にとって、新たなトラウマとなりました。

自分の行動一つで大切な人を壊してしまうことを、身をもって知ったのです。


 彼の行動は、もう彼だけのものではありません。

だから彼は周囲の環境や人を守るために、自分はどう行動しなければいけないかという考え方をするようになっていったのです。

……その結果、家では叔父相手に良い子を演じ、家の外でも周囲の期待に応え、誰が見ても良い子を演じるという、常に演じ続ける彼が始まっていきました。



 ーーその後も彼は、平凡な学生生活を送っていきます。

友達もいて、成績も普通。たまに失敗することや人とぶつかることはあっても、学校や社会のルールを破ったり、誰かをいじめたり、いじめられたりなどの決定的な問題は起こさない。……どこにでもいる、普通の良い子として。


 しかし彼は、心の中で常に違和感を感じていました。

学校の行事では、自分だけは毎回必ず祖母が来ていること。

友達との交流の中で見る家族の姿が、自分の全く知らないものばかりだったこと。


 ……何より彼がおかしいと感じていたのは、「人との関係性を、その場を普通に過ごすためのものとしか考えていない」とでも言うような、自分の行動でした。


 彼には凄く仲の良くなった友達が何人もいました。それこそ、相手の家にお泊りに行くような仲の友達が。

……しかしクラス替えなどの環境の変化が起こって、定期的に会わなくなると、相手への興味が全く無くなり、自分から相手と繋がりを持とうとしなくなるのです。


 ……それはさながら、その場を安全に過ごすためだけの契約のようなもの。

そのせいか彼の人間関係において、長く続く縁など滅多になかったのです。


 そのため彼は、「もしかしたら自分は、冷酷な人間なのではないか。相手のことを役割としてしか見ていないのではないか」……と、自分自身に恐怖を感じていました。


 その頃から彼は、「自分は周りと比べて、根本的な何かが決定的にズレているのではないか?」と考えるようになり、現実ではなく夢の中にいるようなフワフワしている感覚を常に抱くようになっていきました。



 ーーそれでも、彼は普通に過ごしていくのです。

しかしある時、普通ではいられなくなる決定的な挫折を味わうことになります。


 それは、大学生でのこと。

彼は勉強についていけなくなったのです。


 それでも今までの彼なら周りの期待に応えようと、普通で在り続けるために頑張っていたでしょう。……けれど、その時は頑張ることができませんでした。

なぜなら、人生が終わるのではないかという恐怖があったからです。


 ……もしかしたら、ここまで読んでくれたあなたは気づいてくれているかもしれませんが、彼の家庭は裕福ではありません。


 そのため大学の学費を全て、奨学金という名の借金で補うつもりだったのです。

……なぜ、彼がそこまでして大学に進学したのかというと、高校での成績が良く、周りから「推薦で進学するだろう」と期待されていたからでした。


 ……彼はこれまでの経験から学んでしまっていたのです。

生きるために必要なことは、自分の望みではなく、誰かからの期待に応え続けることだと。


 その生存戦略を実行することでしか、生き残れないと思い込んでしまっていた。

だから彼にとっては、周りの期待に応えることは当たり前になっていたのです。


 そして、その時までは問題なく生きてこられたために、彼自身「どうにかなるだろう」と金銭面について、浅はかな考えで進学をしてしまったのです。

……だから、この出来事は必然であり、彼が自分で考えて行動することを放棄してしまったが故の、自業自得という名の罰であったのかもしれません。


 そして彼は大学を中退します。

……彼自身が「まだ終わりたくない、生きたい」と願ったからこそ、逃げたのです。


 それは彼が死なないために殺した心を、今度は生き残るために生み直した瞬間でもありました。……この出来事から、彼は失った心を取り戻していくのです。



 ーー彼は心を取り戻しました。

しかし一度殺したものが、元の状態で完全に生き返ることはありません。

どこまでいっても、心を殺したという事実は残り続けるのです。


 ……そのことを彼は身をもって痛感するのでした。

なぜなら心を取り戻したはずの彼が、自分の好きなものや嫌いなものについて尋ねられた時にハッキリとは答えられなくなっていたのですから。


 それは長年、心を殺し、誰かに合わせ続けていた影響故なのでしょう。

自分の感情が誰かに合わせているものなのか、それとも自分が感じているものなのか、それすらも彼はいつの間にか判断することができなくなっていたのです。


 それでも彼は何かをする際に少しずつ、自分の心が何を感じているのかということに、意識を向けることができるようになっていきました。


 この頃、彼の中で明確に変わったことがあります。

……それは、心の中での反省会でした。


 これまでも彼は人と過ごした時間の後、一人になった時に常に心の中で行動の反省をしていました。


 いままでの反省会では自分の行動によって、相手がどう思う可能性があるかを主軸として考えていました。

ですが、その頃から彼の反省会は自分が何故そのような行動をしたのか、その行動によって相手はどう思う可能性があるのかというものに変わっていったのです。


 この些細な変化は彼の中で、自分の心の動きに関心を持つようになったという確かな変化でした。

今までは反省会を必要なものとして行っていた彼でしたが、その変化以降、自分の心を知るための大切なものとして、その時間は増えていくのです。


 しかし、人の心が感じることは良いことばかりではありません。

喜怒哀楽といわれるように、心は様々な感情を感じるものです。


 そして使い方を間違えれば、人は誰かを傷つける行動を起こしてしまうのです。

……感情に、心に飲み込まれてしまって。


 それは、彼にも例外なく起こりました。

……彼はある時に、ふと思ってしまったのです。

「自分の家庭が裕福であれば大学を中退することもなく、普通に生きられたのではないか。……裕福でないのは、自分の責任なのか」


「そもそも、こんな複雑な家庭環境になっているのは誰のせいだろう。生まれる場所は選ぶことができないのに」……と。


 そうして彼の心には疑念の花が咲きました。彼の大切な存在の方を向いて、咲いてしまったのです。


 ……彼は、そのことに恐怖しました。

自分が生きるために選んだ行動の責任を全て、祖母のせいにしようとしている自分の醜さに。


 その上、彼は感じていたのです。

その責任を全て感情のままに他人に押し付けてしまったとき、生きるために必死だった自分さえも否定してしまうことになるのではないかと。


 自分の歩んだ道を無かったことにしてしまうことが……本当に空っぽになってしまうことが、怖くなったのです。


 その恐怖と虚しさに耐えることができず、「このままでは、自分が祖母を傷つけてしまう。それだけではなく、自分が自分でなくなってしまう」と彼は考えました。

……だからこそ彼はその思いを抱いてしまった直後に、実家を離れて一人暮らしを始めたのです。

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