第11話 鏡の底に潜むもの

 夜の校舎は、ただの虚ろな建物ではなかった。


 窓ガラスに映る教室の中は現実と少しずれて、机や椅子が歪んで見え、そこに座るはずのない人影が、息を潜めて揺れていた。


 怜司は、その鏡のように黒光りする窓の前で立ち止まった。


 肩越しに悠真が小さく息を呑む。


「……見える?」


「うん。誰かいる。いや、"誰か"じゃない……もっと、変な感じだ」


 窓に映る“それ”は、怜司自身の姿だった。だが、目の奥が闇でくり抜かれており、笑っている口は耳まで裂けている。


 悠真は思わず怜司の手を握った。冷たく強張った手が、現実に彼がここにいることを教えてくれる。


 悠真の内に宿る異能は、この「世界の裏側」を見抜く力をさらに強めていた。最近は、昼間の学園でさえ、廊下の隅に立つ“影”がちらつくようになっている。


 まるで現実とゲーム世界の境界が、誰かに引き裂かれているように。


 ──それは、どこかで聞いたことのある都市伝説だった。


 この学園の七不思議の一つ、【鏡の底に囚われた生徒】。


 彼らは現実から消え、代わりに“偽物”が戻ってきて日常を続けるのだ、と。


「怜司……これって、七不思議の一つ、だよね」


「たぶん。でも、これはもう噂のレベルじゃない。本物だ」


 怜司の映し身が、窓の内側からじっと見ていた。


 不意に、その“影”が口を開く。声は出ていないのに、意味だけが怜司の頭に突き刺さる。


 ──おまえは、こちら側だ。


 ぞっとする冷気が背筋を走った。怜司は悠真の手を強く握り返す。


 悠真は必死に微笑もうとしたが、その瞳の奥に宿る恐怖は隠しきれなかった。


「怜司……俺、怖い。でも……一緒にいる。離さないよ」


「……ありがとう。悠真。俺も離さない」


 二人の掌は強く結ばれる。だがその瞬間、校舎全体が軋むように鳴り、廊下の奥から靴音が響いた。


 規則正しく、重い音。──まるで、誰かがこちらに歩いてくるような。


 けれど、廊下に姿はない。音だけが、確実に近づいてくる。


 悠真と怜司は息を潜める。


 やがて、見えない“何か”が二人の真横を通り過ぎた。冷気が肌を撫で、鏡の中の偽物がにやりと笑う。


 怜司の声が震えた。


「なぁ怜司……これ、本当にゲームの世界なんだよな? 俺たち、ただプレイしてるだけなんだよな?」


 怜司は答えられなかった。


 現実と幻想の境界がすでに壊れ始めている──その確信が、胸に黒い影を落としていたからだ。


 窓の中の怜司が、今度は悠真を見つめる。


 裂けた口がゆっくりと動いた。


 ──そいつは、いずれおまえを裏切る。


 悠真が怯えたように怜司を見た。


 怜司はただ、必死に首を振る。


「嘘だ……信じるな。俺は絶対にお前を裏切らない」


 しかし胸の奥で、小さなささやきが生まれていた。


 ──だが本当にそうか?


 廊下の蛍光灯が一斉に明滅した。世界が崩れる音がした。


 二人は手を握り合ったまま、暗闇に呑み込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る