第4話 囁く影

 翌朝の学園は、普段と何ら変わらない日常のざわめきに包まれていた。


 廊下を走る後輩たちの声、教室に差し込む暖かな陽射し、電子黒板に表示されたままの文字――けれど悠真にとって、それはもうただのありふれた平凡な「日常」ではなかった。


 裏界の赤黒い空、影の獣、そして怜司と交わした言葉の数々が、現実と同じ重さで胸にずっと居座っている。


 休み時間。窓際に座る蒼真はいつも通りの涼やかな顔で数学の教科書を開いていた。


 けれど悠真は、その横顔を意識するたびに胸がざわつくのを抑えられない。


 ただの憧れではない。戦いの中で触れた手の温度が、どうしても離れてくれないのだ。


「何だよ? 俺の顔に何かついてる?」


 ふいに怜司が視線を向けてきた。


「っ……な、なんでもない!」


 慌ててノートに視線を落とした悠真の耳が赤く染まるのを、怜司は確かに見ていた。


 その眼差しには、ほんの一瞬だけ戸惑いの色が揺らいだ。




 放課後、二人は再び裏界へと足を踏み入れた。


 今日は体育館の裏庭が歪み、巨大な藤棚のような影の樹が天を覆っている。根は蛇のようにうねり、地面に絡みついていた。


「……気配が違うな」


 怜司の声が低くなる。


「昨日までの“試練”とは別だ。何か得体のしれないものが俺たちを狙っている」


 次の瞬間、樹の幹から現れたのは、狐面をつけた細身の妖異だった。


 白衣のような衣を纏い、指先から黒い糸を伸ばしている。


「契約者……二人目とは珍しい。面白い」


 嗤う声は、男女の区別もつかぬほど歪んでいる。


 糸が空を裂き、二人へ襲いかかった。


 怜司は剣を閃かせ、悠真は矢を放つ。しかし、糸は意志を持つかのように避け、背後から絡みついてきた。


「くっ……!」


 悠真の腕が縛られ、弓が弾き飛ばされる。


 凍てつくほど冷たい糸が肌に食い込み、呼吸が乱れる。


 その瞬間、怜司が駆け寄り、身を盾にして糸を斬り払った。


 糸の切断面から黒煙が上がり、怜司の制服の袖は裂け、腕に血が滲む。


「怜司!」


 悠真は思わず叫んだ。


「大丈夫だ……お前を守る」


 息を荒げながらも、怜司は微笑を浮かべる。その姿に、悠真の胸は苦しくなるほど締めつけられた。


 恐怖よりも強く、怜司を失うかもしれないという思いが突き上げる。


「……もう、守られてばっかじゃ嫌だ!」


 悠真の叫びとともに、両手に再び弓が現れる。


 矢先は、先ほどまでよりも眩く黄金色に輝いていた。


 狙いを定め、狐面の妖異の胸を撃ち抜く。


 閃光が裏庭を白く染め上げ、妖異は断末魔を上げて消え去った。


 静寂が戻る。


 極度の緊張と体力消耗でふらついた悠真を、怜司が支えた。


「……無茶するな。だけど、見事だった」


 至近距離で囁かれる声に、悠真の心拍は早鐘のように鳴り響く。


「俺……お前に守られるだけじゃなく、隣に立ちたい」


 無意識に口を突いて出た言葉に、怜司の目が驚きで揺れた。


 だがすぐに、柔らかな微笑に変わる。


「なら、俺も隣に立つ。――ただし、もう傷つけられるな」


 その言葉は契約の誓いのように胸に刻まれ、悠真は熱を帯びた息をゆっくりと静かに吐いた。


 裏界の空に、また不穏な赤黒い星が妖しげに瞬いていた。


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