第2話 お題 「黄菖蒲 梅雨 別れ」

「またおいで。私はずっと、ここにいるから」


 姿かたちは見えなくても、ずっとずっと、君と一緒にいるから。



「おねぇちゃん…嫌だよ…ぼく、離れたくないよ……」


「泣かないで、泣かないで。また晴れた日にでも、一緒にいよう?」


「ぅ~~~!やだ、きょうはやだぁ~~~!」



 子供は無邪気で、とても敏感ね。些細なことで、気づいてしまうの。でも、それを伝えるわけにはいかないの。ごめんね。


 ゆっくりと優しく、なだめながら空を見上げる。薄暗い曇天。今にも振り出しそうな空の彼方に、あの日の空が重なる。



ーーーーーーーーーーーーーーーーー



 余命一年。


 白血病の私は去年、そう告げられた。

 昔から病弱だった私は、何をしてもすぐに体調が悪くなって、ずっと部屋にいた。人とのつながりもほとんどなくて、何かに対して興味を示すことも、あまりなかった。ただ普通に日常を紡ぐ。その些細な暇をただ、愛していられたから。


 高校になってもよくならなかった私は初めて病院で精密検査を受けて、それでやっと発覚した。ステージ4。もう末期も末だった。

 私はあえて投薬を選択しなかった。自然経過で、そのまま死んでしまおう。そう、思ったから。


 なぜかはわからない。でもそうしたほうがいいような気がして、従った。

 あれから特に何かが変わったわけでもなかった。今まで放生気味だった両親が過保護になったくらいで、劇的に変化があったわけじゃない。



 ある日、雨の中ふとした気分で外に出てみた。ただ何となく、歩きたかったから。


 小学校の頃の通学路、友人の家、つぶれた駄菓子屋、黄色帽を買える店、ただ記憶のままに点々と歩いた。

 山のふもとの小さな神社。黄菖蒲がきれいな池の端に、男の子が傘もささずに座っていた。



「ねぇきみ、どうしたの?」

 しゃがんでゆっくりと傘を差しだしながら笑って見せた。できるだけ害意の無いように、怖がらせないように。

 ゆっくりと顔を上げた少年。小学校五年生くらいだろうか。まだ10ほどの少年が映した瞳の絶望に思わず声が出そうになる。まだ小さいのにこんなに深く世界を見ているのか。そう驚いてしまう。


「行かなきゃ、ダメなんだ。行きたいんだ。やりたいこといっぱいあるのに、何も怖くないはずなのに、吐いてしまって、苦しくなって。迷惑かけちゃいけないから、元気な姿で居たいから、頑張らないといけないのに。僕の何がダメなんだろう」



 にっこにこの笑顔、明るい声色。あまりにも異質だった。

 細部に潜む苦しさと瞳の奥の絶望は、普通なら気づけないくらいにひた隠されていた。誰がこんな仮面を望んだんだろう。誰が何を彼に望んだんだろう。きっと彼は素直なんだ。敏感なんだ。素直に全て受け止めて、全部やろうとしてしまってる子なんだ。自分のことには何も気づけてないじゃないか。


 悲しさと怒りに気が狂いそうになった。


「無理に笑わなくていいよ。頑張らなくてもいいよ。ゆっくりでいいから、全部できなくてもいいから、君がやりたいようにいていいんだよ」


 自然と口から言葉がこぼれていた。その勢いのまま彼をやさしく抱き留める。少し驚いたような震え以外に彼は動かなかった。


「僕は、僕だよ。何も頑張ってなんかいない。これがしたいことなんだ。これが本心なんだ。だから、大丈夫だよ?」


「だいじょうぶなんかじゃない! 全然大丈夫じゃないよ! 苦しいときは苦しいって言っていいんだよ。誰かを裏切ったっていいんだよ。それが本当に本心なら、そんな顔するわけないでしょ…!」


「僕、笑えてない?」


「違う!違うの、そうじゃないの…。それ自体が苦しさなんだよ…」


「? わかんないや」



 ずっとずっと頑張り続けてたのかな。それが当たり前になるなんて、苦しさでしかないはずなのに、それすらも当たり前なんて、考えられない。私は苦しみとかあんまわかんないけど、それがどれだけ苦しいことかってことくらいは安易に想像がつく。きっとその何十倍も彼は苦しい思いをしてきたんだろう。

 ただ、繋ぎ留めてあげたかった。気づいてほしかった。本当に笑ってほしかった。その一介の手助けにしかなんなくても、君の本当を聞きたかった。



「もうだめだーってかんじたら、苦しくなったら、気持ち悪くなったらここにきて。私はいつでもここにいるから」


 ただ彼の心の寄り添えになれるように。逃げ場になれるように。



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 あれから一年経ったんだ。いろんな話を聞いて、いろんな思いを話した。ずっといじられ続けてたことも、悔しかったことも、好きなことも、人の思いに敏感なことも。


 とてもいい子で、まっすぐな子。だから周りに押しつぶされて、被り物をかぶってしまった。まだ彼はそれに気づけていないけど、気づかせてはあげられなかったけど。

 前に街で見かけたときは、私と話す時よりもずっとずっと大人びていてびっくりしたけど、あの表情ならきっと大丈夫。いつか自力でも気づけるはず。


 だから、そろそろお別れ。そう思っていたのだけど、派手に泣き着かれちゃったな。



「大丈夫、梅雨が明ける頃にはまたここにいるから、ね?」


「絶対、だよ?」


「うん、絶対」



 守れない約束、守ることのできない約束。でも、それでいい。


「じゃあ、またね」


「またね、おねぇちゃん!」


 遠ざかる後ろ姿は、初めて会った時よりもずっとずっと大きくなったけど、あの優しさだけはずっと変わらなかった。


「さて、私も頑張らないとね」


 しずくに揺られる蕾。もうすぐまた、あの黄菖蒲が咲きそうだ。

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30 min challenge 蒼鉛 @thiku

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