拝啓友人様各位

貝塚伊吹

拝啓友人様各位

 此の手紙を見つけたといふことは、貴方は私の書斎に足を踏み入れ、まるで宝物でも探すかのやうに奥まで進み、机の抽斗を開けたといふことでせう。その机は南の窓の下に置かれ、無造作に置かれた書類の山が、貴方の好奇心をくすぐつたことでせう。そして、最も大きな抽斗にまで手を伸ばした結果、今、貴方はこの便箋を手にしてをる——一体どんな思ひでそこに至ったのでせうか。きっと、私のささやかな痕跡が、貴方には思いがけぬ発見であつたことでせう。


 此の書き附けは、決して遺言状の類ではございません。別れの挨拶でもなく、また、貴方方に赦しを乞ふものでもございません。ただ一つの通知に過ぎぬのであります。


 此度、何の前触れもなく姿を晦まし、さぞ御迷惑をおかけしたことと存じます。御心配をお掛けすることになりましたのも、偏に私の不徳の致すところであり、此処に書き附けることの外、貴方方へのお詫びのしようもございません。


 さて、世の中には、姿を消した者よりも「姿を消した者に対する自分の態度」に酔う人が多いものです。慌て、騒ぎ、さも心を砕いてゐるふりをしながら、内心では「自分は善良だ」と安堵してゐる。私はその芝居がかった光景から遠く離れたくて、かうして筆を執つてゐます。誰も気づかぬ静かな場所で、ただ己の道を選んだまでのことです。

 

 人は往々にして「死にたい」と口に致します。けれどもそれは、周囲が必ず止めてくれると信じてゐるが故の、安易な吐露に過ぎませぬ。その言葉を聞いた周囲は、慌てゝ慰めの言葉を投げかけ、或いは上辺ばかりの心配を寄せる。口に出した時点で、それは真実の願ひではなく、ただの弱音に堕するものでありませう。


 私にはもう、そのやうな弱音を吐く気力すら残つてはをりませんでした。誰かに助けてほしいとも、止めてほしいとも思ひませんでした。ただそこらの石のやうに、じいっと黙してゐることこそ、唯一の誠実であるやうにさへ感じてをりました。人々のやさしい言葉も、慰めの手も、手の届かぬ水面に反射する光のやうに遠く、ただ私の視界をかすめては消えてゆきました。


さうして私は日毎に、声を減らし、表情を減らし、足跡を減らし、存在そのものを薄めてゆきました。薄紙を一枚一枚剥ぐやうに、気配までも捨て去りました。誰にも気づかれぬまま、ゆるやかに、しづかに、日常の輪郭から透け落ちていったのであります。誰からも呼び止められることなく、誰をも呼び止めることなく。


 真に死を志す者は「死にたい」とは申しませぬ。沈黙こそが、最後に残された証なのでせう。言葉はその重みを失ひ、沈黙だけが本心を宿す器となる。私は一度として、そのやうな言葉を発したことがございません。それがすべてを物語つてをるのでせう。今この文を記す指先さへ、既に此の世の温もりから遠ざかつてゐるのであります。


 貴方。この便箋に手を触れた貴方も亦、己の心に何の咎もないと自らを慰めてゐるに過ぎませぬ。貴方がこの文を読み下すその一瞬一瞬が、貴方自身の無垢を証明せんとする最後の所作であります。されど、この詮索こそが、無関心の総てを裏付ける静かな印でありませう。

  

 貴方方は私を友と呼び、或いは「良き人」と評したかもしれません。それは多くの人が、写真の端に写る見知らぬ人にも同じ呼称を与へるのと、何ら変はりはございません。私の渇きも空洞も、ただ在るままに通り過ぎ、誰の目にも留まることはございませんでした。結局のところ、貴方方の傍らにある「背景」として私が在つたという事実だけが、ここに残つてゐるのでせう。


 私はいつも、貴方方にとって良き聞き役の位置にをりました。集ひの端に立つ姿が、偶々景色の一部として収められるやうに、笑ひ声の陰に添へられるやうに。話を運び、笑顔を添へ、私の沈黙はそのまま沈黙として過ぎてゆきました。


 舞台装置の一片として立ち続けること、それが私に割り当てられた役割であつたのでせう。台詞を持たぬ登場人物のやうに、記憶に刻まれることもなく、ただ在るものとして日々を過ごしてゐたのであります。


 ​最早、私に貴方方を感情で裁く資格はございません。ただ、ここに記すのは、在りし日の貴方方と私の関係の形を、ただ、しづかに写し取るためでございます。私には声が与へられず、拍手も呼びかけも届きませんでした。今、私は此の書き附けによつて、背景が持たうとする最後の輪郭を、静かに描き出してゐるに過ぎません。


 此の手紙に赦しも呪ひも書く積もりはございません。私が此処に何を遺さうと、貴方方の人生は何一つ揺らがぬでせうし、私の不在など早晩、取るに足らぬ空白として塗り潰されることでせう。


 ——愉快なことです。長らく群れの端で、誰にも見向きもされず、空気のやうに存在してゐた私の痕跡を、今、貴方は手に取つて漁つてゐるのですから。背景でしかなかつた私の静寂を、貴方が覗き込み、撫で回すやうに扱つてゐるのですね。私の存在の軽さを、やつと認めてくださるのですか、それとも、単なる好奇心でせうか。

 

 私は何も言ひませぬ。ただ、此の光景を、冷ややかな眼で見守つてゐるだけです。


 明日の会話の端に私の名がひとたび上つても、やがては新しい話題に紛れ、季節が過ぎるにつれてその音は失はれてゆくでせう。写真の中の私の姿も、いつかは誰とも識別されぬ顔となり、古びた紙片として片隅に押しやられるでせう。


 それでよいのです。人は皆、そのやうにして空白を埋め、物語を続けてゆくのでせうから。私が此処に記すのは、貴方方を責めるためでも、記憶に縋るためでもなく、ただ「いま此処に在つた」という一点を紙の上に留めるために過ぎませぬ。

 

だから、これは唯の通知に過ぎぬのであります——されど、軽率に手を伸ばした貴方の胸の奥に、否応なく私の痕跡は息づき、此処に読み終へた今、もう貴方は私を忘れることなど出来ぬことでせう。

 

以上

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