AYANE――最高に甘美な文字列
spin
出会い
多くの社会人にとって一年で最も心躍る日に違いない
映画はレイトショーだったので、中目黒のクラブ――無機質なインテリアが特徴の新しいヴェニュー、Ethos(エートス)――に着いた頃には、深夜近くだった。今夜は知り合いのDJ・Dasein(ダーザイン)がオーガナイズしたテクノ系イベントが開催されている。
重い鉄の扉を押し開くと、厚い音の波が身体にぶつかってきた。非日常的空間へと足を踏み入れるこの瞬間はいつもゾクゾクする。
特別な日なだけに浅い時間の割にかなりの客入りだった。暗いダンスフロアでレッドブルウォッカをすすりながら、重低音の効いたテクノ音楽とフロアを縦横無尽に走るライティングを堪能する。クラブという空間にいるだけで、とにかく高揚する。何よりも驚くのは、何時間でもこの場に居ることができることである。音楽がなかったらそれは無理だった。しかし、音楽がすべてではなかった。彰は女性を探さずにはいられなかった。音楽、酒、ライティングがそろったクラブはナンパの場として、最適であることは間違いなかった。
かなりの酒と音楽を浴びた頃、彰がトイレから戻ると、フロア前方で踊っている女性に気づいた。その長身で白地のロングスカートの女性は決して若くはなかった。暗闇の中でも彰と同じ中年であるのは見て取れた。しかし、無心に踊る姿にはそこはかとない色気が漂っていた。
彰はオスとしての本能に駆られて、ジリジリと女性との距離を詰めた。今日のようにそこまで混んでいないフロアでは、パーソナルスペースを保つことは可能だったが、彰はそのスペースに侵入しようとしていた。ついさっき見たボーイミーツガールの映画も彼の行動を後押ししていた。やがて女性が自分に気づき、視線を交わすと、彰は微笑んだ、あるいは微笑もうとした。
「どこかで会ったことありましたっけ?」
意外にも女性の方から話しかけてきた。
「ありそうですよね」と彰。
「名前は?」
「
「素敵な名前ですね。ぼくは彰といいます」
「アキラって一般的すぎる。フルネームは?」
彰はフルネームを名乗り、漢字まで説明した。そのような質問は異例のことだった。それは自分への興味とも考えられ、気を良くした。
「何か飲みます? 奢りますよ」
彩音が手にしているドリンクが残り少ないのに気づくとそう言った。
二人は分厚いドアを開けて、バーフロアに来た。ここは十分な照明があり、フロアの音楽の音量は大幅に低減されていた。長身痩躯という以外に、女性の白い肌、目鼻立ちの整った品のある顔立ちが、照明の下で明らかになった。
彩音はずっと笑顔を絶やさなかった。もうかなり飲んでいるようだった。お互いのクラブ歴やよく行くイベントなどについて話したが、彰は彩音のソプラノの声やフレグランスの香りに夢中になっていた。
(ああ、なんてすばらしい女性なんだ。夢のようだ)
やがて彩音は最近DJを始めたことを話した。
「まだ全然下手ですけど。でも、今度パーティに出演させてもらえることになったんです」
「へぇ〜、それは大したものじゃないですか」
彩音は日時と会場を教えてくれた。
「ぜひ行きたいですね」
彰はそう言って連絡先交換を申し出た。Instagramのアカウントをお互いにフォローした。彰はそこには何も投稿していなかった。個性を演出するものと言えば、自転車のプロフィール写真だけだった。AYANEのアカウントには、クラブイベントの告知の投稿が一つだけだった。青色が基調のプロフィール写真にはどこか神秘的な雰囲気があった。
「自転車が趣味なんですか?」
「前に改造に凝って、写真の自転車いろいろと改造したんですよ。コロナ前は毎週末、自転車で川崎や横浜の飲み屋に行ってたんですけど、今はそんなに乗ってないですね」
「飲んで自転車なんて危ないですよ。止めて正解です」
「そうですね。実は何度か落車したことがあるんです」
「ああ、やっぱり。友達で飲んで乗って落車した人知ってます。その人大怪我したので、自転車でもダメですよ」
彩音はそう言って、眉を顰めた。彰はその表情に見惚れた。
「はい……」
「そろそろフロアに戻りましょうか」と彩音。
彩音はそれからおよそ一時間後にクラブを出た。クラブから徒歩で家に帰れるとのことだった。
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