犬神筋 ―いぬがみすじ―
彼辞(ひじ)
第1話 犬鳴谷の家
山深い県境に「犬鳴谷(いぬなきだに)」と呼ばれる集落がある。今では廃村に近く、住むのは老人が数戸のみだが、かつては犬神筋の家があると噂され、誰も近づきたがらなかった。
東京で暮らす私は、民俗学を専攻していた縁でその谷を訪れることになった。指導教官に言わせれば、「犬神信仰の生き残りを追える最後の土地かもしれん」という。
谷に入ると、湿った空気が肌にまとわりつく。杉林の切れ間から、黒ずんだ茅葺き屋根が見えた。そこで待っていたのは、村で唯一、犬神筋と呼ばれる血を引く老婆だった。名を「ハル」といった。
囲炉裏端に通されると、老婆はしわ枯れた声で語り出した。
「犬神はな、買うもんやない。作るもんや。うちの先祖は、犬を生きたまま甕(カメ)に入れ、餓えさせ、最後に首だけ出して餌をちらつかせる。飢えに狂った犬が、主の喉笛に噛みつこうとした瞬間、刃で断ち切る。その怨念が犬神になるんじゃ」
ぞっとして息を呑むと、老婆は笑った。
「わしの家には、その犬神が代々憑いとる。力はあるが、代償も大きい。犬神筋の女は外に嫁げん。血を絶やすと、犬神は主を食う」
その夜、泊めてもらった部屋で眠っていると、畳を爪で引っかくような音が聞こえた。目を開けると、薄暗い床の間に白い影がうずくまっている。犬のようだが、首が不自然に長く、眼だけがぎらぎらと光っていた。
声を上げる間もなく、それは畳を這い寄り、私の枕元で止まった。熱い息が頬をなぶる。思わず目を閉じた瞬間、襖が音を立てて開き、老婆の声が響いた。
「こら、戻れ!」
影は煙のようにかき消え、部屋には冷気だけが残った。
翌朝、老婆は青ざめた顔で言った。
「昨夜は犬神が、おまえを試したんじゃ。よそ者を喰うか、守るか……。次はどうなるか、わしにも分からん」
谷を後にする道すがら、林の奥から犬の遠吠えが追いかけてきた。振り返っても姿はない。ただ、不思議なことに、その声には怨みとも守りともつかぬ響きが混じっていた。
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