灰色の晩餐会
@Stonemisaki29031952
灰色の晩餐会
プロローグ「嵐の予兆」
山の天気は変わりやすい。
その日、時任家の山荘には厚い雲が垂れ込め、遠くで雷鳴が轟いていた。
「今夜、皆に集まってもらう理由は……祖父の死の真相を知ってほしいから」
孫娘の茜が手紙を手にそう呟いた。
親族、旧友、そして山荘に縁のある人々――七人が招かれることになっていた。
誰もまだ知らない。嵐の夜、この屋敷で起きる恐怖と、信じがたい密室の連鎖。
そして、心理の罠が、ゆっくりと彼らの心に忍び寄ろうとしていた――。
第一章「嵐の山荘」
外は激しい雨。時任家の山荘に集まった七人は、古びた食堂のテーブルに並んでいた。
灯りは暖炉の火とシャンデリアの薄明かりだけ。
「祖父の死には、まだ秘密があるの」
孫娘の時任茜が切り出すと、部屋の空気がざわめく。
探偵・神谷は冷静に周囲を観察する。
元秘書の藤崎は無表情でグラスを磨き、女優の一ノ瀬は退屈そうに髪を弄っている。
学者の牧野は咳払いを繰り返し、異母兄弟の良介は苛立ちを隠さない。
家政婦の咲枝だけが、沈黙の中で茜の肩に寄り添った。
雷鳴が轟いた直後、山荘が暗闇に包まれる――停電だった。
その刹那、鋭い銃声が響き渡る。
灯りが戻ると、良介が頭から血を流して椅子に崩れ落ちていた。
床に落ちていた拳銃を拾い上げたのは藤崎。
「部屋はすべて閉ざされていました。これは密室です」
その言葉に全員が凍りついた。
⸻
第二章「密室の恐怖」
一ノ瀬が立ち上がり叫ぶ。
「いやよ、こんなの! 誰がやったっていうの?」
学者・牧野は汗を拭いながら呟いた。
「閉ざされた空間で殺人が起きれば、誰もが疑心暗鬼になる」
茜は蒼白な顔で唇を噛みしめる。
「祖父の時と同じ……この家には呪いがあるのよ」
咲枝も震える声で同意する。
「奥様も、あの時は突然でした。まるで姿の見えぬ手に命を奪われたように……」
藤崎が冷静に遮る。
「犯人は外から侵入できなかった。つまりこの中にいる――事実です」
神谷だけは表情を変えずにグラスを口に運ぶ。
(事実、か。しかし、彼が“見た”といったことを、誰も確認していない――)
緊張の中、心理戦が始まった。
⸻
第三章「第二の惨劇」
その時、二階から女の悲鳴が響く。
全員が駆け上がると、客室の中央で牧野が床に倒れていた。
胸をナイフで一突きにされ、血が絨毯を濡らしている。
「また……密室だ!」一ノ瀬が叫ぶ。
確かに、窓も扉も内側から鍵がかかっていた。
藤崎が険しい顔で呟く。
「犯人はこの中にいる。そして“密室殺人”を繰り返している」
神谷は膝をつき、死体を観察する。
(おかしい……第一の事件も第二の事件も、なぜここまで“密室”にこだわる?
まるで誰かが意図的に“密室の連続殺人”という物語を演じさせているようだ……)
暖炉の火が軋み、再び嵐が山荘を包む。
⸻
第四章「心理の罠」
茜が震える声で告げる。
「私……見たの。犯人がこの部屋に入っていくところを」
全員の視線が茜に集まる。
「停電が一瞬復旧した時……藤崎さんが、ドアノブに手をかけていた」
藤崎は声を荒げる。
「私はそんなことはしていない!」
しかし一ノ瀬や咲枝は茜に同調する。
全員が藤崎を疑い始める――だが、神谷だけは冷静に見ていた。
(違う。彼は犯人じゃない。では、なぜ全員が同じ錯覚を共有したのか?
これは――心理的誘導だ。誰かが意図的に、思い込みを作り出している……)
神谷の胸に、一つの仮説が浮かぶ。
(この山荘には、“人間の思い込み”を作り出す仕掛けがある――次は、その謎を解く番だ)
嵐は弱まらず、山荘をさらに陰鬱に包み込む。
第五章「密室の秘密」
神谷は深く息をつき、静かに声を上げた。
「皆さん。今一度、冷静に考えましょう。第一の事件、第二の事件――両方とも“密室”でした。ですが、物理的に不可能なはずの密室が成立しているのは、偶然ではありません」
藤崎は眉をひそめる。
「どういう意味ですか? 我々の目の前で起きたことが……作り物だと?」
神谷は頷く。
「はい。犯人は停電、嵐の音、瞬間的な明かりの点滅、そして皆の心理状態を利用しました。つまり“心理的密室”です」
茜が戸惑った表情で訊く。
「心理的密室……?」
神谷は部屋の壁や天井を指さす。
「例えば、停電中に微かな音を仕込む。ガラスの割れる音や木の軋み、あるいは録音した銃声――こうした音が、人の脳に“誰かが侵入した”という錯覚を植え付ける。そして皆が一斉にそれを信じるのです」
咲枝が震える声で言う。
「……あの時、私も見たような気がしました。藤崎様の影を……」
神谷は静かに頷く。
「それです。影を見た“ような気がする”のも、錯覚です。犯人は皆の視覚や聴覚を操作して、思い込みを作り出している」
一ノ瀬がワインを握りしめ、鋭く言った。
「じゃあ……犯人は、この屋敷の中で、私たちの心理まで操っているってこと?」
神谷は小さく笑った。
「その通りです。そして、次の手がかりは“誰が最も冷静に全てを操作できるか”です」
皆が互いの顔を見つめる。
「それは……藤崎では?」一ノ瀬がすぐに言う。
神谷は首を振った。
「違います。藤崎は確かに屋敷に詳しい。しかし、心理操作のプロではありません。全員を同時に思い込みの罠にかけることはできません」
神谷はゆっくりと部屋の中央に歩み出る。
「犯人は……この屋敷の主導権を握る者。嵐の夜に全員を閉じ込め、最も都合の良いように事件を演出できる者です」
茜は声を震わせた。
「……私……ですか……?」
神谷は赤ワインを口に含み、皆を見渡した。
「あなたが最も有力です。しかし、ここで重要なのは“証拠”です。思い込みではなく、物理的な証拠を突きつけること――それが犯人を炙り出す鍵です」
その瞬間、暖炉の陰から微かに物音がした。
全員が息を呑む。
神谷は静かに呟いた。
「……犯人はまだ、この部屋にいる。そして次の一手を打つ準備をしている。私たちは冷静に、その罠を見抜かなければならない」
嵐が山荘を包む中、神谷の瞳はさらに鋭さを増し、密室の謎を解く決意を固めた。
第六章「密室の真実」
神谷は深呼吸をひとつし、全員に向かって静かに言った。
「さて。これまでの二件の殺人――どちらも“密室”に見えました。しかし、物理的な密室ではなく、心理的密室だったのです」
茜は目を見開いた。
「心理的密室……それなら、藤崎さんじゃないの?」
神谷は首を振る。
「藤崎は、単なる誘導役に過ぎません。犯人は、皆の思考の隙間を巧みに利用したのです」
一ノ瀬が苛立ちを隠せずに声を荒げる。
「じゃあ……誰が? ずっとこの屋敷にいたのよね?」
神谷は壁際の暖炉の近くを指さした。
「犯人は“最も屋敷に詳しく、そして最も冷静に行動できる者”――そう、孫娘の茜です」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
茜は唇を噛み、かすかに震える声で言う。
「……わ、私が……?」
神谷はゆっくりと説明を始める。
「まず第一の事件――良介氏の銃殺。停電と嵐の音、そして瞬間的な明かりの点滅を利用し、あなたは全員に“銃声と密室”を刷り込んだ。実際には、銃は外から設置した仕掛けです」
茜の手が震え、ワイングラスが揺れる。
「でも、牧野さんのことは……」
神谷は床に伏せられたナイフを指さした。
「第二の事件も同じです。ナイフはあなたが隠したもの。部屋の構造や鍵の仕組みを知っていたからこそ、誰も外から侵入できないと錯覚させることができた。心理的密室の完成です」
咲枝が声を震わせる。
「まさか……お嬢様が……」
神谷は全員を見渡し、冷静に言った。
「皆さんが“藤崎を見た”と思ったのも、あなたの心理的操作です。暗闇、嵐、恐怖――それを巧みに利用し、目撃証言を作り出した」
一ノ瀬がテーブルを叩き叫ぶ。
「な、なんてこと……! 茜、あなたが全部仕組んだの!?」
茜はうつむき、涙を流した。
「私は……祖父の死の真相を誰も知ってはいけないと思ったの……。でも、怖くて……止められなくなった……」
神谷は赤ワインを置き、静かに言う。
「真相を守ろうとする気持ちは理解できます。しかし、命を奪う手段として心理的密室を使ったのは、間違いです。これで全てのトリックが明らかになりました」
神谷は廊下の隅に隠された小型のスピーカーと、壁の微かな隙間を示した。
「嵐の音と停電を利用し、このスピーカーで銃声や足音を再現し、皆の恐怖心を増幅させたのです。さらに鍵やドアの操作で“密室”を演出し、心理的誘導で全員を騙しました」
茜は肩を震わせながら、つぶやく。
「……私が……全部……」
神谷は深く息をつき、柔らかく言った。
「しかし、これで全てが明るみに出ました。心理的密室、物理的密室、すべて暴いたのです。犯人も、罠も、これで終わりです」
嵐の音が徐々に遠ざかり、山荘に静寂が戻った。
七人は重苦しい沈黙の中で互いを見つめた。
そして、初めて、恐怖の連鎖から解放されたことを感じた。
エピローグ「嵐の後に」
事件から数日後、山荘は嵐の痕跡を残したまま静まり返っていた。
茜は全てを告白し、犯行の動機と方法を説明した後、警察の手に委ねられた。
神谷は一人、暖炉の前で赤ワインを傾けながら呟く。
「人間の心理ほど複雑で巧妙なものはない。物理的な証拠も大事だが、心の罠を見抜くことの難しさを、改めて思い知らされた」
生き残った一ノ瀬、咲枝、藤崎らは、山荘を後にする。
嵐は去り、窓から差し込む朝の光が、血に濡れた絨毯を淡く照らしていた。
しかし、誰もが心のどこかに、あの夜の恐怖の余韻を抱えていた。
密室の呪縛は解けたが、人の思い込みと心理の罠の怖さは、簡単には消えない――そう、彼らは知っていた。
神谷は静かに立ち上がり、山荘の玄関を見渡す。
「全てが明るみに出た今、あとは人の心が真実をどう受け止めるかだ」
嵐の後の清々しい空気に混じり、どこか冷たい余韻が残る。
山荘に残されたのは、静寂と、恐怖の記憶だけだった。
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