幼馴染は叔母さん

田波 霞一

第1話 近すぎるふたり

「いってきまーす」


 俺、穴田 翔(あなだ しょう)は、ローファーにかかとをねじ込みながら玄関のドアノブを掴んだ。左手には食べかけのトースト。


 高校に入学してまだ数ヶ月。いまいち回らない頭で今日の授業を反芻する。一限、なんだっけ……古典か。最悪だ。


「あら、翔ちゃん。いってらっしゃい! 葵ちゃんが外で待ってるわよ~」


 リビングから聞こえてきた母さんの声は、今日もやけに弾んでいる。まるで息子が彼女と登校するのを見守るかのような、ウキウキとした調子だ。


 うちの母さん、穴田 愛(あなだ あい)は、その名の通り、愛を振りまく天真爛漫な人だ。一人息子である俺にも、そして外で待ってるアイツにも、その愛情は平等に、ときに過剰に注がれる。


 ……だから、こうなる。

 ガチャリ、とドアを開けると、そこには案の定、見慣れた美少女が立っていた。


 俺と同じ制服に身を包んだ、少しだけ背の低い先輩。肩にかかるくらいのボブカットが、朝の光を浴びてさらりと揺れる。


 どこからどう見ても、爽やかな朝に迎えに来てくれた、可愛い幼馴染か彼女そのものだ。


「やっほー、翔くん。おっそいよー」


 朝の空気を一段明るくするみたいな声で笑いかけてくる彼女に、俺は最大限の冷ややかな視線を向けて、言い放った。


「……なんでいんだよ、葵叔母さん。先行ってていいっていつも言ってんだろ」


 そう。

 目の前にいる制服姿の彼女──中田 葵(なかた あおい)は、俺の母親の妹。

 つまり、正真正銘、血の繋がった俺の『』だ。


「えー、いいじゃん別に。一緒にいこ?」


 俺の呆れ顔など意に介さず、葵叔母さんはごく自然に俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。


 むにゅ、と柔らかくて、でも主張しすぎない胸の感触が、制服越しに伝わってくる。顔は童顔のくせに、こういうところは本当に、遠慮がない。


 こっちはピカピカの高一、向こうは受験生の高三だってのに、この緊張感のなさはどうだ。


(……ったく。いつまで「姉弟」のつもりでいるんだか)


 これには、少々複雑な事情がある。

 俺が産まれたとき、母さんは里帰り出産で実家に戻っていた。当時二歳だった葵は、突然やってきた赤ん坊──俺のことを、自分の「弟」だと信じ込んだのだ。


 以来十数年、ずっと姉弟のように育ち、中学に上がる直前にお婆さんのこと中田 成子(なかた なるこ)から「あなたの関係は叔母と甥なのよ」とカミングアウトされたとき、葵のあの絶望した顔……。そう、葵の母親だ。


 その反動なのか、葵は事実を知った今でも、こうして何事もなかったように「お姉ちゃん」としての距離感を崩そうとしない。


「こ・こ・で・は、『お・ね・え・さ・ん』でしょ?」


 俺が過去に思いを馳せていると、葵が頬をぷっくり膨らませて、絡ませた腕にぎゅっと力を込めてきた。


 家では「叔母さん」だが、学校では「先輩」や名前呼び。これが二人だけのルールだ。


「はいはい、葵先輩」

「よろしい」


 葵は満足したのか、ふふんと小さく鼻を鳴らしてから、絡めた腕を引っ張るように一歩踏み出した。


 門を出ると急に空が広くなる。低い家がぽつぽつと並び、その合間に畑と月極駐車場が挟まっているような、のどかな郊外だ。


「ほら、言っただろ。こんなとこで腕組んで……誰かに見られたらどうすんだよ」

「いいじゃん別に。翔くんと一緒に登校してるくらいで、誰も驚かないって。……たぶん」

「“たぶん”じゃねえよ」


 ケラケラ笑いながらも、葵はまったく腕を離さない。


「──おっはよー。相変わらず仲いいねえ、(きょうだい)は」


 俺の心臓に悪いタイミングで、ハキハキとした声が降ってきた。

 びくりと肩を震わせて振り向くと、数メートル先の丁字路から、これまた見慣れた美少女が走ってくる。


 ショートカットが似合う活発そうな彼女は、星野(ほしの)あかね。このあたりの家同士の距離感を象徴するような、同じ年の『』だ。


 県大会レベルの実力を持つスポーツ少女でありながら、クラス委員長も務める真面目な同級生でもある。


「あかねちゃん! おはよー」

「げっ、星野……」


 葵は嬉しそうに手を振り返すが、俺はあからさまにげんなりした顔を作る。


「『げっ』とは何よ『げっ』とは。幼馴染が挨拶してんのに」

「……お前なあ。前から思ってたけど、高校生にもなって腕組んでる男女を見て、なんとも思わねえの?」


 俺が少しだけ期待を込めて──「おかしい」と指摘してくれることを願って──尋ねると、あかねは不思議そうに首をかしげた。


「え? 別に。だって葵先輩、翔のこと大好きじゃん」

「そうそう。翔くんは私の抱き枕兼、荷物持ちだからね~」


 葵が俺の二の腕に頬をすり寄せながら肯定すると、あかねは「ほらね」と言わんばかりに頷いた。


「ま、あんたたち昔は三人で……その、お風呂とか入っていたし? 今さら腕組むくらいで動揺しないっていうか、なんというか……」


 言いながら、あかね自身が想像してしまったのか、ほんのりと耳を赤くして視線を逸らす。


「……お前、その記憶まだ保持してんのかよ」

「だ、だって強烈だったし! 翔と葵先輩、いっつもくっついてたから!」


 あかねにとって俺と葵は、物心ついた時から「ニコイチ」の存在として刷り込まれているのだ。


 だからこそ、年頃になって自分では恥ずかしくてできないようなスキンシップも、「この姉弟なら通常運転」として処理されてしまっている。


 名字が違うという決定的な矛盾すら、「複雑な家庭の事情があるんだよね」と勝手に納得してスルーしてしまうほどに。


「…………いいなぁ」


 ふと、あかねがボソッと呟いた。

 その視線は、葵が抱きかかえている俺の左腕に、じっと注がれている。


「あかね?」

「……ずるい。あたしも、それやりたい」


「は?」

「だ、だからっ!」


 俺が聞き返すと、あかねは慌てて顔を上げ、何かをごまかすように声を張り上げた。


「翔が『あたしの弟』になればいいのよ! そしたら……あたしだって、遠慮なく腕組んで登校できるじゃない!」


「なんでそうなる」

「だって幼馴染じゃ、手繋ぐ理由もないし……。とにかく! 弟採用、考えておいてよね!」


 あかねは顔を赤くして、ぷいっと前を向いて歩き出してしまった。

 その背中からは「言っちゃった……」という動揺と、恥ずかしさが湯気のように立ち上っている気がする。


(……なんだあいつ。弟欲しすぎだろ)


「お前のその姉弟観、根本から間違ってると思うぞ……」


 ため息をつく俺の鈍感さに呆れたのか、葵は「翔くんは罪作りだねぇ」とニヤニヤしながら、さらに腕を強く締め上げてくる。その目は、すべてを見透かしたような、いたずらっぽい光を帯びていた。


 自分の恋心をごまかす「天然」な幼馴染と、すべてを知りながら弟扱いをやめない「確信犯」の叔母。


 こうして、側から見れば両手に花、実態はただ胃が痛いだけの通学路が幕を開けるのだった。


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幼馴染は叔母さん 田波 霞一 @taba_muichi

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