こんばんわ 火星人

@asanoto1226

こんばんわ 火星人

 夜がやってきた。夕日はどっぷり西の方へ浸かってしまっているが、しかし空はまだ明るさを伴っている。藍色の序の口ではあるが、それは紛れもなく夜だった。午後八時きっかりに僕は目が覚めた。大学のレポート提出に丸二日を費やした僕は、電池が切れた懐中電灯のように鳴りを潜めて今の今まで惰眠を謳歌していた。ベッドの向かい側にある小窓から薄っすらと淡い光の線が伸びて僕を包み込んでいる。いつもと違ったのはその光の中に黒いインクの染みのようなものが一滴垂れていたことだった。じっと見つめていると、シミはゆらゆらと揺れ動く。僕の知らない君がやって来た。

「ここは、貴方の家?」

 君は僕にそう尋ねてきた。インクの染みだと僕が錯覚していたものは、君の影だった。影の後を追って小窓をじっと見ると、何やら人の首がにゅっと言った具合にこちらに顔を覗かせている。そう、それは君の顔だ。明らかな異変だった。僕の住んでいるアパートは五階建てだ。一階ならまだ、ただ単に窓の閉め忘れただけだといい訳がつくが、ここは五階だった。つまり、浮いてでもしないとこの窓から覗き込むなんてことはできなかった。

「ここは、貴方の家?」

 君は僕にまた問いかけを投げてよこす。否応なしに僕は首を縦に振った。

「そう。よかった」

 窓の外側にいた君は満足気に影を揺らして、そのまま窓から消え失せた。きっとまだ僕は、夢を見ているのだろう。それにしても不思議な夢だ。雲に手を差し伸べると掴めないように、夢というのは夢であることを知覚した途端に現実に浮上するのが一般である。だが僕は、どうにもこの夢から覚めたような気がしなかった。肯定的に考えるとすると、夢であることを自覚しながら、夢の世界を探検するだなんて、こんな体験をすることなんてそうそうないと思うから、目が覚めてからの土産話にはもってこいである。僕は仰向けになっていた体を起こし、ベッドに腰を下ろす。僕は待った。まだ夢の続きであることを自覚しながら、内臓がふわりと浮かび上がるような波乱に満ちた夢の訪れを、待った。

 時が凪いだのはほんの一瞬のことで、直ぐにそれは訪れた。ピンポン、とチャイムが開始の合図を告げる。僕の部屋のチャイムを鳴らすのは、決まって実家からの仕送りを届けてくれる宅配業者しかいない。だが、午後八時に何の連絡もなく荷物を届ける宅配業者がいるのだろうか。答えはノー、だ。数千年前ならまだしも今は大抵、生まれた時から脳内に埋め込まれているナノ・チップでそれしきの情報はすぐに伝達される。一定間隔で鳴るチャイムの音にすこしばかり辟易としながら、五度目の呼び出しがかかったくらいで僕はようやくベッドから腰を上げる。ドアを開ける前に、個人識別カメラが搭載されたインターホンを覗くと、僕と同い年くらいの女性が映っていた。さっき窓を覗き込んでいた顔と同じもの──。インターホンを覗いたのは、扉を開けた先にいる相手が、君じゃなかった場合を危惧して。しかし、万が一不審者が訪れていたら、なんていう被害妄想じみたものが理由ではない。ただ、夢の中で殺されると自然、夢から目が覚めてしまうわけだから、僕はそれが怖かった。

「こんばんわ。地球の人」

 こちらの許可なく、たたきを上がり、土足で君は廊下を歩いていく。せめて靴は脱げと叱責する暇なく、それどころか君は堂々と歩くので、まるでこちらが来客であるかのように僕はおずおずとその後をついて行く始末だ。

「君は、誰?」

 その言葉がようやく、つっかえながらも出てきた時には、君は既にまだ温かさが残る僕のベッドに腰かけていた。

「私は火星からやってきた、火星人」

 君はそう言い、足を中空へ揺らす。

「火星人?」

 僕はまるで、異星人を見つけたような眼差しで、君を見た。

「ただの頭のネジが外れた女の人じゃなくて?」

 遠慮なしに僕は言う。いくら相手が見ず知らずの初対面の相手だからといって、失礼すぎるのではないかと思ったが、どうせここは夢の中だ。何をやっても、何を言っても構わない。夢での愚行を裁くことは国際法ですら不可能だ。不躾な質問だったのか、君は顔をほんの少しだけ歪める。

「私は、火星から来た、火星人」

 君は君自身に暗示をかけるように言った。なんせ、君は火星人なのだからそうであるよう主張せねばならない。僕は一笑に付したい自分を抑える。現実なら、理路整然と火星に知的生命体などいないことを指摘して、すぐに警察に通報でもしていたことだろう。しかし、ここは夢の中である。夢の中の僕は、人一倍寛容だ。

「ふぅん……火星人……」

 僕は信じ切った素振りで相槌を打つ。寛容であるとは言ったが、出された謎は解ききってしまいたい。どうにして僕は、君が火星人ではなく地球人であることを見抜きたかった。パズルだってクロスワードだって声を張り上げながら解く人間なんていないように、僕も静かに解くことにする。ついでに、間を作らないために意志とは無関係に口を走らせる。

「どうして君は、火星から遠路はるばるこの地球まで?」

 他県からやってきた観光客に来県の目的を尋ねるように僕はカジュアルさを意識して君に尋ねた。

「夏休みなの」

 君は薄い唇を震わせて言う。

「火星にも夏休みはあるんだ」

「あるわ。地球と一緒で春休みと夏休みと冬休みが」

「とすると、君は学生?」

「学生。貴方と同じ大学生」

「ちょっと待てよ」

 無関係に走っていた口が止まる。思考が熱を発生させながら勢いよく回転する。

「僕はまだ君のことを、名前すらも知らないのに、どうして君は僕を知った風でいるんだい?」

「そりゃ、火星人だからよ」

 君はまた微笑を携えて薄い唇を横に伸ばした。

「火星には地球に住んでいる人間の住所録みたいなのがあるってわけ?」

 だとしたら、僕の住所はまだ愛媛の実家なわけで賃貸をしているここではないはずだから一層不思議だった。

「ないわ。そんなの」

 君は呆れたように首を振る。そんな顔をしないでくれ。僕だって本気で言ったわけじゃない。

「だとしたら、なんなのさ?どうして火星から旅行に来た君がせっかく京都に来たというのに、清水や金閣なんかに目もくれずこんなところに?」

「貴方に会いたかったから、じゃだめ?」

「だめ、というわけではないけど……」

 細い糸のようだと思っていた君の唇が、急に肉厚で妖艶なそれに変貌する。下唇を湿らせ、僕にじっと狙いを定める。君は夢の住人だから、いとも簡単に姿見を変える。僕の記憶の貯蔵庫が枯れない限り君は、なんにでもなれる。君はベッドから立ち上がり、僕ににじり寄ってくる。君の胸元からは鼻腔を擽る甘い香り。僕はどこかでこの香りを嗅いだことがあるのかもしれない。じゃないとこんな実感を持って夢に現れるはずがないからだ。君の服は溶け、裸になる。現れた乳房に危機を感じた。僕としては大事な貞操を夢の住人に奪われるなんてたまったもんじゃない。蜘蛛の巣だって、捕まった最初の内は懸命に体を動かせば脱出できるのだ。

もういいだろう。こんな夢。探偵ごっこはお終いだ。いくら手の内を探ろうが全部、「火星人だから」とか「貴方に会いたかったから」とか抽象的表現の免罪符で君は言い逃れるだろうから。僕も御法度だからと閉まっていたカードを取り出さざるを得ない。

「大体、君は火星人じゃないだろう」

 僕は胸元に縋りつこうとしていた君の腕を払いのける。君はたじろぎもせず、ただ微笑を浮かべて僕を称える。唇は肉厚ではなくなり、元の細い糸に戻っていた。

「まず第一に、ここは夢の中だ。君は僕の夢の中にいる人物の一人にすぎない……そして第二に火星にはまだ知的生命体がいたという証明はされていない。辛うじて微生物がいた可能性がある、の範疇なんだよ……」

 君は絶えず微笑を浮かべている。事実を受け止めているのか軽んじているのか、判然としない。

「前提が間違ってるのよ」

「前提?」

「ええ」

 君はふと僕の掌を両手で握った。

「私は何も、貴方と同じ時代にいる人間とは言っていないじゃない」

「とすると、君は未来の人?」

「そう。未来から来た、未来の火星人なの」

 今度こそ、僕は噴き出す。

「君、それはいくらなんでも設定が盛りすぎているよ。夢のくせに傲慢なやつだな」

「夢じゃないわよ」

 君は僕の掌を握った手を上方に移動させ胸を触らせてくる。柔和な温かみを伴った胸の中には、確かな生命の息吹の証明が拍動していた。

「これでわかったでしょ?夢じゃないって」

「妙だな……」

 僕は雲をわたあめだと錯覚しているような心持で、胸の感触を確かめる。僕は童貞だ。他人の女性の乳房など母親以外、貪ったこともなければ触ったこともない。夢の癖に変なリアリティが少し気味悪くも思えてきた。

「まだ、信じてくれないの?」

 君の胸に置かれた僕の手を、君の手が掴んで下へと促す。深い谷底のような陰部。そこに入り込んでしまうと、もう夢からは逃げ出せない。夢は夢ではなく現実であると認識してしまう。現実では、僕は眠ったままで一生目が覚めなくなるだろう。僕は咄嗟に君の手を振りほどいた。

「夢じゃないってわかってくれた?」

 日食のような、包まれた恥ずかしさで君は笑った。夢なのにどこか人間、いや人間の日々を映し鏡にしたものが夢であるのだから人間味が溢れるのは当然であろうか。しかし、それは夢の住人ではない確かな実態を持った人間の笑みであった。

「馬鹿なことを」

 僕は夢に子馬鹿にされているような気がした。怒りが沸騰した水のように湧き出し、ぽこぽこぽこと泡が表面に弾き出されていく。

「いい加減にしろ!夢の癖にでしゃばりやがって!」

「だから夢じゃないわよ」

「いいや!夢だね。その証拠に、君、さっきから未来から来た火星人だと言っている癖に火星から来た証拠も未来から来た証拠も何も僕に見せちゃいないじゃないか!」

「それは、貴方が夢だって言うからでしょ? まずは夢じゃないことを示さないことには何のお話にもなりはしないから……」

 君はまるで屁理屈をこねる子供をあしらうかのような眼差しで僕を見る。目尻に皺をよせ、余裕たっぷりに口角を上げて。

「よせよ。そんな表情をするのは……なら、見せたらどうなんだい? それを。そうしたら僕は夢じゃないって信じれるかもしれない」

「本当に?」

「体を触らせられるよりかは幾分、信じることができると思うよ」

「わかったわ」

 ほう。どうやら君は今から未来の火星から来た証拠をみせてくれるらしい。どんなにしょうもないほらが吹かれてやってくるのか。君自身、さぞや楽しみなことだろう。君は僕から数歩退く。密接距離から外れた君は、もう裸ではなかった。ベージュのトレンチコートの内側にシマウマ柄のジャケットと黒のフレアスカートに身を包んだどこにでもいる夢の住人になっていた。君はコートの内ポケットから早速何かを取り出す。昔、どこぞやの民俗資料館で見たことがあるフィーチャーフォンと呼ばれる折り畳み式のケータイ──ガラパゴス携帯と呼ばれていたもの──に似ていた。君は一から九まで並んだ数字の真上に堂々と位置している丸いボタンを押す。地面が揺れた。僕の視界が歪んでいく。夢の終わりを告げるアナウンスがやってきたのだと僕は悟った。君はタイム・マシンか宇宙船か何かを出してくれているようだが、それには及ばない。その前に、僕は現実世界へとジャンプする。名残惜しいがサヨナラだ。出来ることならもう二度とこんな不出来な夢に出会うことがないように祈っておこう。揺れを感じながら、眼前から立ち込めてきた熱気を持った白い煙に身を任せ、僕は目を閉じる。不思議な夢だった。


 目を開けると、大きな円盤が視界を占有していた。

「なんだってんだこれは……」

 僕は呆然と立ち尽くす。ついさっき、揺れと煙に巻かせて目を閉じた所と同じ場所に、僕は立っていた。変わったのは僕じゃなかった。目の前の景色だけだった。

「これが、私の乗ってきた船」

 君は堂々と、アイフォーンの新作を顧客の前で発表するCEOのように円盤を紹介してくれる。

「どうやって持ってきたんだい……?」

 現実だとか夢だとかどうこうよりも率直な疑問が勝った。円盤はUFOを描いてみてください、と言われれば十人中十人が描きそうなものだった。多分、かなり小型の方だと思われるが、十畳ほどしかない僕の部屋の三分の二は占めている。

「小さくしてポケットに入れていたのよ」

 なんでもなしに君は、現実感のないことを言う。そういえば、まだここは夢の中だった。

「どうやって小さくしたんだ? まさかそのリモコンを使って?」

「ええ。そうよ」

 君は右手にひっそりと握っていた折り畳み式のケータイをひらひらと僕の目線の位置で泳がせる。

「1を押して受話器のボタンを押せば小さくなって、一番中央の丸を押せば大きくなるの」

「へぇ」

 僕は曖昧に頷いて、円盤に近づく。詳しくはないが、物体が一瞬でその概形を保ったまま小さくなったり大きくなったりというのは、物理学的にも生物学的にもあり得ない話なのではないだろうか。仮にそれが実現可能だとしても、ましてやボタンの一つや二つ押すだけでそれが達成できるなんてことは、いくら技術が進んでいようと有り得ない話だろう。だが、夢の世界では科学は通用しない。理論の治外法権が適用されているため、そこに存在したものが全てとなる。果たして触覚はいかがなものかと僕は円盤に触れようする。

「触っちゃ駄目!」

 突然君が大きく喚きたてるものだから、僕の体は蛇に睨まれた蛙みたいに固まってしまった。

「宇宙線防止用のコーティングが剥がれちゃう」

「なに? 宇宙線……?」

「ええ。すっごく高いんだから、触るのだけは勘弁してよね」

 的外れに君は怒る。

「科学は……夢の中では通用しないんじゃなかったのかい?」

「いやね。そうなんべんも言わせないで頂戴。ここは現実世界よ」

 眩暈がした。ふらりと視線が何処かに逸れ、得体の知れない気持ち悪さが体中を擽る。

「馬鹿言うんじゃないよ……これが現実だなんて……こちとらその気になればここで死んででもして現実に戻ってやることだってできるんだから」

「ここが現実なんだから、死んだら死んだままよ」

 君がいかにも真面目に言うものだから、僕は怖くなってきた。死ぬのはよそう。どこか平和的に脱出できる手段を考え直すことにする。

「ところで、どうして私が未来の火星からここまでやってきたのか、興味ない?」

 君は無邪気に口角を上げた。なるほど。君はそうやってまた馬鹿正直にここは夢の世界だと告白する僕を馬鹿にするつもりのようだ。新記録樹立に王手をかけた挑戦者の眼差し。

「それは移動手段かな? それとも理由?」

「理由に決まってるじゃない」

 君は初めから一択であるかのように断言した。

「それは、君自身がさっき言ってたじゃないか。僕に会いたかったからって」

 僕は鼻で笑う。盤石だった君の盤面が揺らぐ。どうやらこの勝負、僕が優勢になったみたいだ。

「ええ。それはそうよ。だけど、どうしてあなたに会いたかったのかまでは言ってないじゃない」

 往生際の悪い君は崖に追い込まれても尚、片手だけで地面を掴んでいる。なに。僕もそこまでサディスティックな性格じゃない。丁寧に指の一本一本を両手で包み込んで奈落に落としてやるさ。

「愛に理由などいるかい?」

 不意に胡散臭い台詞が口を突いて出た。なんともまあ、論理的必然性皆無の感情論に偏った台詞だ。ただ、一遍どこかの誰かに言ってみたかった台詞でもあった。だがそのせいで、今度は僕が崖に追い込まれた。挑戦者だった君は一変し、鼠を追う猛禽類に変わる。

「今からそう遠くない未来、地球で戦争が起こるの」

 だが君は、僕を直ぐに奈落へは落とそうとしない。どうやら、君はゆっくりと時間をかけて僕を恥ずかしさで絞め殺す算段のようだ。

「地球で戦争だって……?」

 僕はまた子馬鹿にされた気分になる。

「そんなの地球にとったら日常茶飯事のことじゃないか。現に今だってどこぞやの国々では内乱だったり、国同士で争ったりしてる」

「違うの」

 君は首を振り、否定する。それがさらに僕を子馬鹿にしたように感じられて、体内の血液が怒りで蒸発したと錯覚するくらい体が熱くなる。

「違うもクソも味噌もないよ……」

 人の感情が円であることを僕は初めて知った。怒りの最大角は七十二度で、それを過ぎると冷静になるらしい。喜び、怒り、悲しみ、恐怖、驚き。五つの基本的感情。怒りの隣人にはどの感情がいるのかはわからないが、僕は怒り以外のどこかの感情に立つ尽くしている。いや、少々穿ち過ぎた見方なのかもしれない。ひょっとすると僕はまだ怒りの渦中にいるのかもしれない。七十二度の怒りの中でも層があるのだろう。惑星の地層のように幾重にも重なった土の上に僕は立っている。怒りの核からは程遠い地表にいるだけで、そこはまだ怒りなのだ。

「違うの」

 君はまた否定する。僕は地表を歩いたり、はたまた潜ったりしているのに君はそれを感じ取ることも、感情の枠からも動こうとしない。教室の壁に画鋲でピン止めされた夏休みの図画工作の課題。

「もっと規模の大きな戦争よ……国が滅亡するとかそんなのじゃなく……地球が滅ぶレベルの……」

「地球が滅ぶだって?」

「ええ」

「それはまた、大きく出たものだね……」

「私の祖先は元々は地球に住んでいたの」

「へえ。地球に」

「けれど、その戦争が起きたせいで地球にはごく一部の富裕層しか住めなくなっちゃて、お金に拠り所がなかった人達は皆一括りにして火星に送られたわ」

「へぇ」

 僕は判然としないまま頷く。君が嘘に嘘を塗り重ねて作った壁。随分と厚塗りのようだが所々に隙間が漏れて風が吹いている。

「ようするに、君がいた火星に住んでいる人間はルーツを辿れば皆地球人ってわけか」

「ええ、そうよ」

「唐突だが、火星では何かこう、食べ物の自家生産、つまりは家畜を飼ったり、野菜を育てたりしているのかい?」

「ええ。勿論。ほうれん草だって大根だってしいたけだって、豚や鳥、ちょっと高いけど牛だって育てているわ」

「おかしいな」

「おかしいって何が?」

 君は首を傾げる。君は僕が崖の縁から這い上がる瞬間を見逃した。少々強引だったが僕は壁に空いた穴を指でほじくることに成功した。君がそうしてくれたように、僕もじっくりと君を恥ずかしさで焦がしてやろう。

「火星の重力は地球の何倍か知っているかい?」

「知らないわ」

「0.38倍さ。君、そんなことも知らずに地球に来たのかい? まあいいさ。まず、僕が言いたいのは君が火星人なら悠々自適にここで立っていることは変なんだ」

「変ってどういうこと?」

「地球より重力の軽い場所から地球に来たなら普通、地球の重力下で立ったり、歩いたりすることは難しいんだ。重力の軽い場所では重力に抗わなくていいから、足で立たなくても姿勢を維持できるし、移動するときも足を使う必要がないからね。火星に住んでいたなら、慣れないと地球はさぞ重苦しくて立てやしないよ。そして、第二に」

 君の反論が飛んでこないように僕は人差し指を立てる。

「百歩譲って火星は鉄の多い土壌だから野菜を育てることができるのは頷けるが、そんな重力下で家畜を育てるなんて不可能だ。ぷかぷか泳いでいる牛や豚をどうやって管理しろって言うんだい。鶏なんて、進化の過程で羽があるのに飛べないようになったってのに、そんな重力の軽い場所だと羽があるせいで遥か遠くまで飛んで行っちゃうじゃないか」

「ドームがあるのよ」

「ドーム?」

「火星にはハビタブルドームっていうドームがあって皆そこで暮らしているの。野菜も家畜も皆そこで育てているわ」

「でも、重力はどう説明しろって言うんだい?それに、今気付いたが酸素はどうなっているわけ? 確か火星の大気組成の九割は二酸化炭素が担っているんじゃなかったっけ?」

 次から次に反論の余地が出てくる。君が作った壁は思った以上に穴だらけだ。僕はイライラし始め、また七十二度の分度器の上に降り立つ。

「ハビタブルドームには重力があるの。地球と同じ重力よ。それに窒息死する心配もないわ。ドームの中は地球と同じ大気比率だから」

「よくも次から次にぺらぺらぺらぺらとそんな嘘を!」

 僕は怒り狂って君に滲みよる。

「いい加減にしろ!後だしじゃんけんにもほどがある!」

「だって聞かれなかったから……」

 君は目を伏せる。長い睫毛がうっとりするほど美しく見える。途端に、君の睫毛は氷塊になった。溶けて雫になって僕の元に滴り落ちる。

「おいおい。よせよ。泣くことはないだろう。みっともない……」

 君がえんえんと泣くものだから、次第に僕の気勢も削がれていく。

「大体、君が悪いんじゃないか。君にとっては公理でも、僕にとったら矛盾であるんだから説明は必要だろう……」

「そう説明するよう、教育は受けていないのよ……」

「それはまあ、そうだろうけど……僕だって原始人にガスコンロの仕組みなんぞ教えようとは思わない」

 恐らくは大学でも教えろとは言われないだろう。自然、僕は君の涙へ融解されようとする。 体が熱くなる。自然、下半身が山の如く隆起する。潜っているのか歩いているのかはわからないが、僕の意識は喜びに移動する。君の頬は絹のように繊細になり、僕を誘惑する。右手が動く。ぎこちない。君の頬に触れようとした。

「違うわ。教育を受けていないっていうのは、学校には行っていないって意味よ」

 ぐっと体の体温が下がった。そのまま低血圧になり、棺と共に地面に埋まりそうになる。咄嗟に僕は腕を引っ込めようとした。しかし、君は僕の手を離さない。おろおろと視線を右往左往させる僕の指先を君は唇の中に放り込む。薄ら寒い笑みが僕をしっかりと咥えていた。


 どうやら半径2.0メートル圏内に張られていた巨大な蜘蛛の巣の中を僕は知らずに闊歩していたようだ。いつの間にか君は、人ではなく蜘蛛になっている。

「ねぇ」

 君の食指が動く。左右対称に四本ずつ取り付けられた足を巧みに使って、僕を抱きしめる。僕の右手首から先は、既に君の歯牙にかけられていた。

「学校へ行けないことは悪いことだと思う?」

 右手の甲がチクリと痛む。君のせいだ。僕の指を咥えながら話しているから、歯が当たって痛い。

「別に悪いことだとは思わないけど……」

「そうはぐらかさないで」

 君はぴしゃりと蜘蛛なのにライオンのような咆哮をあげる。

「大丈夫。別に正直に言ったって貴方を殺したりなんかしないわよ」

「本当に悪いことだと思っていないんだけど……」

「あら、本当?」

 君は小首を傾げる。見た目より効率性を選んだ八つの蜘蛛の目が二つしかない僕の目を捉えた。なるほど。僕が縮んだのか蜘蛛である君が大きくなったのかはわからないが、似通った背丈から見る蜘蛛の目というやつは善悪の基準すらない真っ黒な純粋無垢な瞳だ。

「本当だよ。嘘なんかついてどうするんだい……」

「じゃあどうして私の頬に触れなかったの?」

 虚を突かれた。僕の思考は冷凍庫に保存された鮮魚のように固まってしまう。さっきまで熱く脈打っていたこめかみは今は微動だにしない。弁明しておくと、僕は別に教育を受けていない人間が嫌いなのではない。教育をきちんと受けている人間の大半は受けているふりだけで、卒業して社会に出れば体の軸は常に連続性のある差別と偏見で構成されることになる。むしろどうしてこんな人間が、というモラルの欠如した人間ほど、階級構造の頂上に立つことは日常だ。 

「学校は、勉学を教えているわけじゃないんだ」  

「でも、勉学は必要だわ」

 厚手のコートのような黒と黄色のコントラストが際立た君の毛が僕に迫る。君は僕を抱く力を強めたみたいだ。

「算数だってお金を数えるのには必要だし、国語だって活字を読むには必要だし、理科だって自然の驚異を知るために必要だし、社会だって過去から学びを得るために必要だし、体育だって身体の健康維持のために必要よ?」

「そんなの、独学でだってできるし、家庭教師を雇えば学校で教えてもらうなんかよりよっぽど効率よく学べるよ。数千年前の偉人だが、エジソンという人は小学校を止めて母親につきっきりで勉学を教えてもらったそうじゃないか」

「じゃあ、学校は何を教えてくれるの?」

「社会に出てからの身の振り方だよ。これだけは、一人でやろうにもできない」

 君の感情は螺旋になった巣に振動として露になる。黄金色の糸。太陽に充てられた証。君ばかりを見つめていた僕は空が恋しくなる。オレンジ色の太陽は君の頭とすっぽり被ってしまっていた。

「賢いだけで権威に立てるのは研究者だけだ。僕らみたいな凡人は常に目上の立場の人間に媚びへつらって、頭を下げて生きていかなきゃいけない。学校はどうすれば周りに良い人間としてみて貰えるかを教えてくれる、社会を模倣した狭い合宿所みたいな場所なんだ」

「じゃあ、その合宿所の代わりになる場所に行けば学校に行かなくても、学校に行ったのと同等の価値を得られるの?」

「どうだろう……僕はそんな人に出会ったことがないからわからない。というか現代において中学校までは義務教育の範疇だ。学校に行かないと自由意思を主張する人間はいても、君の言うような学校に行けないという人間は親がよっぽどの悪人じゃない限り、いないんじゃないかな……」

「それが、貴方が私に触れられなかった理由?」

「そうかもしれないね」

「なあんだ」

 君はケタケタと笑った。蜘蛛が笑っているという事象が恐ろしく感じられ、僕は目線を下げる。君の腹が見えた。大きく膨らんでいる。君が笑う。腹の先から何かが飛び出した。白い粘着質な、液体が噴き出している。液体は君から離れることはなく陽の光を浴びて黄金に輝く。糸だ。君は糸を出している。

「私、小さいころから組織に入れられていたんだ」

「組織? 蜘蛛が団体行動をとるなんて初めて聞いた」

「違う。違う。火星での話」

 君は僕を手放す。地面に打ち付けられるものだと思っていたが、そうはならなかった。螺旋に張られた君の巣が僕の身体を保護してくれた。

「どうかな? 体、動かせる?」

 君に言われるまで気づかなかった。僕の身体は僕の意思に反して微塵も動こうとしない。辛うじて、唇と表情筋だけ動かすことができた。思えば、君に抱き着かれている間、僕はこの二つしか動かしはしなかったのだ。気づけないのも、当然である。

「どうも、動かせないね」

「なら、良かった」

 君はせっせと腹の先から糸を吐き続けた。細長い足が糸に絡まった僕の身体を転がす。君はとても器用だ。後ろ脚と前脚を交互に使い、玉転がしをするように吐きたての糸と既存の巣の糸で僕の身体を丁寧にくるみこむ。生まれたての赤子を毛布にくるむような優しい手つきだ。僕はその心地よさに惹かれ、眠りに落ちてしまいそうになる。

「待てよ。君、火星って言わなかったか?」

 僕の微睡を妨げたのは、またしても赤いあの狂星だった。眠り落ち、意識の暗渠に浸る寸前で、僕は思い出した。ここは夢の中だ。夢の中で夢を見ようとするなんて前代未聞だ。聞いたことがない。

「うん。言ったよ」

「やっぱりおかしいや……何か変だと思ってたんだ」

 僕は君を睨みつける。だが、二つから八つの目になった君には、その脅威が分散されて赤子が喚く程度にしか見えない。きっと涙が出るにしても欠伸を噛んだときくらいのはずだ。

「君……蜘蛛の癖に火星人だとまだいい張るのかい?」

「ええ。だって火星人だから……」

「わかったぞ。君は夢の中の火星人だから何にだって身体の形を変えることができるんだ。そうだろう?」

「だからこれは、現実よ。私は現実世界にいる未来から来た火星人」

 こっちが真剣に悩んでいるときに、君がそんなことを言うからいけないんだ。せっかく夢の住人である君の存在に少し好意を抱きかけていたのに、僕はまた、怒りの衝動が頂点に達する。

サイコロフッテススミマス フッテフッテススミマス

ヒトツススメバフタツススム フタツススメバヒトツヤスム ミッツススメバワレラガカセイ ヨッツススメバハハノホシ

トマッタマス二ヨルガカク フリダシフリダシ スタートモドル

モドレモドレヨ ギャクムキ二 ヨルガカゲヲウバウマデ

デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト

 唐突に、君が歌った。詩の朗読に近いが、確かにリズムは刻まれ、歌になっていた。寄せた眉間に皺が無くなる。無くなったというよりも君に剥がされたに違いなかった。それに、初めて聞いたのにもかかわらず、どこかこの歌に親近感が湧いた。

「現実の人間は……そう自由自在に臓器の形を変えれるものじゃないよ……」

「未来の火星の技術だったら簡単にできちゃうのよ」

「また後だしじゃんけんか……」

 辟易とした気持ちが耳の側を通り過ぎる。もういいよ。これ以上は不毛だ。僕は火星の超技術を受け入れることにしよう。

「さっき言いそびれちゃったけど、私が貴方に会いに来た理由ね」

 君は僕の恥ずかしさの傷口をほじくり始める。まだ、かさぶたができたばかりだというのに。構わずにぺりぺりとシールみたいに剥がしていく。君は薄情な奴だ。僕は受け入れたのに、君は受け入れてくれようとはしないみたいだ。

「よせったら……」

「これから起こる戦争は、貴方が起こしたちょっとしたことが原因で始まるの」

 君と僕の声が重なる。八つの目の下にある君の二本の巨大な牙がかちりと鳴った。そういえば、君は蜘蛛だった。


「なんだって……?」

「私は貴方がする予定の『ちょっとしたこと』を止めるために火星から派遣されたエージェントなの」

「火星のエージェントだって? 君がかい?」

「そうよ」

 君は僕を包み終えたのだろう。八本の脚を丁寧に使って、僕を離さまいと再び胸元に抱き寄せた。

「私の名前はヨル。エージェント・ヨルって仲間からは呼ばれているわ」

 エージェント・ヨル。なんとも夢の端くれから産み出された、馬鹿らしい響き。名前だけで君は、君自身が夢の住人であるという身分証明をしてくれた。揺らいでいた感情が収まり、僕は少なからずほっとする。冷静になった。熱くなっていた思考も、火に炙られていたわけではなく、実は人体には何の影響もないエアコンの暖風を浴びていたに過ぎなかったのだ。そのことが分かれば、あとは造作でもない。

「で、君がここに来た理由……そのちょっとしたことってのは一体なんだって言うんだい?」

 君は牙をカチカチと鳴らして首を傾げる。蜘蛛の感情は読めないが、君の感情なら読める。君は、不服なのだ。せっかく名乗り出たというのに、僕に「ヨル」と言う名を呼んでもらえないのが嫌なのだ。

「教えてあげようと思ったけど、気が変わったわ」

「どうして?」

 今度は僕が首を傾げた。僕が一番その理由を知っているはずなのに、知らないふりをしてやった。

「意地悪な人」

 君は僕の感情を知り得る算段を持ってはいない。夢を作り出した創造主に夢の住人が逆らっていいはずがない。だのに、君は、君というやつはじゅるりと涎を垂らし、牙を目いっぱいに広げ、僕へと顔を近づける。

「よせったら……行儀の悪い」

「蜘蛛は交尾をした後、雌が雄を食べちゃうんだってね」

 君はさっきまで糸を垂らしていた腹の先を僕に近づける。くの字に体を曲げ、腹で僕の下半身をなぞった。スポンジをどっぷりと水桶に浸したように、みるみるうちに陰茎の血管が膨らんでいく。

「さっき、糸を垂らした所……糸つぼって言うの」

「それが、どうしたんだい?」

 途端に息をするのが苦しくなった。君の抱きしめる力が強くなったせいだろう。性的興奮とは裏腹に恐怖がせりあがってくる。この恐怖は何だろう。夢から目覚めることへの恐怖なのか、それとも純粋に死に対する恐怖なのか。後者だったらお笑い草だ。ここは夢の中なんだから、僕は絶対に死なないはずだ。夢遊病で勝手に外へ出てしまい事故死することはあっても、夢の中で死んだせいでショック死する人間なんてそうそういない。

「毒も回ってきているみたいだし、そろそろ食べごろね」

 背筋が冷えた。冷静に、時間をかけてゆっくりと組み立てていたジグゾーパズルがぐちゃぐちゃに引っ掻き回される。どこが四つ角だったのか、どこがラッセンの描いたイルカだったのか。原型を正そうにもただ、このパズルが淡い色をしていたということくらいしかわからない。全てが均一に抽象化される。愛しい人がいるから。手に余るほどの金を持っているから。一線を画す美貌をもっているから。関係なく君の牙の前では一切が同質の意味を持つ。ただ、食べると食べられるの二者関係しか成り立つことはない。

「君は嘘をついたのかい?」

 陰茎は絶えず君の腹で嬲られ勃起し続け、頭の中は恐怖一色で塗りたくられる。不協和のファンファーレが鳴り響き、右こめかみから出現した頭痛が薄っすらと鈍いシンバルを鳴らす。

「嘘はついてないわ」

「ついたじゃないか。君は殺さないと僕に最初に誓ったはずだ」

「殺さないとは言ったけど、食べないとは言っていないじゃない?」

「矛盾している……食べるということはつまり、僕を殺すということだぞ!契約違反だ!」

「そんな細かいこと、まあいいじゃない」

「細かいことなんかじゃない!僕にとっては生き死にに関わる問題なんだ!!」

「でも、貴方からすれば、ここは夢の中なんでしょう?」

 僕と君の間に余白が生じる。僕は何を必死になっているというのだろう。まるで君が現実に生きる人間そのもので、僕が夢の中の住人みたいじゃないか。むかむかと何かがせりあがってくる。まるで僕の身体の中に小人がいて、そいつが宇宙船にでも乗って胃を通って喉元を通って口から脱出するような、そんな感じ。

「それよりもお腹が空いたわ」

 小人は本当に現れた。僕が吐いた黄褐色の吐瀉物に紛れて現れた。銀色の円盤型の宇宙船だ。どこかで見覚えがある。君の胸元は、僕の吐瀉物でいっぱいになる。だけど君にとってそれは些末なこと。

「僕を食べても、美味しくはないと思うね……湿布だって肩に張ったままだし、アルコールだってよく摂取してるし、煙草だって吸うんだよ」

「それが、食欲を刺激するの」

 君の唇と僕の頭の距離が近づく。

「湿布はハーブみたいな肉の香りづけになるし、アルコールを良く摂取した肝臓はワインに付けた肉みたいに柔らかくて美味しい。煙草を良く吸う肺は噛むと炭火で焼いたような香りが鼻につんとぬけるわ」

「馬鹿いうなよ……」

「皆最初はそう言うけど、食べてみたら美味しいって言うわ。今度、食べさせてあげる」

 どうやら僕は君にいかに僕が食材に適したかを主張しただけのようであった。僕は諦めて目を瞑ることにする。夢に痛みはあるのだろうか。痛みがあると仮定して、肉が食いちぎられる痛みはどれほどのものだろうか。骨折すらしたことがないから、僕の分かる痛みの最大値は擦り傷なのだ。それとも君が僕の肉塊を口に運んだ途端に夢から目覚めることができるのだろうか。

 デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト 

 呪文のような言葉がどこからか聞こえる。さっき君が口ずさんでいた歌。泡沫の懐かしさ。

 サイコロフッテススミマス フッテフッテススミマス

 ヒトツススメバフタツススム フタツススメバヒトツヤスム ミッツススメバワレラガカセイ ヨッツススメバハハノホシ

 トマッタマス二ヨルガカク フリダシフリダシ スタートモドル

 モドレモドレヨ ギャクムキ二 ヨルガカゲヲウバウマデ

 デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト……

「きゃっ」

 君が叫んだ。銀色の円盤が僕をかっさらう。君は体を翻し、八本の足をばたばたと動かした。僕は航空写真のように巣の上でもがく君を眺めている。


 どうやら僕は、君に食べられそうだったのをすんでのところで僕の中に潜んでいた宇宙船に助けられたらしい。宇宙船は僕の吐瀉物の中から出てきたよりも随分と大きくなって、今や僕よりも大きな、あの僕の十畳ほどしかないワンルームアパートで君が紹介してくれた宇宙船とそう大差がない大きさをしていた。そう。僕がこの宇宙船に対しどこかで見覚えがあるとデジャヴを抱いていた理由は、君の宇宙船にあったのだ。しかし、これは君の宇宙船ではない。その最たる証拠にこの宇宙船の、土鍋の底のような形をしたなだらかな底部からは鳥の足が生えている。僕は今、その鳥の足のかぎ爪に捕まえられ、空を滑空している。

「君は、誰なんだい?」

 宇宙船は答えない。代わりにまたあの呪文を唱え始める。

 サイコロフッテススミマス フッテフッテススミマス

 ヒトツススメバフタツススム フタツススメバヒトツヤスム ミッツススメバワレラガカセイ ヨッツススメバハハノホシ

 トマッタマス二ヨルガカク フリダシフリダシ スタートモドル

 モドレモドレヨ ギャクムキ二 ヨルガカゲヲウバウマデ

 デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト……

 まるで校内放送。僕を掴んでいないもう片方の足で誰かを探しているよう。まさか。無人で運転しているのだろうか?いや、しかし。君の宇宙船には操縦桿が付いていた。かつては手動で運転をしていたらしい車も、今は自動運転ができるように、タイム・マシンも自動運転できる未来があるとするなら、それはきっと君のいる未来の火星のそのまた未来の話になるだろう。

 デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト デシセンチミリマイクロナノ ピコフェムトアト……

 オヒルノ コウナイホウソウノ ジカンデス シズカ二 ハヤク キレイニソウジヲシマショウ

 宇宙船から放たれる呪文が、僕の記憶と交差する。なんでも機械化が進むこの時代に置かれながら、僕のいた小学校ではまだ放送委員なる者が掃除の時間になると掃除の催促をしていた。僕は、五年生と六年生の時、放送委員会に所属をしていた。あくる日のこと、僕は昼食時の校内放送で、今日の給食の紹介をしていた。放送室に居たのは僕を含めた三人で、同級生の永松くんと東くんだった。たった一ページしかないA4用紙に書かれた原稿を、各人が数行読み次の人間にバトンを渡す。僕達の仕事はたったそれだけ。この日もいつも通り順調に事が進んでいた。僕は最終バッターで、その前に仕事をこなしている永松君の背後で出番を待っていた。無事、永松君の番が終わる。放送委員会だけが放送をするときにだけ座ることを許される丸いローラーのついた黒のオフィスチェアがゆっくりと引かれ、僕の番が訪れる。椅子とマイクの間に体を滑り込ませ、僕は原稿を読もうとした。その前に永松君が何かの拍子で躓いた。僕の視界の端がそれを捉えた。教室の中でなら何気なく映るそれも放送室という密閉された、緊迫感のある閉鎖空間内で行われれば、たちまち喜劇に成り代わる。口から吸いこんだ半分ほどの空気が鼻から抜けた。ふふんと笑う声がマイクを通して校内全域に広がる。

「失礼しました」

 すぐさま僕は軌道修正をかけ、原稿を読む。だが、その失礼しました。すらも永松君が躓いたシーンが脳内で繰り返し投影され続けたせいで笑いを懸命に堪えたと一聞きで分かる震えた声だった。とりあえずは原稿を読み終え、校内放送を終える。マイクを切った途端、放送室の扉がノックもなく開かれる。当時、僕のクラス六年一組を担任していた黒光という教師が鬼の形相をして僕達に迫った。

「笑ったやつは誰だ?」

 魔女裁判が始まった。永松君と東君は僕を指さし、僕はおずおずと手を挙げる。

「アサノか?」

 黒光のその禿げた頭が梅干しに変わった。僕の胸ぐらを掴みにかかる。黒光は何をするにしても普段から機嫌が悪く、自分と価値観の異なる人間は存在してはいけないという極端な排斥主義を持った教師だった。そのため、生徒からは陰でブラックサンダーというあだ名をつけられ、恐れられていた。

「どうして、笑った?」

「すみません。先生」

「どうして笑ったんだと聞いているんだ」

「すみません。先生」

 僕は頭が真っ白になる。どうして、とか何をとか言われても怒られているという恐怖が思考を占有し、何も考えれない。僕は反射的にすみません、すみませんと謝るばかり。黒光の胸ぐらをつかんでいない方の手が天高く掲げられる。奴の利き手は右手だったはずだから多分右手だろう。最初からそれをやる前提で黒光ははるばる六年生の教室がある四階から放送室のある一階まで降りてきたのだ。痛みを想像し、僕は目を瞑る。

 いつの間にか銀色の宇宙船は雀になっていた。全体的に茶色がかった丸っこいフォルムに身を包んで、空を飛んでいる。相変わらず僕は足で掴まれたままだ。雀はチュンチュンと可愛げになく代わりに、冷酷な機械音を駆動させる。空港に近づいた時にしか聞こえない、飛行機のエンジンの音に似ている。唐突に、雀が高度を下げた。当然、僕の視界が低くなる。これからどこへ連れ去られるのかと考える暇なく、僕の行く先は確定してしまう。住宅街が林立する夜の街。その中のとある一軒家の軒下に鳥の巣が見えた。薄茶色の細い枝で幾重にも組み込まれたその手の職人が作り出した精緻な巣の中から、陽気な甲高い声が次々に聞こえる。コンサート会場で今か今かと主役の登場を待つ観客。僕はステージ下に仕掛けられたギミックからステージ中央へと勢いよくジャンプして現れることだろう。雀の雛達は僕の身体をついばみながら、文字通り血肉湧き出るコールアンドレスポンスをするわけだ。おぞましくて仕方ないよ。 

 僕は懸命に体を動かそうと努力した。君が投じた毒は血液の絶え間ない循環運動のお陰で過去の産物になったようで、僕の身体は動く。ピチピチ、バタバタバタ。僕の身体の動きは、そういうオノマトペが似合いそうだった。一応、毒は癒えたようだが、まだ手先足先は麻痺している。上手く動かせない。ピチピチ、バタバタバタ。今度は抵抗の意を示すためではなく、どこが動かせないのかを更に明確にするために僕は体を動かす。雀の爪が静止しろと言わんばかりに強く僕の腹に食い込んだ。転んでひざを擦りむいたような痛みが走る。ほら。言ったじゃないか。夢の中で痛みがあるとしたらそれは、擦り傷程度の痛みだって。肩から手の指先にかけてと骨盤から足先にかけてまでが上手く動かせなかった。案外可動範囲が狭い。現実で体験した痛みの最大値が夢の中で感じれる痛みの最大値だとしたら、銃弾で撃たれた人やナイフで刺された人はさぞ恐ろしいことになるだろうね。

 軒下から左斜め下に、ブロック塀があった。他人の家と自分の家を隔てる境界線。はたまた現実と夢とを分ける境界線のようでもあった。鳥になった宇宙船が巣の中の雛達に僕を差し向けようとする。会場の熱は最大になり、我が一番先にと雛達がくちばしを伸ばす。ステージの下から飛び出したのは、僕ではなく君だった。君の、夜にさらされた薄荷色の大きな眼球と、目が合った。君はブロック塀に座り、ずっと僕がここにやってくるのを待っていた。君は暗夜と一体化した黒猫だ。君は僕を見つけると、バネのように後ろ脚に力を貯めて軒下へ向かって高く飛びあがった。目を丸くした鳥は、思わず僕を落としてしまう。その生物的な動きは、僕に宇宙船には誰か搭乗していたのだということ確証させた。


6

 いよいよ夢の終わりも近いようだ。今度こそ離すまいと、三度目の正直で君は僕を加えて堀の上を闊歩する。

「あの宇宙船に乗っていたのは一体誰なんだい?」

 ピチピチ、バタバタバタ。僕の身体が動く。どうやら、口を動かすと体全体が動いてしまうようだ。厄介な体になったものだよ。

「さあ……だえだったんだろうでしょうね」

「君が乗ってきた宇宙船と似ていたけど、同業者じゃないのかい?」

「しゃやいわ」

 君は白を切る。僕を見つめることなくただ人すらに前を向いて歩く。君が少々舌ったらずなのは、僕を咥えているから。

「やっぱり、君は僕を食べちゃうわけ?」

「食べるわけないでしょ」

 やけに冷たい声。僕は少々、ムキになる。勿論食い殺されたかったわけじゃない。突然、興味を亡くされたことに憤りを覚えたのだ。

「どうして?」

「美味しそうじゃないから」

 君の答えは単純明快だった。

「そんなにあの鳥にかっさらわれたのが気にくわなかったのかい?」

「そんなんじゃないわよ」

「じゃあ、どうして?」

 君の足元が浮つく。堀は消えて、君は僕を咥えたまま、銀河の河を泳いでいる。尻尾を蛇行させ、ひげで懸命に星座を懸命にかき分けている。足を使えばいいのに。なぜか足はだらりと無重力に従い、伸びきっている。背後を向くと、オゾン層に守られた地球の青い稜線がみえた。

「人間は好物だけど、魚は苦手だわ」

 僕は噴き出した。そして、同時に納得した。思い出しもした。そうだ。僕は魚だった。

「なら、なおさらじゃないか?猫の癖に魚が嫌いな奴なんて聞いたことがない」

「それは猫差別よ。人間だって肉を好んで食べない人がいるじゃない?」

「人間?どうして人間なんかと比べるんだい?僕は魚だよ。魚で例えてもらわなくちゃ困るよ」

 君はちらりと僕を一瞥した。驚いたようにも見えたが、恐らくは良い例えが浮かばなくて、眉を潜めているだけだろう。君はまた、変わったことを言う。

「卵は……加熱の加減次第でいろんなものに変われるの。調味料を付け加えたりすればもっとその可能性は広がるわ」

「へぇ」

 魚の僕は卵を加熱したことなど一度もないから、頷くに徹する。

「私、貴方に嘘をついちゃった」

「何の嘘だい?」


 目を覚ますと、そこはベッドだった。午後八時きっかりに僕は目が覚めた。僕は、電池が切れた懐中電灯のように鳴りを潜めて今の今まで惰眠を謳歌していた。ベッドの向かい側にある格子窓──僕に用意された冷たい囚人室に唯一用意された、外界との連絡手段──からはベッドに向かって薄っすらと淡い光の線が延びている。いつもと違ったのはその光の中に黒いインクの染みのようなものが一滴垂れていたことだった。じっと見つめていると、シミはゆらゆらと揺れ動く。長い夢の終わりようでもあり、始まりのようでもある。君がやってきた合図だった。君が、ヨルがやってきた。



《令和七年七月九日、地方新聞紙より一部抜粋》

 九日未明、北区にあるアパートでこの家に住む大学生、アサノ・ルリさん(24)が死亡しているのが見つかった。アサノさんの遺体には複数の刺し傷があり、死因はその刺し傷による出血死だとみられる。事件当時、アサノさんは自室にいたとみられ、誰かと揉めているような声がアサノさんの室内から聞こえたことが近隣の住民の証言により判明している。警察はアサノさんの脳内に残されたナノ・チップの解析を進めると共に、事件の方向で調査を進め、情報提供を呼び掛けている。



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