第02話「運命の交差点」
高遠彰と別れ、明誠商事を去ってから一週間が経った。
引き継ぎもなく、追い出されるように会社を辞めたため、時間はあっけないほどあった。ぽっかりと空いた日常を埋めるように、私はこれまで以上に“K”としての活動に没頭した。
部屋にこもり、パソコンの画面に向かう。世界中から集められた膨大なデータを、一心不乱に読み解いていく。売上、株価、消費者の動向、SNSでの評判など、それらが織りなす複雑な模様の中から、未来の兆しを見つけ出す。それはまるで、満天の星の中から自分だけの星座を見つけ出す作業に似ていた。
彰は私を「数字しか見ていない」と蔑んだ。
けれど、それは違う。私にとって数字は、単なる記号の羅列ではない。その一つ一つが、人々の営みや感情、そして社会の息遣いを伝える、生きた言葉なのだ。
データは、雄弁に真実を語ってくれる。その声に耳を澄ませば、次に何が起こるのか、どこへ向かうべきなのかが見えてくる。
今夜、分析しているのは、急成長を遂げているIT業界だ。特に注目している企業が一つあった。
その名は「ホライゾン・テクノロジーズ」。AIを活用した革新的なマーケティングツールを開発し、ここ数年で一気に業界の注目株へと躍り出たベンチャー企業だ。
その成長の裏には、卓越した技術力だけでなく、常に時代の半歩先を読む、経営者の鋭い直感があるように思えた。
代表取締役社長、一条蓮。メディアにもたびたび登場する彼は、まだ三十代前半と若いながら、その言葉には確固たるビジョンと情熱が溢れていた。
「面白い会社……」
私はホライゾン・テクノロジーズの未来予測に関するレポートをまとめ、サイトにアップロードした。それは、彼らの事業が持つ潜在能力と、同時に潜んでいるリスクを指摘したものだった。おそらく、社内の人間でも気づいていないであろう、死角を。
レポートを投稿して数時間後、私の元に一通のダイレクトメッセージが届いた。
発信者は、一条蓮、本人だった。
『“K”様。突然のご連絡、失礼いたします。ホライゾン・テクノロジーズ代表の一条と申します。先ほど公開された貴殿のレポートを拝見し、衝撃を受けました。我々が今まさに直面し、議論している課題が、そこには寸分の狂いもなく描き出されていました。一体、何者なのですか、あなたは』
心臓が、どきりと音を立てた。
正体不明を貫いてきた“K”に、企業のトップから直接連絡が来るのは初めてのことだった。しかも、それは私が今、最も注目している企業の社長からだ。
『もし差し支えなければ、一度お会いしてお話をお聞かせ願えないでしょうか。我々は今、K様のような深い洞察力を持つ方を必要としています』
その真摯な文面に、心が揺れた。しかし、私は“K”の正体を明かすつもりはなかった。相沢美月として、自分の力で再出発すると決めたのだから。
私は丁重に、しかしきっぱりと、その申し出を断る返信を送った。
それから数日が過ぎた。
気分転換が必要だと感じた私は、友人に誘われ、都内で開かれるベンチャー企業のミートアップイベントに足を運んでみることにした。新しい出会いや刺激が、何かを変えるきっかけになるかもしれない。
会場は、若い経営者やエンジニアたちの熱気でむせ返るようだった。
きらびやかな雰囲気に少し気後れしながら、壁際でオレンジジュースを飲んでいると、不意に声をかけられた。
「あの、もしよかったら、少しお話しませんか?」
振り向くと、そこに立っていたのは、知的な雰囲気をまとった、長身の男性だった。
その顔には見覚えがあった。
「一条……蓮さん?」
「え? ああ、はい。そうですけど……どこかでお会いしましたか?」
驚いた。まさかこんな場所で、ホライゾン・テクノロジーズの社長本人に会うなんて。
「いえ、メディアで拝見したことがあったので」
慌ててそう答えると、彼は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「そうでしたか。すごい人混みですよね。こういう場所は少し苦手で」
「私もです」
思わず本音がこぼれると、彼も笑った。「同じですね」と。
それから、私たちは自然な流れで話し始めた。彼が自社の事業について熱く語るのを聞きながら、私は相槌を打った。彼の話は興味深く、何よりその瞳は、自分の仕事に対する揺るぎない自信と誇りに満ち溢れていた。
「……ただ、最近は事業の拡大に伴って、新しい課題も見えてきて。特に、海外市場への展開は、どのタイミングで、どの地域をターゲットにすべきか、判断が難しいんです」
その言葉を聞いて、私は思わず口を開いていた。
先日、“K”として分析した内容が、頭の中に鮮明に蘇ってきたからだ。
「それでしたら、東南アジア市場、特にシンガポールを拠点にするのが得策かもしれません。現地の可処分所得のデータと、SNSにおけるEコマースの普及率を掛け合わせると、今後二年で市場規模が三倍に拡大するという予測が出ます。一方で、ヨーロッパ市場は法規制の強化が予測されるため、参入リスクが高いかと」
一気にまくし立ててしまい、はっと我に返る。
地味なOLだったはずの私が、急成長企業の社長相手に、経営戦略について語ってしまった。
「すみません、偉そうなことを……」
慌てて謝罪する私を、一条さんは驚いたような、それでいて何かを見定めるような強い目で見つめていた。彼の瞳の奥が、熱を帯びているのがわかる。
「いえ……すごい。どうして、そこまで……? 今の分析、まるで……」
彼は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
その脳裏に誰の姿が浮かんでいるのか、私にはわかった。正体不明のアナリスト、“K”だ。
「あなたは、一体……?」
彼が問いを発するのと、私の友人が「美月、ごめん、そろそろ時間!」と呼びに来たのは、ほぼ同時だった。
「すみません、もう行かないと」
私はそれを口実に、一条さんに頭を下げ、逃げるようにその場を後にした。背中に、彼の戸惑いと興味が入り混じった視線が突き刺さっているのを感じながら。
まさか、こんな形で彼と出会うなんて。
運命のいたずらか、それとも必然か。
イベント会場を後にして、夜風に当たりながら考える。
一条蓮という人物は、私が思っていた以上に魅力的だった。彼の情熱、ビジョン、そして何より、人の意見に真摯に耳を傾ける姿勢。彰とは何もかもが違う。
胸の奥で、何かが小さく音を立てて動き始めたのがわかった。
それは、凍りついていた私の心を溶かす、確かな熱を帯びていた。この出会いが、私の失われた色を取り戻す、最初のきっかけになるのかもしれない。そんな予感が、暗闇の中に差し込む一筋の光のように、私の心を照らし始めていた。
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