地味な私を捨てた元婚約者にざまぁ返し!私の才能に惚れたハイスペ社長にスカウトされ溺愛されてます

藤宮かすみ

第01話「可愛げのない君へ」

「悪いけど、この話はなかったことにしてほしい」


 静まり返った高級レストランの一角で、目の前に座る婚約者、高遠彰の声が冷ややかに響いた。

 窓の外では、きらびやかな都会の夜景が宝石のように瞬いているのに、私の世界は急速に色を失っていく。


「彰さん……それ、どういう意味?」


 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。

 彰は、そんな私を一瞥すると、心底面倒くさそうにため息をつく。銀のカフスボタンがきらりと光った。彼は今日、私がプレゼントしたブルーのネクタイを締めている。その事実が、ナイフのように胸に突き刺さった。


「言葉通りの意味だよ。君との婚約を破棄したい」


「なんで……。何か、私が悪いことをしたなら言って。直すから」


「そういうところだよ、美月」


 彰は苛立ちを隠しもせずに言った。


「君はいつもそうだ。問題が起きると、すぐに原因を分析して、解決策を探そうとする。まるで仕事のデータでも見ているかのように。俺が求めているのは、そんな理屈じゃない」


 彼の言葉が理解できなかった。誠実に向き合おうとすることが、なぜ彼を怒らせるのだろう。


「可愛げがないんだよ、君は。いつも冷静で、数字やデータのことばかり。一緒にいても、ちっとも癒やされない」


 追い打ちをかけるような言葉に、息が詰まる。

 大手商社・明誠商事で営業部のエースとして名を馳せる高遠彰。誰もがうらやむ彼との婚約は、私の誇りだった。控えめで目立たない私が彼に選ばれたことが奇跡のように思えた。だから、彼にふさわしい女性になろうと、ずっと努力してきたつもりだった。


「それに、もっと正直に言うと、君との結婚は俺のキャリアにとってプラスにならない。そう判断したんだ」


 キャリア。その一言が、私たちの関係のすべてを物語っていた。

 彼は私を見ていたのではなく、私の背景にある「何か」を天秤にかけていただけなのだ。


「先日、東邦銀行の頭取の娘さんと見合いをした。先方にも気に入られて、縁談がまとまりそうなんだ。わかるだろ? 俺の将来にとって、どちらが有益か」


 彼の口から語られる事実は、あまりにも残酷で、現実感がなかった。まるで悪い夢を見ているようだ。私の知らないところで、彼は別の女性と会い、未来を約束していた。


「ひどい……」


「今さら何を言っても無駄だ。これはもう決定事項だから」


 彼はそう言って、テーブルの上に一つの封筒を置いた。

「手切れ金だ。これで納得してくれ」

 その言葉が、とどめだった。全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。


 どうやって家に帰ったのか、覚えていない。

 翌日、重い体を引きずって出社すると、会社の空気は一変していた。彰が根回しをしていたのだ。


「高遠さん、大変だったわね。あんな地味な人じゃ、釣り合わないと思ってたのよ」


「やっぱり、高遠さんには社長令嬢くらいの方がお似合いよね」


 すれ違いざまに聞こえてくる、ひそひそ話。同情や憐れみ、そして好奇の視線が、無数の針のように私に突き刺さる。

 誰もが彰の味方で、私が一方的に捨てられた可哀想な女、という筋書きが出来上がっていた。今まで親しくしていた同僚でさえ、腫れ物に触るように私を避ける。


 ランチの時間、一人でデスクにいると、内線が鳴った。人事部長からだった。


「相沢さん、少し時間いいかな」


 応接室に呼ばれ、告げられたのは退職勧告だった。

 彰との婚約破棄が社内の風紀を乱す、というのが表向きの理由。しかし、本当の理由は明らかだった。次期社長候補とまで目される彰のキャリアに、私がいては邪魔になる。会社が下した、非情な判断だった。


 もう、ここには私の居場所はない。

 唇を噛み締め、こみ上げてくる涙を必死にこらえる。悔しい。悲しい。けれど、それ以上に虚しかった。私がこれまで積み上げてきたもの、信じてきたものは、こんなにも脆く、簡単に崩れ去ってしまうものだったのか。


 その日のうちに、私は退職届を出した。

 私物を段ボールに詰めながら、彰と過ごした日々を思い出す。彼が褒めてくれた企画書。一緒に喜んだプロジェクトの成功。そのすべてが、彼の言う「キャリアにとってプラスになるか」という打算の上に成り立っていたのだろうか。


「数字しか見ていないのは、あなたの方じゃない」


 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。

 私の目には、数字の奥にある人々の営みや、市場の息遣いが見えている。でも、彼の目には、自分の価値を上げるための数字しか映っていなかったのだ。


 がらんとしたオフィスを後にして、夜の街をあてもなく歩く。もう涙も出なかった。心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったようだ。

 スマホを取り出し、一つのアプリを開く。そこには、もう一つの私の世界が広がっていた。


 ハンドルネーム、“K”。

 様々な企業の経営課題を分析し、未来を予測するレポートを無償で公開している、正体不明のアナリスト。それが、私のもう一つの顔だった。

 彰も、会社の誰も知らない、本当の私。


 最新のレポートに、多くのコメントが寄せられている。

『Kさんの分析のおかげで、危機を乗り越えられました』

『まさに未来予知。いつも参考にしています』


 皮肉なものだ。会社では「数字しか見ない可愛げのない女」と評価され、居場所を失った私が、ここでは多くの人に感謝され、必要とされている。


「……これから、どうしよう」


 冷たい夜風が、頬を撫でていく。

 職も、婚約者も、居場所も、すべてを失った。

 でも、不思議と絶望だけではなかった。彰や会社というしがらみから解放されたという、微かな解放感もあった。


 もう一度、ゼロから始めてみよう。

 “K”としてではなく、相沢美月として。

 私の価値を、私自身が証明するために。


 夜空を見上げると、雲の切れ間から星が一つ、強く輝いていた。

 それはまるで、これから始まる新しい物語を、静かに祝福してくれているかのようだった。

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