第4話 ラスト・ダンス

 放課後。人気の少なくなった校舎内のとある教室にて、一人の女子生徒が窓辺に佇んでいた。強い西日が差し込む教室は、穏やかな橙色に染まっていた。女子生徒は何をするでもなく、ただ夕日の傾いた校庭をぼんやりと眺めていた。彼女の憂鬱の種は、所属する部活の内紛についてであった。彼女、立花由利恵が率いるミニコミ部の。

 その時開いていた窓から吹き込んだ北風に、由利恵は思わず身を強張らせた。ブレザーの下にセーターを着込んでいても、この冬の寒さは身に堪えた。西日の眩しさに目を細めつつ窓を閉める。僅かに移った自分の顔を眺めつつ、彼女はかつての親友の名を呟いた。

「裕子…」

 袂を分かったことを今になって後悔することになるとは、由利恵自身想像出来なかった。

 ミニコミ部の内部分裂、そしてそれに伴う内紛は現在も続いていた。百合・少女愛趣味を掲げる百合派、ボーイズラブを掲げる薔薇派。二つの勢力は大っぴらに抗争することはないものの、水面下で対立は続いていた。互いの機関紙・ビラの発行や掲示の妨害などが日常茶飯事のように行われていた。

 由利恵はそのような妨害工作などを好まなかったが、裕子に対する復讐心から黙認を続けていた。しかし彼女が薔薇派による襲撃を受けたことから事態は激化した。百合派の中でも過激な思想を持つ坂本冬美が台頭し始めたのだ。危惧していた武力闘争の兆しに由利恵は苦悩の日々を送っていた。

 こんな時裕子ならどうするのだろう、そんな風に由利恵は思った。彼女自身が担ぎ出されることは多々あるものの、人の上に立って団体を切り盛りするというのは苦手だった。由利恵の持つある種のカリスマ性によって部員たちが集まってきてはいたが、統率や実務において裕子の存在は大きなものだった。由利恵にとって裕子はかけがえの無い親友でありよきパートナーだった。しかし彼女たちは別れてしまった。

 はっきりと拒絶された。触れたその手を払い除けられた感覚を、由利恵は未だにはっきりと覚えている。切実なまでに求めた末の拒絶は、彼女の心に大きな傷となって残っていた。

 一年前のこの時期は、よく二人で最終下校時間ギリギリまで話しこんだものだった。窓際に机と椅子を寄せて、二人の少女は色々なことを語り合った。そういった交流の中で、由利恵は裕子に恋をしてしまった。好きな本について話す時、分厚い眼鏡のレンズの向こうに輝く裕子の瞳が大好きだった。初めて心を許した存在を失ってから、由利恵は確かに変わった。

 自らをカリスマとして君臨することを覚えた。冷笑すること、他人を煙に撒く術を身につけ、彼女は百合の女王へと変貌を遂げた。

 それでもまだ、彼女は忘れられずにいた。一人の少女だった頃、たった一人求めた少女の存在を。



 裕子が武と決別することになる一件の少し前の話。由利恵もまた大きな渦に飲み込まれていく。







 なんだか悪い夢を見ていたはずだった。ただ見ていたということだけがはっきりとしているだけで、具体的にどんな夢だったのかは思い出せない。そんな日がこのところ続いていた。掛け布団と毛布を掃ってベッドから身体を起こす。枕元の時計を見ると時刻は午前七時。目覚ましまでがなるまでには三十分近くあった。

 何故僕はこうして平然と生きているのだろう。二人もの人間を壊したにも関わらず、夜は眠り、朝になれば目覚める。生活のサイクルに多少のノイズが混じることがあっても、それでもペースは崩れない。

 二度寝するには時間が足りない。仕方ないか。観念して目覚めることにした。ゆっくりと支度をして朝食を摂り終える頃には、ちょうどよい時間になっていた。僕以外の人間が存在しない家にいってきますを告げ、学校へと向かった。いつからだろう。僕を見送る人がいなくなったのは。空っぽの家は答えてくれるはずもなかった。

 学校に到着してみると、まだ八時を少し過ぎた程だった。この時間ではまだクラスメイトは殆ど登校してきてはいない。まぁいいか。早起きした分は寝て取り戻せばいい。着席したら即寝だな、などと考えながら靴を履き替え教室へと急いだ。

 僕のクラスは一般棟二階、文化棟とを繋ぐ渡り廊下のすぐ近くである。他のクラスにも、僕と同じように早めに登校した生徒たちの姿がちらほら確認できた。そして目指す教室に着いて勢いよくドアを開けて――その瞬間、見たことのない女子生徒がぽつんと座っているのが目に入った。金髪のショートカットが一際目を引いた。ぱっと見ではあるが、ボーイッシュな感じの印象を受けた。

 クラス間違えたかな。

 ひとまずドアを閉めた。頭上のクラスプレートを確認してみる。うむ。確かにここが二年一組だ。クラスを間違えた訳ではないようだ。

 だったらアレか? 極度の眼精疲労による錯覚か? 試しに自分の左手を眺めてみたが、指はきちんと五本に見える。ふむ。目は正常、と。

 しかし彼女は一体何者なのだろうか。知った顔でないのは確かだった。だったらさすがに金髪にしてきても多分わかる。高校デビューには遅すぎるこの時期。さすがにそれはないだろうなぁ。あー、もしかしたら転入生かも知れない。だったら恐れる必要はないや。そう悟ってドアを開くと、彼女が眼前に立っていた。

「おはよう」

「…………おはよう」

 驚愕と誰ですか貴女、という台詞を飲み込んで、尋常な挨拶を返せる僕に誰か拍手を。観客ゼロのこの状況では無理か。僕が挨拶を返したのに満足したのか、彼女はにっこりと微笑んで、確かにこう言った。


「久しぶりだね、本山田くん」


 久しぶりって言われても…って! まさかその声――――

「き、君は…さ、佐藤千秋……なのか?」

 声が震える。

 背中を嫌な汗が伝う。

 間違いであっては欲しい。だが、

「そうだよ」

 彼女ではない彼は、そう短く答えて再び微笑んだ。

 何故今更僕の前に現れるんだ? それもこんな女の子みたいな格好で。

 千秋の今の姿は完璧に女子高生そのものだった。女子の制服を身に纏い、短めのスカートに黒のハイソックス。さらには元々女の子のような顔が、化粧によってより女の子らしく仕上げられていた。

 完全武装。そんな言葉が意味も無く頭をよぎった。

 思わず一歩後ずさりしてしまった。少しでも距離を取らなければならない。これは動物としての僕の本能がそう言ってる。こいつに近寄っちゃ、関わっちゃ駄目だ。

 逃げよう。

 そう決心して、ちらっと千秋の様子を伺った。普段の体力・体格差を考慮すれば絶対逃げ切れる、そう踏んだ。さぁ、もう半歩下がれ。そして背を向けて走り出すんだ。決して振り返ることなく、全力で。そこまで理解して、もう一度千秋の顔を見やったその瞬間、

「にゅふっ」

 確かに千秋は、そんな風に微笑った。そしてその直後避けようの無い強烈なぶちかましが僕に炸裂した。

「なっっっっっ!!!」

「たーけーしーくーん!!!!!!」

 そのままに廊下に押し倒される。受身を取る余裕などは皆無。ダイレクトに床に背中を強打。

「!」

 苦悶の声を上げたかったが、僕の口は千秋の唇によって塞がれてしまった。

「ん、ん、んー、っはぁ」

「ぬぬぬぬぬぬ、だっはっあー!!! 何すんだこの」

トンチキと思わず絶叫しそうになったが、目の前にちょこんと座った千秋の愛くるしい様子に喉まで出掛かった言葉が引っ込んだ。

「な、何してくれたのでしょうか…」何故か丁寧語になってしまった。

「えへへー。久々に会えて嬉しかったのだ!(そして満面の笑み)」

 なんだこの可愛さ。反則じゃないか。こんな究極最強天上天下唯我独尊の推定美少女なんて見たこと無い。思わず千秋の姿に見とれていると、

「だー」

再び抱きついてきた。今度は抵抗せず、僕も千秋の背中に手を回す。髪からはよい香りがした。華奢な身体つきは相変わらずだった。

「にゅふふー、ボクねー、武君にずっと会いたかったんだよ?」

 頬擦りしながら幸せそうに言う千秋。その気持ちは嬉しいんだけどね、なんというかさ、そろそろ皆様が登校してくる時間なわけで。この有様を目撃された場合、朝っぱらから不純異性交遊に励んでいるとも思われかねない。

「あのー、千秋さん?」

「なーに?」耳元に息を吹きかけるな。

 辺りを見回すと既に若干の人々が集まり始めていた。僕らを見ては何事かを囁きあっている。

「駄目やった」

「へ?」

「いや、なんでもないよ。そろそろ教室に入ろう。ホームルームが始まるだろうからさ」

「うん!」

 そうして僕らは立ち上がった。転がっていた鞄を拾い上げることも忘れずに。仲良く手を取り合うのも忘れずに。出来れば後者は忘れたかった。



 ホームルームが終わって教師が去ると、当然のごとく僕らは質問責めにあった。というか担任が千秋のことを完全スルーだったのが不思議だ。「お、佐藤来てるのか」の一言で済ますのは如何なものだろう。そして雲霞の如く襲来したクラスメイトたちも各々の疑問を僕らにぶつけてきたが、一波乱の末、誰も彼も最終的には「かわいいので何でもよし」という結論に行き着いて去っていった。このクラスちょっとおかしくないか? きがくるっとる。

 しかし一体千秋に何が起こったのだろう。

 確かに僕は千秋を壊したはずだった。

 だが、こんな風に変な方向に弾けてしまうということはなかったはずだ。少なくとも僕が知っていた佐藤千秋という人間は確かに男だった。あくまで男性としてのアイデンティティーを保持していた。女の子のような顔立ちや体躯をしてはいても、何処かそういった自分の女らしい要素を否定したがっていたはずだ。

 僕のしでかした行為は、確かに千秋の男としての自尊心を傷つけるものである。しかし、だからといって男としてのアイデンティティーを捨て、より女の子に近づこうとするだろうか? そこがどうにも理解できない。あの日以来千秋は学校に来てはいなかった。よって、ミニコミ部薔薇派の連中と接触したという可能性は低い。彼女たちでも僕でもない第三者による入れ知恵か? しかしその線になるとさすがに千秋の交友関係を完全に把握しているわけでもないしな…、うむ、特定は難しくなる、か。

 だが、それよりまず考えなきゃいけないのは――そう、クラスでの僕の扱いについてである。クラスメイトからの質問に対して千秋がいらんことをベラベラ喋くりやがったため、ガチホモ騒動以来落ち着いていた僕の立場が再び危うくなった。女子たちは興味津々といった様子であれやこれやと質問を浴びせたのだが、千秋は誇らしげかつ嬉しそうに(おまけに僕と腕を組みながら)答えていた。しかしとある男子の一言で千秋が豹変した。

「まさか佐藤がオカマになってくるとはなー」

 発した男子も、僕らを取り巻いていた女子たちも、そして僕にとっても何気ない一言だったはずだ。誰もが聞き流す、それがあの場での共通認識だった。しかし千秋は違った。


「今何て言った」


 絡めていた腕を解き、黒板の前辺りにいた男子生徒を見据えるその視線は修羅そのものだった。そしておもむろに手近にあった椅子を――

「バカ! やめ」

 自分の止める声が虚しく響く。

あの千秋が、細い腕で椅子を投げつけたのだ。ぶん投げられた椅子は男子生徒の顔をかすめ、黒板にぶち当たって床に落ちる。一瞬で教室中が静まり返った。さらに駄目押しにと言わんばかりに、

「ボクは可愛いとか綺麗って言われるのは好きだけどさ、オカマって言われるのは大ッッッ嫌いなんだよ」

 氷よりも冷たい声でそう言い放ったのだった。

 その場に居合わせた一同、どうしてよいかわからず、結局前述した通りの結論に至って散会した。

 どうしたもんかね、と僕は自虐的に呟いて席に着いた。

 それからは特に問題は発生せず、淡々と時間が過ぎていった。教師たちは揃いも揃って千秋の変化を完全スルーしていたのが気にかかる。まぁこの学校なら不思議でないことなのかも知れないけど。だとしたら…、困りはしない、か。ああもう、嫌だ。僕だってまだ懸念事項を抱えているってのに。


 そして迎えた昼休み。四時限目終了のチャイムが鳴るや否や、僕は教室から飛び出した。一人になって思索を巡らす必要を感じたからである。あと千秋の手作り弁当を回避するというのもある。教室を出てすぐの位置にある渡り廊下を駆け抜けて文化棟に向かう。この時間であれば一般棟よりかは人が少ないはずだ。空き教室でもトイレでもいい。そうだ、文化棟は確か屋上に入れたはず。確かミニコミ部の連中だけは密かに出入りしているという話を前に森さんから聞いたのを思い出した。

 よし、屋上だ。

 目指すべき場所が定まったからか、自然と足が速まる。階段を駆け上がり一目散に屋上を目指す。不思議と息は切れなかった。最後の一段を上がった瞬間、目に飛び込んできた光景に、思わず絶句した。古びた扉には南京錠がぶら下がっていたのだ。その場に膝をついて虚脱しかけた。ようやく痺れ出した足を引きずってドアに歩み寄る。南京錠はまだ新しいものなのか、手にとってみると僅かに光沢を残していた。これでは駄目か。そう観念しかけた時、後ろから声をかける者がいた。

「開きませんわよ」

「!!!」

 驚いて振り返ると、いつの間にか髪の長い少女が壁にもたれながら僕を見ていた。

「壊すのは無理でしょうね。開きたくば――」

 スカートのポケットから取り出した鍵を投げてよこした。

「それをお使いなさい」

 受け取った鍵を錠に差し込み回すと、カチリと音を立てて外れた。扉を開くと日光と青空が覗いた。

「では、参りましょうか」

 そう楽しげに少女は言うと、屋上へと足を踏み入れていった。僕もその後に続いた。この場所を訪れたのは今日が初めてだった。爽やかな昼の日光が差して気持ちがよかった。まぁそれはいいんだけども。快活になりきれないのは彼女のこと。すたすたと屋上の真ん中に向かったかと思えば日光浴を満喫し始めた。

「ここに来たのは久しぶりですわね」

 そう言って僕のほうへと向き直った。腰の辺りにまでかかる長い髪が、吹く風によって僅かに靡く。

 可憐だな、心の底からそう思う。前髪を右手でかき上げる仕草がここまで似合う女性は見たことがなかった。何とも言い尽くしがたい気品の良さが彼女にはあって、僅かな間ではあるが僕は彼女に見とれていた。すると歩み寄ってきた彼女がすっと右手を差し出してきた。

「鍵を、お返し頂けますか?」

「あ、えっと…、ありがとう」

 綺麗な真っ白い指先に戸惑いながらも鍵を渡した。鍵を受け取ると彼女は満足そうに微笑んで、同じようにポケットに仕舞い込んだ。

「君は、誰? 何者なんだ?」

 先ほどから胸中に去来していた疑問をぶつけてみた。ここの鍵を持っているということからすれば、部の関係者ということは間違いあるまいが。すると彼女はクスクスと可笑しそうに声を漏らした。

「何がおかしい」

「ふふ、質問は一つになさい。一度にあれこれ尋ねられても、わたくし聖徳太子ではございません」

 そう言ってオーバーに手を広げて見せた。くそ、いちいち癪に障る娘だ。

「話を逸らすな! 少しは目星がついてるんだ。君もミニコミ部の一味なんだろ?」

「一味とは失礼な物言いですわね。それから、わたくしの名前は『きみ』ではございませんことよ?」

「だからそれを訊いて」

「ま、わたくしは貴方の事をよく存じ上げていましてよ? 本山田武さん?」

 余裕たっぷりの笑顔、いや、ただの笑顔じゃない。この娘の笑い方は冷たい。まるで氷のような――、そんな微笑。対峙しているだけで体温が奪われていくような気がする。

「初めまして、でよろしいのでしょうね。本山田さん? わたくし、ミニコミ部にて部長職を務めさせていただいております、不肖、立花由利恵と申します。以後お見知りおきを」

 一口で言い切るとスカートの端を摘んで恭しそうに礼をした。


 彼女が、

 彼女こそが、『百合』か。


 これが百合の女王、立花由利恵との邂逅だった。






「これでお互い自己紹介は済んだ――ということでよろしいかしら?」

 彼女はそう言うと再び冷たい微笑みを浮かべた。そして後ろ手を組むと背を向けた。その冷たさ以外にも、僕はある種の気味悪さを感じていた。

 上手くは言えない。だが何となく似ているのだ。

 僕と、彼女が。

 それは一つの確信だった。

「しかし本山田さん、よいのですか? こんなところで油を売っていて。可愛いボーイフレンドがお待ちじゃないのかしら?」

「君なのか? 千秋に妙なことを吹き込んだのは」

「妙なこととは失礼ですね。貴方に言えた義理ではないでしょう。だって――」

 そこで言葉を切ると顔だけで振り返りながら、

「貴方が佐藤君を壊してしまったのですから」

 僕の罪を叩き付けた。言葉も出なかった。全て事実。全ては僕が、僕の意思で犯した罪だ。

「わたくし、少しばかり佐藤君と交流がありましたの。急に不登校になったと風の噂を耳にしまして、お見舞いに伺っ」

「そこで何をした、何を言ったんだ」

「別に。大したことは何もしていませんわ。少しばかり彼の魂を解放しただけ」

「魂を…、解放…、だと?」

「そう。彼が秘めていた女性化願望を解放してさし上げたのですわ。彼には確かにその種の願望があった。裏返しとして否定しながらも――、ですけれど、そんな相反する気持ちを抱えることで彼なりにバランスがとれていた。そのバランスが貴方によって崩されたことで、彼の心の扉が閉ざされかけていました。だから、解放してあげた。自らの願望を抑えつける必要などはない――、とね」

「だからってあんな振り切れた風になることが解放だってのか? あれで」

「は――、幸せじゃないとでも貴方が言い切れますか? 幸福の基準なんて人によって違う。他人に自分の定規を当てはめて物を言うなどとは笑止千万! あはは、笑ってあげます。トラウマを抱えて引きこもるよりかは幾分マシだとは思えませんこと? 例え他人からは奇異に写ったとしても、それが彼にとってたった一つ冴えた生き方であるのならば、誰もそれを止めることは出来ない――、わたくしはそんな風に思います」

「だとしてもだ! それは僕だってわかってない訳じゃない。でも」

 続く言葉は、口元に伸びてきた指によって遮られた。

「わたくしと手を組みませんか、本山田さん?」

「……どういう意味だ?」

「似たもの同士仲良くやりませんか、そういう意味ですわ」


 似たもの同士――、その一言が響いた。

 

 僕と彼女。


「同じエゴイスト同士仲良くやろうじゃありませんか。破壊者と修復者――、案外お似合いかも知れませんよ?」

 そう言って僕ににじり寄って来た。その瞳の色は、漆黒。どこまでも冷たい。それでいて溢れ出るような妖気を放つ魔性の瞳。気を抜けば飲まれる、そう直感した。語気も口調も先ほどまでとは違う。これが『本当の』立花由利恵か。百合の女王という仮面を脱ぎ捨てた彼女は、一匹の魔性であり修羅だった。

「わたしが佐藤君を『直した』のは、別に同情でも何でもありません。単にわたし一個人の都合に過ぎません。あなたが一個人の都合で二人の人間を壊したのと同じようにね」

「お互い自らのエゴに忠実である点に於いて似ている――、ということか」

「そう。わたしにも色々と事情がありまして。その為には例えこのような些事とはいえ、綻びを見逃すわけにはいかないのです」

「立花さん。君は一体何を企んでいるんだ?」

「そうですね…、いいでしょう。貴方になら話しても不都合はなさそうですし。ただ――」

「ただ?」

「貴方に質問しておきたいことがあるのですよ。それに答えて頂けますか?」

「わかった。この際だ、何だって答えるよ」

「ならば始めましょうか。――――


――――全てを終わらせるために」



 そして、全ての謎が明かされる時が来た。




 彼女の口から語られた計画に僕はただ驚嘆していた。


 ミニコミ部の破壊と再生。それこそが立花由利恵の目的だったのだ。歪みながら肥大し過ぎた百合派、部内改革への障害となる薔薇派の両勢力を壊滅、これらを成す為に協力せよというのが彼女からの申し入れである。

 しかし僕にはどうにも理解出来ないことだった。薔薇派が彼女にとって邪魔になるのはわかる。しかし百合派までも叩き潰すというのは何故だ? 彼女のシンパも多数存在しているはず。そのことを尋ねてみると、

「飽きてしまった――、というのが一つ。二つ目はあそこには本当の百合の精神の持ち主は存在しないというのがわかってしまいましたから。所詮は虚飾の百合。イミテーション・ラブには何の価値もありません。ごっこ遊びに興じている暇がなくなってしまいましたしね。」

 などといった答えが返ってきた。なんとも勝手な言い分ではあるが、わからないこともない。百合派の少女たちは、あくまで百合という形式に憧れていたのだろう。恋に恋することと同じように。

「我々が成すべきことは二つです。一つは百合派内部の急進勢力の掃討。もう一つは新体制を確立すること」

「それってまさか…」

「そう。我らの手で新生ミニコミ部を作るのです。具体的に言うならば、立花由利恵、本山田武、佐藤千秋、そして森裕子の四名でね」

「!!!」

「だからこそ、貴方の力を借していただきたいのですよ。本山田さん?」

 そう言って手を差し伸べてきた。

 ああ、なんだか見たことのある光景だ。

 あの時はこんな風になるなんて想像もつかなかった。

 手を差し伸べてくれた少女を僕は壊してしまったけれど、

 もしこの手を握り返したなら戻れるのだろうか?

 彼女の笑顔は戻ってくるのだろうか?


 立花さんが僕にした質問は唯一つだった。

「貴方は誰を愛するのですか?」

 

 即座に答えることが出来ない自分が確かにいた。


 千秋に恋をしたのは事実。

 彼女に好意を抱いたのも事実。

 

 だが――――、僕はそれでも選べない。

 だって僕らはまだ友達にさえなっていないからだ。

 互いを利用し合って傷ついたりしたけれど、

 きっと今なら間に合うはずだ。

 全てを取り戻してみせる。

 

 そして僕は手を握り返した。


「君と手を組むよ。だが勘違いしないで欲しい。君の野望とやらには興味が無い。僕はあくまで自分のためにやらせてもらう」

 僕の言葉にも立花さんは満足そうな笑顔を浮かべた。

「それこそお互い様ということです。わたしも貴方も」

 そして固い握手を交わし、ここに一つの同盟が誕生した。

 新生ミニコミ部。

 その第一歩を僕らは踏み出した。


 それから僕の日常は慌しく動き出した。立花さんの手腕は恐るべきもので、あっという間に部室に巣くっていた薔薇派残党を叩き出し、新生ミニコミ部の活動拠点を築いた。僕らは少しずつ来るべき時に向けて準備を整えていった。いつ森さんが帰ってきても大丈夫なように。しかし僕らは水面下で忍び寄る影には気付いていなかった。ただ、ようやく廻り始めた歯車に満足していた。

 仇敵とばかりに思ってきた立花さんとも割とすぐに打ち解けることが出来た。

 立花由利恵。彼女は確かにエゴイストである。どうしようもないわがままお嬢様であることを本人も自称していたが、正直根性が曲がっているとしか思えない。今回の抗争の経緯について大体彼女から話は聞かせて貰った当初はただ驚くばかりだったが、冷静に考えてみれば何のことはない、この抗争自体が彼女がわがままを通さんとした故のものなのだ。百合ごっこに飽きてしまったからといって、その首謀者があっさりと手のひらを返してしまったなら、反発が起きるのは当たり前である。そのことを部室で二人になった時に尋ねてみると、

「まぁそれはそうなのですけどね…」

「それはそうだけどってさ、ちょっと自分勝手過ぎない?」

「わたくしは悲しいほどにわたくしの為にしか生きられないのですよ」

「なんのこっちゃい…、とにかくだ、要はこのゴタゴタは君と坂本さんたちの喧嘩ってことなんだよね?」

「そういうことになりますね」

「そんで僕と千秋はそれに巻き込まれてるってわけ?」

「そうだと思いますよ。多分」

「ひでぇ」

 などといった会話があった。彼女は悪い人ではないが困った人である。付き合い始めてからそれが身に染みた。抗争の原因を作った張本人とつるむ破目になった身の因果を、僕は嘆かずにはいられなかったが、この時期は比較的呑気なものであった。放課後になれば部室に集まって色々と打ち合わせたり、学校を退けてからも寄り道をしたりと、一般男子高校生的青春を謳歌している自分にびっくりしたものだった。美少女と美少女(少年)の三人で過ごす時間はとても楽しいものだったが、同時に何で僕らはこうも平気な顔をしていられるのか、という疑問が常にあった。

 改めるまでもないが、僕らは壊れていた。

 二人の人間を壊した僕。

 二人の人間に弄ばれた千秋。

 多くの人間を弄んだ立花さん。

 そんな三人が仲良しゴッコに励んでいるわけで――、

 これを壊れていると言わずに何て言うんだ? だが、螺子の外れている僕らはそれなりに日々を過ごしていたのである。



 それからさらに一週間が経って、部の準備のほうも一通り終わり、残すは森さんの復帰を待つのみとなった。いつものように放課後になって部室に行くと立花さんは既にいた。軽くお互い挨拶を交わしてから、出しっぱなしのパイプ椅子に腰を下ろした。

「佐藤君は今日も来れなそうですか?」

 立花さんが尋ねてきた。「今日も」というのが大事である。

「生活指導に呼び出されてるみたいだよ。どーせまた派手にやらかしてくるだろうから、今日は出て来れないんじゃないかな」

「そうですか…、ふむ…」

「何か話でもあったの?」

「いえ、別にそういうわけではないんですが、そろそろ皆で裕子を説得に行こうかなぁとか考えていたのですよ」

「なるほどね…」

「時期尚早だと思いますか?」

 そう言われると困ってしまう。

 わかっていないわけじゃない。避けられないことだってのは重々承知している。だが、心のどこかで先送りしたいというのは情けない話だが確かにあったから、どうしても言葉が紡げず黙り込んでしまった。立花さんも腕組みをしながら目を伏せる。しばしの沈黙。自分という人間の器量の無さが虚しくなる。だが「すぐにでも行こう」などとは言えそうになかった。森さんに会えたとしても、多分どんな顔をすればいいかわからないのだ。しかしいつかは必ず償いをしなければならない。僕はまだ自分の言葉を探している段階だった。

「よしっ」

 沈黙を破ったのは立花さんだった。伏せられていた瞳は開かれ、そこからは何かしらの決心が見て取れた。「まさか」と、僕が声をかけるより早く立ち上がって鞄を掴むと、

「今からちょっと行ってきます。それじゃ御機嫌よう!」

 そう言って部室を駆け出していった。一人取り残された僕は、パイプ椅子の背もたれに思い切り身体を預け天井を仰ぎ、

「あー、すげぇカッコ悪いわ、僕って」

 そんな風に自虐的に呟いてみるのが今の僕の精一杯であった。ださいなぁ。でも仕方ないよねと嘯くしかない。もう帰ろうかな。テーブルの上にあった適当な紙に「立花、本山田の両名帰宅します」と書いてから、僕も部室を後にした。


 家の近所に着く頃には日が暮れかけていた。冬が近づいてきているのを感じる。そろそろ冬物を出さなきゃなー、などと考えていると、突如ポケットの携帯が鳴った。誰じゃと訝ってディスプレイを見てみると、「森裕子」とある。一瞬にして頭がパニックになってしまった。どうしよう。というか何事? いきなり電話って何さ? たくさんの疑問符が頭を支配しつつあった。出るべきかシカトするべきか――、ええい、ままよ、日本男児の意地を見せろよ武。意を決して通話ボタンを押してみた。

「もしもし、本山田です」

『          』

 繋がることには繋がっているが、何だか凄まじい物音がするばかりで声は聞こえてこない。

「もしもし、森さんなの? もしもし!」

『も、本山田……く』

「森さん! 森さんどうしたの、ねぇ!」

 そこでぶつりと電話が切れてしまった。何かがあったのは間違いない。どうしよう。助けを求めている感じだったな。こりゃ一大事かも知れない。家に帰って身支度を整えたら立花さんに連絡しなきゃ――、そう今後の段取りを決めると、家に急ぐことにした。

 ドアの前まで着いて、嫌な予感がしていた。胸騒ぎが止まらない。もしかして百合派のトチ狂った連中が何か仕掛けてきたのではないか? そう考え出すとキリがなかった。案の定ノブを回してみると鍵は開いていた。

「…………嫌やのう」

 だが逃げ出すわけにもいかない。なんせ僕の家だ。もし物色された形跡でもあったら即立花さんに電話しようと決めてから、いつもと違ってちっともくつろげなさそうな我が家に足を踏み入れた。

 玄関は特に荒らされた形跡はなかった。侵入者と対峙する危険もあるから靴は脱がずに居間へと足を踏み入れ「くあっっっ!!!」

 一歩足を踏み入れた瞬間、目の前にあったのはフルスイングされた鉄パイプだった。とっさに抱えていた鞄で受けることが出来たものの、勢いを殺すことが出来ず後方へと転倒する。跳ね起きようとした瞬間、別の方角からパイプが振り下ろされた。

「あああああああ!!!!」

 痛い痛い痛い痛い痛い。身体が、骨が軋む。鞄で防ごうにもさらに追撃がやってきた。背中やら腹やらをメッタ打ちにされながら必死に転げまわる――が、一発が頭に入っ

――――――――――た?

            視界が一気にぐらつく。身体が変に熱い。それから何発かが打ち込まれたのはわかったが、身動きがとれなかった。

 殺される? 死ぬ? ここで?

 終わる? 僕が? なんで?

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

 死にたくない――

 終わりたくない――

 視界は霞んで、

 身体はぐにゃぐにゃで、

 一瞬にしてボロ雑巾ではあったけど、僕はまだ――、折れてはいなかった。

 髪の毛を掴まれて無理やり起き上がらされた。相手は三人だった。全員ヘルメットを被り、サングラスに手ぬぐいで顔を隠し、揃って白衣を着ていた。僕の髪を掴んでいる奴が手ぬぐいを緩め、他の二人に笑いかけた。僕を指差しながら何か話しているらしい。聴覚がイカレたのか、何を言っているのかはわからなかった。

 ただ、奴らは嘲笑っていた。嘲笑っていやがった。こっちは痛ぇんだよちくしょう。ちくしょう。ふざけんなよ。殺すぞ。マジで殺すぞ。殺してやる。ぶっ殺してやる。お前ら。ナメてんじゃねぇ。僕を誰だと思ってやがる。

 身体は動かない。だが、たった一つ動く武器が僕にはあった。血だらけになってるけど、たった一箇所だけ、頼りになるのは――口、クチ、クチ、クククククチッチチチチッチチチチ「あああああああああ」

 迷うことなどなかった。僕は目の前の奴の喉笛に咬みついた。連中が何だか声をあげているけど、関係ないね。歯と顎に全力を込める。歯が肉に食い込んだら、さらに、もっと、もっと、もっとだ。完全に喰らいついた。血の味しかしない。グチャグチャのヌルヌル。正直不味い――、が、もう勢いで押し切るしかないよね。ここまできたらさ。

 ――――そう、後は食い千切るだけ。

 肉を破れぇぇぇぇぇ!!!!!

 ガリだかグチュだか嫌な音がして、僕は目の前の少女、そうだ言い忘れてけど少女だったよ、の喉を食い破った。皮と肉を吐き出して、身体に鞭を打つどころか釘バットを打つくらいに――ってさっき鉄パイプ打たれてるけどね。なんとか立ち上がった。他の二人も手ぬぐいやサングラスを外していて、はっきりとその顔が見えた。僕と同い年くらいの少女が二人。真っ青になっていやがった。僕からしてみれば人様の家に無断で上がりこんでおいて撲殺しようとするその根性の方に青ざめたくなるけどね。まぁいいや。閑話休題。

「ちょーっとお仕置きキツかったかなぁ」

 そう大仰な調子で言ってから、目の前で喉を押さえてのたうち回ってる少女に一発蹴りをいれた。押さえていた喉から再び血が吹き出す。

「危うく殺されるとこだったよ」

 口の中が気持ち悪い。血と肉の味が混ざって吐き気がする。もう一回血と唾を吐いておいた。すっかりたじろいでいる二人組みを見ると、やっこさんたちすっかりブルってらっしゃる。引かれちゃったかしらー?

「なんだ? 君らは。いきなしさ。邪魔者は襲ってブッ殺しちゃうってーのが君らのやり方か? 残念だったねー。襲う相手間違えたのかなぁ……」

「な、仲間はま…まだまだいるんだ! 次は絶対殺して」

「上等だよ。心置きなく咬殺してやる」

 ハッタリですけどねー。こっちも相当やばかったんですけど。しかしどうもこうかはばつぐんだ――、であったらしく、叩き割られていた窓からそそくさと逃げ出していった。やれやれだぜ。

「さーて残るは君をどうするか――だね」

 息をひゅうひゅうするばっかりで目が虚ろになりかけている少女に話を振ってみた。

「ひょ…ひょうひ……ん」

「ああ? 病院だ? 調子いーこと言ってんなよな、ボケ。リビングが滅茶苦茶だし、こんなに血で汚すし…、ったく、片付けんの僕なんだからな。てめーがどういう立場だかわかってんの? ここで僕がバラそうが犯そうが文句は言えねーのよ、チミは」

 自分で言ってみていいなぁと思った。というか僕って完全に悪役向きだよなぁ。でも一応この小説の主人公は僕なんですよ。そこんとこヨロシク。

「役得って知ってるかな?」

 少女に馬乗りになって白衣を捲ってみる。いやらしい意味ではまだない。ふむ…、うちのガッコの制服か。ってことは間違いなく百合派の仕業ってことだよなぁ。こりゃ立花さんに電話だな。だがその前に――、っと。ちょっとばかしお楽しみしてもいいよネ? などとあれこれ考えていると、既に少女の瞳に光はなかった。

「あーりゃりゃ」

 ヌルヌルする指で頬っぺたを掻く。

 正当防衛になんのかなー、こりゃ。

 過剰防衛かしら? まいったねー。

 パクられたら殺人犯確定だわな。ま、いいや。立花さんになんとかしてもらおーっと。僕はあれこれ考えるのを潔く止めて一っ風呂浴びてくることにしたのであった。



シャワーを浴びて着替えを済ませ居間に戻ると、ちょうど携帯が鳴っていた。

「もしもし」

『あ、本山田さんですか。立花です。ご無事ですか?』

「あー、まぁなんとか。鉄パイプ持った怪しい三人組に強襲されはしたけどね」

『……申し訳ありません。わたくしがもっと奴らに注意を払っていたらこんなことには…』

「いや、起こっちゃったことは仕方ないよ。立花さんの方は大丈夫なの?」

『裕子の家に向かう道中でちょっと襲撃されましたが、十人くらいだったので平気でした』

 十人…だと…? もうなんかすげぇとしか言い様ないなぁ。

『それとどうも裕子が攫われたようです。「今晩午前零時学校」と書かれた紙と百合の花束が部屋に転がってましたから、十中十奴らの仕業でしょうね』

「とりあえずさ、合流しない? 今後どうするかとか相談したいし」

『そうですね。今御自宅ですよね? すぐそちらに向かいます』

 そう言うが早いか、電話は切れた。

 今晩零時――、か。荒れるな、今夜は。なんだかよくわからんけど。僕は死体が転がっているキッチンで、コーヒーでも淹れながら彼女を待つことにした。


 三十分もしないで彼女は到着した。居間に通したところの第一声が、

「随分風通しがよいお部屋で」

「そりゃどうも」

 互いに苦笑いするしかなかった。

 それから情報を交換し合った。襲撃を受ける前に森さんと思わしき人物から電話を受けたこと、家に帰ったら三人組に待ち伏せられたこと、その内の一人を殺っちゃったこと、二人には逃げられてしまったことを話した。話し終える頃には随分と渋い顔になってはいたが、大体のことは飲み込んでくれたようだった。

「状況は芳しいとは言えません。後手後手に回っていますし、待ち伏せられている以上こっちが不利なのは明らか…」

「でもだからってイモ引けないじゃん」

「それは当たり前です。あの外道共にお灸を据えてあげなきゃいけないのは分っています。乗り込む以上は準備がいる――、という話ですよ」

「準備ねぇ…」

 彼女が持ってきた荷物に目をやった。スポーツバッグと竹刀入れが持ち込まれていた。護身具かなんかだろうか。スタンガンでもあれば心強いんだが。

「その荷物には何入ってんの?」

「持ってこれるだけの武器は持ってきました。目には目を、ですよ」

 そう言って竹刀入れを手にとって開けると、

「!!!」

 出てきたのは日本刀でした。マジで? 本物っすか?

「どっかの漫画じゃあるまいし、現在では帯刀が認められてはいないですからね、持ち出すときはいつもこうやってカモフラージュしているんです」

 ――――ヒュン

 鞘を払っての一振り。美しく研ぎ澄まされた刀身に目を奪われた。日本刀と黒髪の美少女。これほど絵になる組合わせはないだろう。

「わたしはこれで冬美を斬ります。本山田さんには…、うん、あれがいいでしょう」

 あれってなんやねんと疑問を呈する間もなく再び刀を収めると、バッグの中から新聞紙に包まれたものを取り出した。

「それ何? まさか…」

「そのまさかですよ」

 そう言うと悪戯っぽく微笑んだ。小悪魔スマイルは反則だろーがってそんなことを考えている場合じゃないよ! 剥かれた新聞紙から出てきたのは、

「ベレッタ、M92F。ポピュラーな拳銃ですね。弾はちょっと打っちゃったんで十発ほどしかないですが、連中相手にはまぁ何とかなるでしょう」

「ちょっとちょっとちょっとちょっと!」

「お気に召しませんでしたか? あ、それならこっちの」

「そうじゃなくてさ、ポン刀でさえかなりビックリなのに、拳銃ってなにさ! さすがにこれはスルー出来ないよ! なんでこんなもん持って」

 んのさ――、と叫びたいところだったが、僕の口は彼女の唇によって塞がれてしまった。そのまま押し倒され、舌を捻じ込まれると、もう自分が何に驚いていたのかわからなくなった。目をパチクリさせていると、すっと彼女が離れた。

「落ち着きましたか?」

「え、あ、あ、その…、うん」

 その時僕らの距離は数センチ。真剣な眼差しが僕に向けられていた。目を逸らすことは出来なかった。

「死の商人ですよ」

「へ?」

「それが…、立花家の事業なんです。わたしと冬美の衝突が避けられないのは単に部のことだけではないの…」

 あまりの深刻な様子に僕は何も言葉をかけることが出来なかった。

 死の商人だって?

 もう何がなんだかわからないよ…

「でももう終わりにしなきゃいけない! 今夜で全部ケリを着けなければ、きっと抗争は続いてしまう。無駄な血が流れるに決まってる…、お願いです、本山田さん、わたしに力を貸して!」

 そう言って抱きついてきた彼女は、百合の女王でも、死の商人の娘でもなかった。

 ただ独り、普通の少女だった。

 こんなにも脆くて

 こんなにも儚くて、

 折れそうな心を抱えて、たった独りで戦ってきたんだ、この娘は。

 そろそろ僕も覚悟を決めなきゃってことか。

 いいさ、面白いじゃないか、やってやろうじゃないか。

 全部まとめて面倒みてやろうじゃないか。

「やろう。立花さん。今夜で全て終わらせるんだ。百合だの家だの全部僕らでカタつけるんだ」





 

 それから僕たちは時間をかけて打ち合わせや準備を行った。当たり前の話だが拳銃の扱い方なんて知らなかったので、その辺のレクチャーも受けた。さらに嫌な話ではあるが、死体についても相談してみた。なんとかしてくれるとのことなので、とりあえずは安心できた。

「さて、これからどうしようか? まだ大分時間があるよね」

「そうですね。でも呑気に外をうろつくわけにはいきませんわね…」

「どこから連中が仕掛けてくるかわかんないしなぁ…」

「あと本山田さんは一応殺人犯ですし」

「いや、だってあれはしょうがなかったんだって!」

「まさか喉笛を喰いちぎるとはねぇ…、ブルータルにもほどがありますよ」

「とにかくだ! 外には出れないわけだし」

「若い男女が二人っきり――、と言ったらすることはたった一つでしょう」

「セクハラ禁止ッス!!!」

「あら。死姦もいけるクチの割にはカマトトぶっちゃって」

「なっ、断じて僕にそんな趣味はないぞ!」

 などといった頭の悪い会話があった。これから殺し合いに赴こうってのに、緊張感が無さ過ぎる自分たちの螺子の緩みっぷりに呆れた。立花さんが「わたしもシャワーを借りてよいですか?」と聞いてきたので風呂場へと案内し、僕は居間のソファーにひっくり返って天井を仰いだ。

 女の子は風呂が長いというのは本当だった。さらに「髪が乾くのを待ってください」と言われたので、仕方なく待ってたりなんだりしていたら、結構な時間になっていた。お互い準備の準備は済んだ。あとは行くだけ。戦うだけだ。

「行きますか?」

「行きましょう」

「「仲間を奪り返しに!」」


 学校への道中では幸い襲撃をうけることはなかった。

「襲撃班がやられたからでしょう。向こうも兵力を温存させたいはずですし」

「ということは…、学校で向こうさん全員がお出迎えってことか」

「まぁそうなるでしょうね。ただ、百合の実行部隊の介入はなさそうですから、存外手こずらないかも知れないですよ」

「実行部隊?」

「百合派は学外にもシンパがたくさんいたのですよ。中でも暴力に長けた面子を集めた実行部隊が存在したんです。今回の場合、冬美の性格的に外部の協力は仰がないはず…、です。つけ込むとしたらそこでしょう」

「万が一介入されたら…?」

「肚をくくるしかないですね」

「……さいですか」


 それから学校に着くまで一切の会話はなかった。お互いが戦闘モードになっていくのがわかる。これから僕らは殺し合いをしに行くのだ。打ち倒すか、打ち倒されるか。そういう領域での勝負。いや、勝負ですらないかもしれない。勝つしかない。打ち倒して勝つしか道はない。

 勝てば生。

 負ければ死。

 ――ただそれだけのこと。それだけのことであるからこそ、勝たねば。

 通い慣れたはずの道が、今夜に限って何だか違って見えた。


 いざ学校に着いてみると、辺りは不気味なほどに静まり返っていた。これから何が起きるかなんて我関せずとばかりに、あるのはただ闇と静寂ばかりだった。

「そろそろ午前零時です。行きましょう」

立花さんの言葉に頷いた。正門をよじ登って敷地内に侵入する。ちなみに僕は裏門から忍び込んだ方がいいんじゃないかと提案したのだが、「コソコソするのは性に合いません」と却下されてしまった。だが、いざ侵入した僕らを待ち受けていたのは異様な光景だった。

「「!!!」」

 校舎へと続く僅かな距離に転がっていたのは、百合派の下っ端と思わしき少女たちだった。

「こ、これは一体…」

 立花さんも動揺しているようだった。

「仲間割れでもしたんだろうか…」

「ありえません! 奴らに限ってそんなことはないはず」

 そう立花さんが絶句した時、もう一体、壊れたマネキンを放り捨てるかのように、校舎内から少女が転がり出た。

 僕がホルスターから拳銃を抜くより早く、立花さんは鞘を払っていた。

「本山田さん、後ろを頼みます」

 立花さんがそう言うのと同時に、もう一体の少女が吹っ飛ばされてきた。

「姿を現しなさい!」

 彼女の凛然とした声が闇の中に響く。

 だが、暗がりから現れたのは僕らのよく知っている顔だった。

「千秋!」「佐藤くん!」

「なーんだ。二人とも来てたんだ。でも水臭いじゃない。ボクに内緒で戦いに行っちゃうなんてさー」

「そう言えば千秋のこと…」

「すっかり忘れてましたね…」

「んもー。二人ともひどいゾ!」

 そう言って頬を膨らます千秋は、ヤバい、かなり可愛い。しかしその恰好はまたまた異様だった。ゴスともパンクともつかない黒尽くめ。黒いノースリーブに同じく黒のショートパンツ。おまけに安全靴ときてる。どこぞの殺し屋染みた恰好だが、不思議と似合っていた。

「ご無事なようでなによりです。貴方は襲撃は受けなかったのですか?」

「ううん、帰り道に変な人たちに襲われはしたけど、五人くらいだったから余裕だったよ」

 余裕だったって何さ。僕なんか三人相手がやっとだったってのに…、それも実際倒せたのは一人だし。

「とりあえず一階の奴らは大体片付けといたよ」

「冬美たちは?」

「二階とか、上の階じゃないかな。一階は雑魚ばっかだったよ」

「そうですか…」

 立花さんは何かが引っかかっているようだったが、ひとまず合流できた僕らは今後の動きについて話し合うことにした。

「一階はボクに任せてよ。残ってる奴らがいたら片付けとくし、探せる限りは探してみるからさ。二人は上をお願い」

 千秋の一言によって二手に分かれることが決まった。だが一人にしてしまって大丈夫なのか? 校舎の中は月明かり以外に明かりと呼べるものはない。敵がどこにどう潜んでいるかなんて皆目検討がつかないのだ。そのことを尋ねてみると、

「大丈夫だよ! ボクは武君へのラブで満たされてるから、こんな暗がりへっちゃらなのだ! それにこの戦いが終わったら…」

「終わったら?」

「ううん、なんでもない。じゃ、行ってくるね!」

 そう言って闇の中へと駆け出してしまった。

「罪な男ね…」

「へ?」

「なんでもありません。さ、上へ参りましょう」

  促された先には二階へと続く階段あった。この先にきっと修羅があるのだろう。だが、もう進むしかない。一歩一歩踏みしめるように僕らは二階へと向かった。

 階段を上がってみると、人の気配というものは全くないようだった。一般棟においては特別教室が集まっている階なのだが、全ては闇に包まれている。

「誰もいない…、のかな?」

 そう呟いてみたのだが、立花さんからは何も言葉が返って来ない。どうしたのかと彼女のほうを見遣ると、彼女は文化棟へと続く渡り廊下を見据えていた。大きな窓から差し込む月明かりで奇妙にそこだけは明るかった。

「立花さん?」

「……本山田さん、先に行っていてください。そして早く裕子を」

「どうしたっていうんだ。まさか!」

「そうですよ。出てらっしゃい! そこにいるのはわかっているのよ。

 ――――――――、冬美」

 クスクスという嘲笑い声が響いた。闇の中から現れたのは――

「お久しぶりです。立花先輩。あ、本山田先輩も」

 かつての長い黒髪をばっさりと切り落とした坂本冬美だった。腰には刀を下げている。死合う気だということだろう。

「本山田さん。さぁ早く!」

「で、でも」

「貴方が行かなければ意味がないんです! 貴方でなければ裕子は救えない。だから、お行きなさい!」

 そう叫ぶと刀を抜いて僕に向かって突きつけた。

「早く!」

「わ、わかった! ここは任せたよ」

 振り返ることはもうしなかった。託されたのだから。後は期待に答えるしかない。

 僕が森さんを絶対に救い出す!



 


「仲間を先に行かせるなんて、随分とらしくないことをするんですね」

 かつての由利恵を皮肉るかのように冬美が呟いた。

「あの頃のわたしとは違うのよ、冬美。わたしはもう一人じゃないわ」

 

 一人じゃない。


 その由利恵の言葉に冬美は苛立った。

「死合う前に幾つか聞いておきたいことがあります」

「あら。奇遇ね。わたしもよ」

「立花先輩。貴女は何故私たちを裏切ったのですか? 貴女は求められ、望まれていたはず。それなのにどうして?」

 冬美の問いかけの意味は痛いほどに解る。だが、既に由利恵はその地点に立ってはいなかった。その先を得るために、今ここにいる――、それは由利恵の中でただ一つ確かな答えだった。

「言った筈よ。他人に授けるものなど持たない――とね。わたしは他人ためには生きられない。悲しいほどに己れのために生きるもの」

 由利恵の言葉に対し、冬美の中の何かが弾けた。

「では今までの貴女は何だったというのですか! 百合の女王としての貴女は? 交わした契りは一体…」

 冬美の叫びが闇の中に響き渡る。

 しかし、そんな冬美を前にしても、由利恵は眉一つ動かさなかった。だがその僅かな時の刻みの中で、少しだけ由利恵は微笑ったのだった。

「全て嘘だったと貴女は言うのですか? もしそうなのであれば――、斬ります」

 そして冬美も刀を抜いた。

「百合に真も嘘もない。百合はこの世でただ一人――」

「それが貴女だと言うのですか?」

「試してみればいいじゃない。そのつもりでこの騒ぎを起こしたのでしょう? 百合派の娘たちもそのための捨て駒であろうし、裕子を攫ったのも、何もかもこのわたしと対峙する――、ただそれだけのためにお前は賭けたのでしょう?」

「そこまで解っているのなら話は早いです。勝てば生、負ければ死。ただそれだけのこと。私は、自分のこの命を賭けられる」

「剣に真があるのなら、それは一つ――、勝つこと。おいで、冬美」

 勝負は一瞬。

 ただの一瞬で決まる。

 お互いが一太刀――、ただ一撃に全てを込めてくること、

 それがわかっている以上、一瞬以上の勝負などありえない。

 二人は構えた。

 差し込む月明かりだけが二人を照らす。

 互いの顔半分は闇に融けたままだが、照らされたもう半分は、二人とも確かに微笑っていた。

 

 冬美が駆け出す。

 自らの全てを賭けて。一本の刀に全てを託して。

 

 由利恵は動かない。

 ただ待っていた。全てが決まるその時を。


「てりゃあああああああああ」

 冬美の咆哮が響く。

 全身全霊を以って振るわれた刃が由利恵を襲う――、はずだった。

「ふっ」

 しかしその刹那、確かに一筋の閃光が放たれたのだった。

 由利恵の刀が閃光った。闇を切り裂く斬撃による一閃だった。

「な、なん…だと…?」

「やはりお前では百合は背負えないようね。冬美」

 冬美の右手首が緩やかに落ちた。勝負の終わりを知らせるかのように、冬美の右腕から鮮血が迸り、床を紅に染めていく。

「終わったわね」

「ま……、待て…、ま、まだ…」

「一度でも負けの味を覚えたお前はしょせん――、負け犬よ。やめなさい。負け犬の遠吠えは」

 これが百合。立花由利恵であるということを、坂本冬美は初めて思い知らされた。

 かつてあれほどに焦がれた背中に届くことはなかった。

 完全な敗北。初めて味わうもの。

 だが、不思議と幸せそうな笑みを浮かながら、冬美は血だまりに沈んだ。

 


 

 覚めない夢などは存在しない。

 明けない夜などは存在しないのだ。





 

 僕の足は一直線にある場所へと向かっていた。森さんがいるとすれば文化棟屋上、そこしかないような気がしていた。階段を駆け上がり扉を開けると、夜の空の下に彼女はいた。彼女は静かにフェンスの向こうを見つめていた。

「森さん…やっぱりここか」

「…………だれ」

「!!!」

 振り返った彼女は、かつて僕が見知った人間とは思えないようだった。解かれた長く乱れた髪が夜風に靡く。その瞳には光は宿ってはおらず、ただ目の前にあるものをあるがままに映し出す夜の水面のようだった。

 恐ろしかった。

 だが、不思議にもそんな彼女は美しかった。

 しかし動揺している場合でないのも事実だった。早くここから連れ出さなければ。まだ真夜中だからいいものの、事態が長引けば確実に近隣住民に通報されてしまう。

「森さん、僕だよ。本山田だ。助けに来たんだ」

「森…? 本山田…? 誰なの、それ。そんな名前知らない」

「知らないってそんな馬鹿な…僕らクラスメイトじゃないか!」

「…………知らない。貴方は…誰? わたしは…誰?」

 まさか記憶喪失なのか?

 百合派に襲われた時にでも何かあったのだろうか。

 だとしたらなお更早く連れ出さないと。僕は彼女に歩み寄ってその手を取ろうとしたその瞬間――――、彼女の右手には何かが握られていた。

「うあっ!」

 頬に熱いものが走った。左手で触れてみると――、血だ。ナイフによる一撃。寸でのところでかわしきれなかった。

「森さん! 止めるんだ」

「それは…、わたしの名前? 知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない…………」

 そう呪詛の如く呟くと、ナイフに付いた血を指先で掬い取って顔に塗りたくった。

「………………わたしは、だァれ?」

 そう呟いてから、彼女は――、微笑った。

――――――――、来る

 そう感じた瞬間には飛びのいていた。

 再び繰り出された一撃を今度はかわしきる。素早くホルスターから銃を抜こうとはしたが――、撃てない。僕が彼女を撃てるはずがなかった。

 どうする?

 どうすればいい?

 どうすれば彼女を救えるんだ? 僕はどうしたら――――って、考えるまでもないか。

「やめた」

 そうはっきりと宣言してから、彼女の目の前に拳銃を放り出した。

「な…、なに?」

「やめたと言ったんだ。僕は君と戦いに来たんじゃないから。僕は、君を助けに来たんだ」

「私を…、助けに…?」

「そうさ。僕だけじゃないよ。立花さんも千秋もそうだ。皆で君を助けに来たんだよ」

「立花……、千秋……、知らない! そんな名前知らない! 皆知らない! わたしは、わたしは……、何にも知らない!!!」

 ナイフを取り落とし、耳を塞ぎながら彼女が叫ぶ。

 それはまるで大切なものを無くして荒れ狂う獣のような、

 それはまるで母親からはぐれてしまって泣く子供のような、

 そんな風に見えた。

「君が僕や千秋を利用しようとしてたのは知ってる。立花さんに対する憧れやコンプレックスが入り混じって気持ちがグチャグチャになっていた時期があったっていうのも知ってる」

「うるさいうるさいうるさい!!! 黙れ! わたしの前から消えろ、消えてなくなれ!」

「そうはいかないよ。君を絶対に連れて帰るから」

 僕の一言で彼女の様子が再び豹変した。足元の拳銃を拾い上げ、僕に向かって突きつけた。その両手は震えながらも、銃口はまっすぐ僕に向けられていた。

「これ以上喋るなら……」

「喋るなら?」

「…………殺す」

「そっか。いいよ。君にはその資格があるしね。その拳銃で僕を殺してもいい。ただ――」

「な、何よ…」

「撃つ前にセーフティを解除するんだね。そう、そこのトリガーを下ろすんだ。あとは…、そうだな。この距離はちょっと近すぎるかな。拳銃ってのはそもそもミドルレンジ以上で使うべき武器だしね」

 そう一方的に喋ってから距離をとった。フェンスの傍ギリギリまで下がる。

「これで…、よし、と。あとは」

「まだ…、何かある…、の?」

「命乞いを聞いて貰おうと思ってね。一世一代にして人生初の、命乞いにして――――、口説き文句さ」

 さぁ、存分に喋らせてもらいましょうかね。

「僕は確かに君に利用されたし、確かに君を傷つけもした。それは確かな事実だ。でも僕は君に救われてもいたんだ。裏の目的なんてのは正直どうでもいい。君の利用が、君のおせっかいが、嬉しくもあったんだ。僕なんかの為に、必死で動いてくれる君の存在は、僕にとっては救いだったんだよ。そのことにようやく気付いたんだ。例えその裏に隠された目的があったとしてもだ。そんな風にしてくれた人は、君が初めてだったんだよ。森さん」

「その名前でわたしを呼ぶなァァァァァァァァ!!!!!! もう全部忘れたいんだから、わたしを呼ばないで……」

「君を忘れるなんて僕には出来ないよ。だって初めて仲間になれると思えた人なんだから。君と出会えたことは、僕にとって幸いだったと思う。だから、またやり直したいんだ」

 

 言えなかった言葉はたくさんある。

 

 でももういい。

 

 伝えるべき言葉が確かに僕の中にある。

 

 もう迷わない。

 

 君に言わなければならなかったこと、今なら言えるよ。森さん。


「僕は君と友達になりたい」


 彼女の目から涙が溢れ出した。

 ゆっくりと頬を伝い、床へと零れ落ちる。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 彼女が慟哭した。その場に崩れ落ち、大声で泣いた。

 静寂を――、

 この闇を突き破るかのように――、

 悪夢の終わりを告げるかのように――、

 僕はゆっくりと彼女の傍に歩み寄った

「も、本山田くん…、わたし、わたしは!」

 泣きじゃくりながら僕を見上げたその顔は、僕の知っている森裕子そのものだった。

 さぁ、終わりにしよう。何もかも。

 ここから全てが始まるんだ。

 僕はゆっくりと右手を差し伸べた。

 戸惑いながらも、彼女は僕の手を握り返してくれた。



「おかえり」



 長い長い一日の終わりだった。

 僕たちの夜は終わった。

 始まりの朝がやってくることを僕たちは確信し合った。

 誰の空の上にも必ず太陽はやって来るのだから。

 ここから、

 僕たちの本当の物語が始まる。



























 狂い咲き乙女ロード ラスト・ダンス 完了

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狂い咲き乙女ロード (Remaster Edition) 黒井真事 @kuroko3090

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