第3話 暴かれた世界
「う……あう……あっ、もう……僕、駄目だよ!」
「あああああっ、もう出(以下略)」
…………はっ、ドリームか。
ふう、本気で焦った。まさか三日連続でこの夢とは……
って、んもう! 僕はなんつー夢を見とるんだ! しかも三日連続たぁふてぇ野郎だ。くそ、くそ、くそ、あああああああああ、クソ野郎は僕だったッァァァァァ
もうどうしたらいい? ゴッドよ、教えてください。僕は大変な罪を犯しました。具体的に言うとクラスメイトを強姦しました。嫌がる彼を無理矢理に、力ずくで陵辱しました。
いやいや、落ち着くんだ、僕よ。しょうがないじゃないか。あれは不可抗力ってやつだ。そうしろって言ったのはまず森さんだし。僕の意思でそうしようって考えたんじゃないから大丈夫さ。
あとはなんだ、千秋が可愛過ぎるのがいけないんだ。だってそうだろ? 男の僕でさえどうにかなっちまいそうな程可愛いんだぞ? そんな男の子が身近にいるんだ、だったら抱きしめてみたいじゃん、押し倒してみたいじゃん、啼かせてみたいじゃないか! そうだろ全世界のブラザーたちよ。君たちなら解ってくれるはずだ、この僕の湧き上がる衝動を、そして欲望をッ!
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だッ! 誰に話しかけてんだ、僕は。ブラザーってどこのどいつだよ、全く。
もう嫌だ。
うんざりだ。
耐えられない、耐えられない!
自分が何をしたのか解ってんのか? 乱暴したんだぞ。それなのに何呑気に色ボケした夢なんて見てんだ。
馬鹿だろ?
阿呆だろ?
屑だろ?
常識的に考えて。
人間失格だよ。何が不可抗力だ、何が自分の意思とは関係ないだ、行動を起こしたのは僕自身だ。森さんに何を言われようときっぱり断ればよかったのだ。もう死のうかな。そうだ、本当ならとっくに死んでるはずだった。それなのにどうしてまだ生きてる? なんで――
とかなんとか朝っぱらからやりつつも、もうどうしようもなかった。とりあえず僕はいつも通り学校に向かうことにした。
僕が千秋を犯してから十日が過ぎた。事を起こしたのが木曜で、次の日、そして週が明けても千秋が学校を休みだしたことから色々と問題が発生した。
森さんがあれだけ言うのだから、多少強引にヤっても大丈夫だろうと高を括っていたのだが、いざ蓋を開けてみると僕らの予想は大いに外れた。行為を終えた時点で、千秋が本気で泣いていたため、まさかとは思っていたのだが、週明けの月曜、ホームルームが始まっても千秋が姿を見せないので、不安は確信へと変わった。さすがの森さんも心配になったらしく、放課後部室にて緊急ミーティングを行おうと提案されたので、僕も大いに賛成した。
森さん曰く、何度か携帯にかけてはみたのだが、一向に出ないのだという。いくら電話しても千秋が出ないということは、僕らの軽はずみな行動が原因で、千秋が精神的苦痛と肉体的苦痛を同時に味わう破目になったということは明確である。それでも森さんは、
「大丈夫だって。多分恥ずかしがってるだけじゃない? 少し時間が経てば落ち着くはずよ」
などと楽観的見解を述べているが、僕にはどうもそうは思えなかった。千秋は恐らく僕らが考えているよりはるかに繊細な少年だったのだ。
僕は何をやっているのだろう。何でこんなことをしたんだろう。何故? 千秋のことが好きだったから? それとも性欲に負けたからか?
どれも違うのはわかっている。
本当のところは僕は森さんに嫌われたくなかったから? 彼女に認められたかったから? いや、好きだったのは間違いない。それでも僕は一人の人間を壊してしまったのに違いはない。
壊してしまうのは簡単にできると思っていた。
でも違った。
確かに壊すだけならそうかも知れない。でも当然壊したなら破片が飛び散る。その破片は決して硝子とか人工物じゃない。人間の心だ。心を壊してしまえば、砕けた心が、砕いた奴に突き刺さるのは自明の理だ。
刺されてみて初めてわかった。心の重み。
ココロ。
ボクニタリナイナニカ。カケオチタナニカ。
ソレガ、ココロ。
でも、もう遅い。
それに気が付いたところで時間は戻せない。起きてしまったことを、打ち消すことなんて出来ない。手遅れだ。だから言わなきゃ。はっきりさせないといけない。僕の罪も、そして彼女の罪も――、
「もう駄目だ」
そう。千秋には悪いけど、僕にはもう無理だ。誰かを好きになる資格なんて無い。だが僕の言葉に森さんは猛然と反論してきた。
「どうして? ここで諦めてどうするのよ。確かに佐藤君は少しショックだったのかも知れないよ。だってやっぱり男の子だから。犯されるっていうか……その、無理矢理されるっていうのは、やっぱり予想以上に色々な痛みがあったのかも知れない。だけどさ、佐藤君はそれを望んでもいたのよ? いつかは体験することだし、少しぐらい強引にリードしてもらわなきゃ決心がつかないって言ってたし。だから本山田君が罪悪感を感じる必要はないわ。必要なのは時間なのよ。それを受け入れるだけの時間が佐藤君にも本山田君にも」
響いたのは派手な打音だった。
言い終えるより先に僕は森さんの頬を打ち据えていた。彼女の眼鏡が吹っ飛んで床に落ちるのが酷くゆっくりに見えた。
身体の感覚がひどく曖昧になっていく。視界と世界が揺らぐ。
眼鏡が床に落ちた音で、彼女は自分が頬を張られたことに気付いたようだった。現実を認識するまでの時間のズレが、僕にも彼女にも起きたのかだろうか。
「な、何すんのよ!」
怒声。彼女の言葉。薄い膜に包まれているようで、本当の音量よりも小さく聞こえる。
「 」
まだ彼女の言葉は続く。僕にはもう認識できなくなっている。
僕はどこにいる?
辺りを見渡してみて、ああ、そうだった。部室だ。僕は放課後森さんとここに来たんだった。記憶さえもぼやけ始めてしまったか。まだ彼女が何か言ってる。うるさいな。少しは静かにしてくれよ。いま何だか少しはマシな気分になれそうなんだ。だからそんな風に怒鳴るのは止めてくれ。揺さぶるのも止めてくれ。いい加減にしてほしいな。邪魔だな、この娘も。
どうしようか。部室で二人っきり。力は多分僕の方が強いだろう。どうとでもできるか。そうだね。
僕には足りないのはココロです。
それはさっきわかりました。
そうですか。
ならどうしましょう。
どうしますか。
僕はココロない人間です。
だから知ってます。
だから何でも出来るんですよ。
彼女を壊すことだって。ホラ簡単。
「そうだね」
呟きながら思わず笑みがこぼれる。
後は動くだけ。やっと身体がココロに追いついてきた。「あ、ココロなかった」
僕の独り言が不気味だったのか、不審そうな眼差しを森さんが向けてきた。
「な、何言ってるの?」
「なにも」
あの時とやり方は同じ。諸手狩りタックル。あ、やっぱり軽いな。そんな感想を抱きつつ、僕は森さんを床に押し倒した。可愛い悲鳴が聞けたのは貴重なのかな。幸いなことにドアには鍵がかかっている。これでずっと僕のターンだ。馬乗りになった状態から暴れる両の手を掻い潜って、容赦なく殴りつける。オラオラオラっていう感じで。この際顔面にも何発か入れても構わない。後は腹部。こっちの方は特に重点的に。やっぱりボディーは効くみたいで、ニ、三発ブローを叩き込むとおとなしくなった。
僕を支配しているものは、
性欲?
征服欲?
支配欲?
どれでもいいのか? それとも?
これからどうしようか。彼女は悔しそうな涙を浮かべてはいるが、その目には抵抗の意思がまだ残っている。「やるならやれ」とでも言い気な眼つきだ。気丈なお人だこと。
なんだか面白くないな。もっと怯えろ、恐れろ、震えろ、泣いて、叫んで、喚いて、もがいて、助けを呼んでみろよ。じゃなくちゃつまらない。そんな悟りきったような、人を蔑んだ様な、体はやられても心はやられないみたいな、そういうのは興醒めだ。
馬乗りになった体勢のまま、僕はどんな表情をしていたのだろう。なんだかもうどうでもよくなってしまった。そんな僕を見上げながら彼女が言った。
「どうしたの、しないの」
あー、もう降参だ。やめだ、やめ。取り消し。無理だろうけど。また一つ愚行を積み重ねてしまった。
「悪かったよ」
そう言って体を離した。そのまま床に座り込んでぼんやりと天井を見上げるふりをしてみた。随分と埃っぽそうだなぁ、向こうの蛍光灯は切れそうだなぁ、などと考えている場合ではない、か。森さんの視線は僕に固定されたままだし。
「驚いた?」
腹部をかばう様に座りなおした彼女の方を向きつつ、軽い調子で尋ねてみた。
「そ、そりゃそうよ……」
ですよねー。普通に考えれば当たり前だよねー。いきなり押し倒されて乱暴されかかったら、大抵の人は同じ感想を抱くだろうね。ああ、でも確認しておかなきゃいけないことがあるな。
「一つ訊いていいかな?」
「…なに?」
「驚いた以外の正直な感想を教えて欲しいんだ」
発言の意図を理解できないのか、言葉を選んでいるのか、それともどちらでもないのか、森さんは口を開かない。もう少し噛み砕いて話す必要があるみたいだ。
「訊きたいのは、えっと……何て言えばいいのかな、その、どうにもならないっていうか、そういう状況になって……あー、上手く説明出来ない」
「お願いだからわかるように言ってよ…」
「じゃあ露骨な訊き方をするよ? ぶっちゃけた話、犯されそうになった感想は如何様ですか?」
彼女が身を強張らせたのがわかった。その表情が一気に曇っていく。彼女は先程よりも弱々しくなった目で僕を見た。
やっぱり怖かったのか。当たり前だろうけど。そう、それが普通だよな。誰だって怖いよ。実際僕だって怖いし。犯されるなんてことは真っ平御免だ。
そして彼女が答えるより先に僕は続けた。
「返答次第でどうこうするつもりは……、一応ない。多分。でも僕がどういう人間かはわかったでしょ? ドアには鍵かかってるし、続きをやろうと思えば簡単に出来るんだよ。次は容赦しない。本当のところを教えてくれないのなら、
君のココロも
カラダも
ぶっ壊すしかない」
そう言って少し、また少しとにじり寄っていく。
「え、あ、嫌っ」
後ずさりしようったってこの狭くて汚い部室の中じゃそうもいかない。後ろにそびえるはダンボールの山たちだ。逃げ場を失った彼女は僕を見上げることしか出来ないようだった。
「そんな目してもダーメ」
もう彼女との距離は限りなくゼロに近くなった。手を伸ばすまでもない。出しさえすれば届く間合いだ。制服に手をかけようとした時、
「……や、やめてください……お、お願いします」
震える声を絞り出すようにして、俯きながら彼女は言った。だが僕は笑顔で言う。
「それだけ?」
プライスレスにして嫌味満開の偽善者スマイルと台詞とのミスマッチに戸惑い、再び泣き出しそうになりながらも、彼女はなんとか言葉を紡ごうとした。だがその前に僕の
中の
何かが 切れた。
そしてそのまま彼女の上に覆いかぶさった。
暴れて、何事かを叫ぼうとする彼女の口を塞ぎ、とうとう僕は言ってはいけないことを口にする。
禁断の言葉。彼女がコワレルマホウノコトバ。
これを言われたら彼女は何も言えなく、そして何も出来なくなる。効果は残酷なほどに覿面であるのは保証したっていい。
ずっと気になっていた。
何故彼女がここまでしてくれるのかということ。
いくらBLに興味があるからといって、他人の色恋沙汰、それも同性愛にここまで踏み込んでくるなんて普通じゃない。
それでも僕は信じていたかった。
だって、初めての理解者かもしれなかったから。
でも違った。彼女は嘘吐きだった。偽善者以外の何者でもなかった。
彼女は自らの野望の為に僕と千秋を利用していただけだったのだ。
知ったのは偶然だった。僅か数時間前の出来事。昼休みのことだ。なんとなく気分を変えようと食堂に行ったのが事の発端だった。一緒に食べる友達なんていないから、隅の席で一人うどんを啜っている時に、ふとどこかで聞いたような声がした。丼から顔を上げて、その声の主を探すべく、聴覚を研ぎ澄ます。すると斜め前の席に座っている二人組みの片割れであることはわかった。さらに耳を澄まし、会話の断片を懸命に拾っていくうちに、僕は全てを理解した。
森さん、そして薔薇派の野望の正体。それは『三次元における理想的ボーイズ・ラブの成立と観測』だということを、僕は知ってしまったのだ。
食堂から出た二人組みの後をつけ、人気の無い文化棟に入ったところを捕まえて、脅迫的肉体言語を用いて洗いざらい白状させた。ここでようやくミニコミ部という大きな闇の中を見ることが出来たわけだ。
捕まえたのは森さんによって部室に連れていかれた時に会った薔薇派の一年生二人で、尋問の末にかなりの情報を聞き出すことに成功した。
ミニコミ部は昔からほぼ男子禁制というのが不文律として存在する部活だった。それは創部以来の伝統として今の代にも受け継がれており、部長交代にもある約束事が存在している。
最も『百合』に相応しい者が部長の座を引き継ぐ、というのが影の伝統となっていたのである。
そしてその法則によって選ばれたのが立花由利恵だった。
彼女は入部当初から一際目立った存在だった。腰にまでかかる長い黒髪、色白で極め細やかな肌、すらりと伸びたハイソックスが似合う足、『百合』としての条件を十分なほどに彼女は満たしていた。部長就任に際しても異論を唱える者は一人として現れなかった。
そしてもう一つの伝統。副部長は『百合』自身が愛した者を選ぶという約束だった。愛する者が部内にいなければ、その代は副部長の座は空けるというのがルールだった。
時を遡ること約一年前。
この高校において文科系の部活は学祭終了とともに役員が変わるのが常である。その日のミニコミ部の部会においても、同じように次期部長が先代の役員たちによって発表された。狭くて薄汚い部室には、普段なら顔を出さない三年生までもが集まって、全員が神妙な面持ちで現二年生の部長の言葉を聞いていた。
「それでは次期部長となるのは――、立花由利恵さん、あなたです」
その言葉に歓声と拍手が沸き起こった。
わたしはその様子を後ろで腕組みしながら見つめ、いや、傍観していた。誰がどう考えても由利恵以上の人材がいるとは思えないし、これも必然以外の何物でもない。予定調和の産物だ。
ミニコミ部。そこは足を突っ込めば抜け出せなくなる魔窟そのもの、カオスの楽園だ。
高校入学当初、わたしはあらかじめ得ていた情報から、入部は避けようと考えていた。妙な伝統があるということ、男子禁制の閉鎖的な部活だということといった噂をしばしば耳にしていたのだ。
だがしかし、新歓の時期に文化棟をうろついていたところ、突如とんでもない美人に声をかけられた。上履きをみるとどうやら二年生のようで、とにかく長い黒髪が印象的な、大和撫子を体現するようなその先輩に、わたしは目と心を奪われてしまった。
「ちょっとそこの君」
「な、なんでしょう?」
別に何も悪いことしてないのに声が震えてしまう。あー、でもこの人ホント綺麗だなー。女のわたしでもどうにかなってしまいそうな気がする。
「小説とか漫画とか興味ある?」
意外な質問が彼女の口から発せられたのに少し驚かされた。
「え? あ……、あります…」
わたしの答えに満足したのか、その人は華のような笑顔を咲かせると、わたしの手を取りつつ言った。
「ならばミニコミ部においでなさい。共に『少女の王国』を築きましょう」
今冷静に考えればあまりにも胡散臭すぎる馴れ初めだった。でも何故だかわたしは「はい」と頷いていた。
そして連れていかれた部室にて、待機していた前部長だという三年生の先輩(この人もまた美人だった)から色々と話を聞かされ、宥め、すかされ、気がつくと入部届けを書かされていた。なんだか詐欺にあったような気がしないでもなかったけれど、こうしてわたしはミニコミ部の一員となった。
しかし、入ってすぐにその恐ろしさを目の当たりにすることになった。皆一様に気取った、お前ら何処の少女漫画から抜け出してきやがった的な、勘違い百合趣味少女の巣窟。てか腐女子少なっ! ある種の地獄絵図がそこにはあった。部室にいくと大抵誰かしらがいて、その手の話に明けても暮れても夢中になっているのにさすがに嫌気がさして、辞めようかなと考え始めていた矢先に、たまたま話すことになったのが、立花由利恵だった。
由利恵はその容姿の美しさなどもあって入部当初から次期『百合』候補と騒がれていた。そんな訳で周囲には常に取り巻きがいて、クラスメイトであるのにも関わらず、まともに話したことはなかった。
ある日の放課後、たまたま忘れ物を取りに教室に戻った時、わたしは一人教室に残っている由利恵を見つけた。
「立花さん?」
思わず声をかけてしまった。窓際に佇んでいた由利恵は私の声で振り返った。その瞬間に長い髪がわずかに靡いた。
「ああ、森さん。どうしました?」
「大した用事じゃないよ。忘れ物しただけ」
そう言ってわたしは窓際の一番後ろにある自分の席からペンケースを取り出し、鞄に放り込んだ。用も済んだので教室を出ようとしたのだが、由利恵がそのままボーっとしているのが気になった。
「部室行かないの?」
「……行きたくないんです」
そう言って俯いた由利恵は、部室での様子とはうって変わって、本当に普通の女の子という感じだった。わたしは由利恵の傍の机に腰を下ろしてから言った。
「話……、聞こっか?」
「そんな、大袈裟なことじゃないんです、ただちょっと」
「ちょっとどうしたの?」
「…………少し疲れちゃったかな、なんて」
そう。まだこの時由利恵は自らの持つある種の魔力に気付いていなかったのだ。
自分がよくわからないうちに、勝手に次期『百合』候補だと見なされ、騒がれるのに疲れてしまったということを、わたしはこの時打ち明けられた。
正直以外だった。わたしから見た立花由利恵とのギャップに驚かされた。クラスでの由利恵は、成績優秀、容姿端麗、学級委員長という三拍子揃った完璧超人そのものだったから、落ちこぼれで見た目も冴えないわたしとは違って、悩み事なんかないものだと勝手に考えていた。
この時わたしは初めての会話というのも忘れて、なんとか由利恵を元気づけようとした。わたしなんぞから見れば、そんなのは贅沢過ぎる悩みだとかなんとか言って。わたしの自嘲と自虐込みの慰めが、少しは効いてくれたのか、気づけば由利恵は笑ってくれていた。それも幾度となく見てきた、外に見せるための『笑顔』ではなく、本当の友達に見せるような笑みを、わたしだけに見せてくれた。放課後の教室に二人っきり。わたしたちの距離は確実に縮まっていた。
こうしてわたしたちの交流は始まった。先に歩み寄ったのはわたしの方だったけれど、踏み込んできたのは由利恵だった。
例えばわたしが部室に行けば、周囲に取り巻きがいようがいまいと、あの特別な笑顔でわたしを迎えてくれた。お昼もわたしは一人で食べるのがほとんどだったのだが、あの放課後以来、屋上で二人して食べるのが習慣となった。
突如昼休みに由利恵がわたしを誘った時は少々驚いた。
「いい場所があるんです」
そう嬉しそうに言う由利恵がわたしを連れていったのは、立ち入り禁止になっていた屋上だった。確か鍵のコピーが部室にあったのは知っていたのだが、まさか由利恵が持ち出していたとは。古い南京錠に鍵を差し込む由利恵にわたしは聞いてみた。
「ねぇ、大丈夫なの? バレたら」
弱気なわたしとは反対に、自信たっぷりに由利恵は答えた。
「バレなければどうということはありません。ほら、開きました」
その時外れた南京錠が床に落ちて派手な音を立てた。一瞬二人して固まってから、わたしたちは顔を見合せて、
「「しー」」
そうユニゾンで言って笑った。
屋上は午後の暖かい日差しが一杯で、えらく気持ちがよかった。上は青空、隣は美少女。これで気分がよくならなきゃバチが当たる。金網近くの段に腰掛けて食べる昼食は最高だった。由利恵は時には手作りのサンドイッチをふるまってくれた。そしてこの時はお互いを名前で呼び合った。それまで由利恵は部内も含めて、誰にもファーストネームで呼ばせたことはなかった。
二人きりで過ごす時間はかけがえのないものだった。だけど――、
傍から見る者があれば、間違いなくわたしたちの距離は近付き、仲は深まる一方だったように見えただろう。だが、わたしは不安でたまらなかったのだ。
わたしのようなしょうもない奴が、
こんな素晴らしい美少女を独り占めにしている。
それは何にも替え難い喜びである。そして優越でもある。どんなにクラスで馬鹿にされようとも、部内で多数の百合共と口論になろうとも、わたしには由利恵がいてくれる、そう思えるのは救いだった。
だけどたまらなかった。由利恵と一緒にいればいるほど、自分の醜さ、矮小さ、卑小さ、薄汚さ、あらゆる負の部分が浮きぼられていくようでやるせなかった。眩しすぎる光は、逆に物体を正しく照らすことが出来ない。わたしにとって由利恵はまさにそれだった。
日々美しくなっていく由利恵。段々と自分自身の持つある種絶対的な魅力、魔力に由利恵は自覚的になっていくようだった。
数多くいた取り巻きたちは、すでに信奉者というような感じになっていた。
そこで湧き上がるのは一つの疑問。
何故由利恵はわたしを選んだのかということ。
自分でいうのも悲しいけれど、わたしにはこれっぽっちも他人より秀でたところがない。運動は絶望的なほど苦手、学問も語るには及ばない。目もかなり悪いからゴツい眼鏡が手放せないし、身長も高くないし、スタイルだっていい方じゃない。
なのに何故?
部内にはもっと美しい少女たちがいたにも関わらずどうして? この疑問があるかぎり、わたしは由利恵に『撰ばれた』という境遇を素直に喜ぶことが出来なかったのだ。
偶然と呼ぶには出来過ぎなタイミングで、由利恵が貸してくれた本にこんな一節があった。
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
この一節を見つけた時、わたしは一人部屋の中で震えた。だが、この時わたしは、ようやく自分が百合の園に踏み込み過ぎていたことを悟った。
戻れない道と薄々勘付きながらも、
それでもわたしは、
ただその恍惚に溺れていたかった。
たとえそれが束の間の夢でもいい。
わたしはただ、
――――誰かに愛されたかった
――――誰かに撰ばれたかった
こんなわたしでも、
ただわたしが傍にいるだけで、
ただわたしが生きているだけで、
喜んでくれる人がいる。
それで十分なはずなのに、いつの間にかわたしは、漠然とした不安と、つまらない劣等感に怯えて、大事ことが見えなくなっていた。
捨てられるのが怖かった。見切られるのが怖かった。わたしの世界が暴かれてしまうのが怖かった。
だから、逃げた。
初めて由利恵に触れられた日、
それはわたしが由利恵を拒絶した日でもあった。
その日以来、わたしは見えない影に追い立てられるかのように、薔薇派の結成に奔走した。何かを捨て去るため、何かを断ち切るため、無我夢中で走り回った。
部内でもまだ強かった百合派からの攻勢に対抗するため、目をつけたのが佐藤君と本山田君だった。
現実世界で美しいBLの成立など不可能、と嘲笑う百合派を黙らせるには、生きたサンプルがどうしても必要だった。
そしてわたしたち薔薇派による禁断の計画が始まった。
独り部室に取り残されたわたしは、床に寝転がったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。どれほどの時間が経ったのかはわからない。この部室は何時だって薄暗いから、光源によって判断することが出来ないのだ。脇に落ちていた眼鏡を拾ってかける。この態勢からだと、普段何気なく見ていたものたちがひどく大きく見えた。長机、段ボールの山、積まれた雑誌などに取り囲まれている自分が酷く小さなものに思えた。
身体の節々が痛む。
でも痛いのはきっと身体だけじゃない。
のろのろと上半身を起して、あ、駄目だ。まだ動けない。思考回路だけがかろうじて動き出す。それではっきりとわかるのは、全てが終わったということ。
計画は失敗。ただ二人の少年を傷つけただけ。わたしの両の手には、抱えきれないほどの罪が、そして心と身体には罰が残った。
結局のところ、わたしは何がしたかったのだろう。
由利恵を拒絶し、
佐藤君を欺き、
本山田君を裏切った。
それで尚わたしは何を求めるのだろう?
もう薔薇も百合もどうだっていい、全てがどうでもいい、みんな、みんな、消えてなくなればいい。こんなわたし自身も消えてしまえ。偽善者、裏切り者、ああ、どんな辱めの言葉だって甘んじて受けてやる。だから、これだけは言わせろ、
――――全部、ぶっ壊れてしまえ
そう呟くと、少しだけ身体が軽くなったような気がした。ようやく立ちあがれそうだった。長机の脚に縋り付くようにしながらも、なんとか立って、乱れた制服の埃を払った。そしてもみ合ったはずみで床に転がっていた鞄を拾い上げ、部室を後にした。
行く当てなんてどこにもない。
それなのに足は自然と動いていた。昔のことを思い出したからなのかはわからないけれど、気づけば屋上へと続く踊り場にわたしはいた。日も暮れたこんな時間では、既に校舎には人気はない。屋上に入っても誰も咎める者はいないだろう。階段を登りきって、ドアが見えたその瞬間、――あぁ、そうか、記憶が呼び起こされる。
再び南京錠がぶら下がっていた。たしか由利恵が再び鍵をかけたはず、そんなことさえも忘れていた。
これではっきりした。
あの頃にはもう戻れないと。
わたしはまだ光沢の残るその錠を手にしながら、嵌めガラスの向こうの世界のことを少し想った。
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