十章 一月(蜂蜜が花嫁になるまで、あと二ヶ月)

32

 十二月三十日から一月四日は、年末年始のため閉寮期間となる。


 窓の向こうには澄んだ青空が広がっていた。年明けの今日に相応しい天気、と言っていいかもしれない。わたしはお母さんの隣で青紫色の石に祈りを捧げながら、幸福なお正月について考えている。宝石箱のようなおせち。お母さんとお父さんの屈託のない笑顔。可愛い絵柄のかるたを取り合って、浮かれたテレビ番組をまったり眺めて、ちょっと酸っぱいけれどおいしいみかんを食べて――ああ、何て幸福なお正月なのだろう。


 それから、蜂蜜と一緒に初詣に行くのを想像する。長い列ができているお参り。魅力的な食べ物がいっぱいの出店。運試しができるおみくじ。大吉が出て得意げに笑う蜂蜜も、凶が出ておみくじ自体に文句を言い出す蜂蜜も、どちらも可愛い。


 蜂蜜は今、何をしているのだろうか。両親に暴力を振るわれていないといいな。たとえ仮初めだとしても、美しいお正月を送れているといいな。


 ずっと正座しているから、足が痺れてきた。辛い。でも弱音を吐く訳にはいかない。弱音はお母さんにとって汚い言葉となってしまうから。


 わたしはただ呼吸を繰り返すことに集中して、苦しい現実から少しでも逃避しようとする。


 ○


 ――冬休みの宿題が、山のように出ていて。

 ――帰省する前に終わらせようと頑張ったんですが、どうしても終わらなくて。

 ――なので、今日は、外で宿題をしてきてもいいでしょうか。

 ――今日で、どうにかします。明日と明後日は、ずっと神様に祈りを捧げます。

 ――どうか、お願いします……。


 冬休みの宿題が山のように出ているなんて、嘘だった。受験を控えている人もいるから、本当はちょっぴりしか出されていない。わたしはまた、嘘をついてしまった。


 外は肌を刺すような冷たい空気が充満していた。わたしはオレンジ色のリボンの髪飾りを淡く揺らしながら、黒色のロングコートのポケットに手を突っ込んで、白色のマフラーに顔を埋めて、あてもなく歩き続ける。この町に引っ越してきたのは三月のことだし、今日に至るまでの殆どを違う町で過ごしていたから、全く土地勘がなかった。もしかしたら迷子になって、家に帰れなくなってしまうかもしれないと思う。何だかそんな未来も、甘美な気がしたけれど。


 角を右に曲がると、何やらおしゃれなお店が目に留まる。気になって近くに行ってみると、黒色の立て看板にコーヒー、紅茶、ケーキなどのメニューが書かれていた。どうやらカフェのようだと思いながら、お店の前で立ち尽くす。年末年始の休みは大晦日とお正月で、今日は営業しているという旨がドアの張り紙に書かれていた。このまま外を歩くのも寒くてしんどいな、と感じる。わたしは吸い込まれるように、ドアを開いていた。ちりりん、と優しいベルの音が響いた。




「お待たせいたしました」


 そんな言葉と共に、わたしの前に湯気の立っているブラックコーヒーが置かれる。ありがとうございますと言うと、店員さんは柔らかく微笑んで、ごゆっくりどうぞ、と言って去って行った。店員さんはミルクティーの色合いをしたショートカットヘアの女性で、歳はわたしよりも少し上くらいに見えるから、恐らく大学生だろう。洗練されたデザインの緑色のエプロンを身に着けていて、いいな、と思った。


 大学に通って、カフェでアルバイトをして、休日は蜂蜜とデートして――


 ありもしない美しい未来が、わたしの脳の中で咲いていく。開花した偽物の未来を摘み取るように、わたしはブラックコーヒーに口を付けた。とても苦くて、甘い妄想を散らすのにはちょうどいい味だった。




 一時間ほど滞在してから、会計を済ませてカフェを出る。ありがとうございましたという声と、ちりりんという優しいベルの響きと、閉じられたドアの音。そうしてまた、静かな冬の世界へと戻ってきた。

 これから、どうしようか。腕時計を確認すると、針はまだ午前十一時を示していた。家にはできるだけ、遅い時間に帰りたい。適当なレストランを見つけて、お昼ご飯をゆっくり食べて時間を潰そうか――そう考えながら、角を左に曲がる。



 ――ぬっと現れた、赤黒い、一つ目。



 わたしは呆然と立ち尽くす。細長く、白い身体。幾つもの赤黒い牙が、ゆっくりと姿を見せる。

 わたしのが、わらっている。



「――ひさしぶり」



「またあえましたね!」「またあえましたね!」「またあえましたね!」「またあえましたね!」

「またあえましたね!」「またあえましたね!」「またあえましたね!」「またあえましたね!」

「またあえましたね!」「またあえましたね!」「またあえましたね!」「またあえましたね!」



「やくそくしたとおり、かわいいきみを、すりおろしにきたよ――」



「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」

「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」

「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」「いいとおもいます!」



 むせかえるような、

 にくのかおり。

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