玄関①
これは、私が数年前に初めて上京した際に体験した出来事です。
私は生まれてからずっと、関東の端っこの方にある自然豊かな〇〇町という田舎で暮らしていました。そんな私が、大学進学をきっかけに上京することになったのです。
当初は一人暮らしをするつもりでした。
しかし、ほとんど町を出たことのなかった私は、慣れない都会での生活に強い不安を覚えていたのです。
そこで、母の猛反対を押し切り、飼い猫の「ユキ」を連れて行くことにしました。
ユキはもともと野良猫で、いつの間にか我が家に住み着いた、とても大人しい白黒模様の雌猫です。
正直なところ、ユキは私よりも母に懐いていました。
けれども、知らない街で、真っ暗な部屋にひとりで眠る自信が――私にはどうしても持てなかったのです。
こうして、いよいよ東京での生活が始まろうとしていました。
幸いなことに、私は大学のすぐ近くに、猫の飼育も許されているアパートを見つけることができたのです。
家賃はおよそ三万円。
扉を開けると、細い廊下の先に六畳ほどの部屋がひとつ。
右手には小さなキッチンとユニットバス。
――そんな、どこにでもあるごく普通のワンルームでした。
お世辞にも綺麗とは言えませんでしたが、決して手狭というわけでもなく、ユキと一緒に暮らせるだけで、当時の私には十分に満足できる部屋でした。
引っ越し業者を頼む余裕はなく、母に手伝ってもらいながら、引越し作業を行いました。
荷物といっても数箱の段ボールに、ユキ用のトイレやキャットタワーくらいのもの。
母はそれらを部屋まで運び込むと、長居することなく足早に帰っていきました。
そして私は一人、ユキに餌をあげたあと、散らかった部屋を片づけ始めました。
せっせと作業を続けること一時間ほど――キャットタワーで眠っていたユキが、ふいに目を覚まし、玄関の方へと歩き出したのです。
なんとなくその様子を眺めていると、玄関に近づいたユキが突然「んんんん……」と低く唸り始めました。
猫を飼ったことのある人ならわかると思います。あの、威嚇とも警戒ともつかない独特の声。
普段のユキは、そんな声を一度もあげたことがありませんでした。だからこそ、その瞬間、私は心底ぎょっとしたのです。
すると突然、ユキは玄関へと飛びかかりました。
とんでもない奇声をあげながら、何かと必死に戦っているようでした。
しかし奇妙なことに――玄関そのものが、闇に呑み込まれたかのように見えないのです。
ただの暗がりではありません。黒一色に塗り潰されたような、不自然な深淵。
その中に飛び込んだユキの姿すらも消えてしまい、私には何ひとつ見えませんでした。
ただ、真っ暗な空間の奥から、「ぎゃあぁあお!」という叫び声と、暴れ回る激しい物音だけが響き続けていたのです。
私は何が起きているのか全く理解できず、一歩も動けずにいました。
どれほどの時間が過ぎたでしょうか。
恐らく五分、いや十分は経っていたと思います。
突然、ユキの唸り声がぴたりと止みました。
「流石にまずい」と思い、私は動き出そうとしました。
――その瞬間でした。
細い廊下の奥から、全裸のスキンヘッドの男が涎を垂らしながら、こちらに向かって全力で走ってきたのです。
自分で書いていても意味がわかりません。ですが本当に、言葉の通りの光景でした。
ガンツに出てくる「ネギ星人」のような、少し小柄で痩せ細った男。
真っ暗で何も見えなかった玄関から、突如として現れたその男が、私に向かって全速力で迫ってきたのです。
私はあまりにも意味不明な状況に、脳の処理が追いつかず意識を失ってしまいました。
……目を覚ますと、そこは病室でした。
ベッドの横には、心配そうに私を覗き込む母の姿がありました。
私は、さっきまで自分の身に起きた出来事を、そのまま母に話しました。
すると母は、不思議そうな顔をしながら静かに語り始めたのです。
私は入試に向かう途中で事故に遭って、三ヶ月も寝たきりだったこと。
それに……うちには“ユキ”なんて猫、そもそもいないということ。
その日を境に、私はどこからどこまでが夢で、どこからが現実なのか、まったくわからなくなってしまいました。
ユキを撫でた時に感じた体温。
そして、正体が一切わからないあの全裸の男。
「全部夢でした」と言われても私は納得できなかったのです。
やがて精神を病み、現実を受け入れるまでに数年という歳月を費やしてしまったのです。
そして、この話はここで終わりではありません。
まだ、あの玄関の恐怖は私から離れなかったのです。
ホラー断片集(仮) @kami0708
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