四章


 8月16日、今日は猛暑日である。

 家を出て、近隣の住宅街を抜けると、格子状のコンクリートで側面が固められた大きな河に出る。その上の橋を渡り、急な坂を上ると県道に出る。県道沿いには、大型スーパー、自動車販売店、ドライブスルーが並び、車の世界になる。県道沿いを自転車で10分走ると、バイト先の倉庫に着く。

 夏の昼13時の気温は高く、倉庫に来るだけで汗だくになった。これから5時間、冷房の無い倉庫で飲料の入った段ボールのピッキング作業を行う。

 冷房が無く、扇風機しかない倉庫の温度は30度を超え、30分も作業すれば、もうバテてきた。飲料の段ボール箱を、滑り止め付き手袋の摩擦を利用してつかみ、放るようにしてパレットの上に積む。暑さでとろけた脳みそで、まとまりのない思考が組みあがる前にバラバラになっていく。夢の内容がころころ変わっていくみたいに。

 暑さでおれはちょっと狂ったのかもしれない。

 退勤2時間前に、おれは積む箱を間違え、それを社員から指摘された。そのとき、おれは暑さでいら立っていて、謝りもせず、かなり投げやりに対応した。普段は決して反抗心を見せなかったため、その社員は少し驚いた様子だった。

 おれは、社員から逃げるようにして離れた後、おれ自身も、今までバイトで見せなかった自分の不穏な態度に驚いた。これは些細な出来事に過ぎないのだが、これに対する後悔の感情が、おれの人生全体に対する後悔の感情を、ずるずると引き出した。

(あぶねえ。怒られるかもしれなかったな。)

(なんであんな態度取ったんだろう。それにしても、大人になっても、怒られるのが怖いとは。中坊のときから何も成長してないな。)

 おれは自嘲的な気分になってきた。

(おれは大人じゃないんだ。社会が求められる大人からかなりズレている。そういえば、おれは子どものころ、素直に周りのやつらとふざけ合わない、変に大人びたガキだった。)

(当時のおれは、周りがガキ過ぎると思っていたが、子どもの頃に子どもになりきれないやつは、大人になった時、大人になり切れないのだ。)

 そう思うと、おれは自分が本当に恥ずかしくなった。中学生の頃、まとめサイトで政治の情報を集め、中古本屋でくだらない本などを読み、周りの人間より精神的に成熟しているつもりだった。だがそんなことはない。

 おれは、ただの中二病の、社会に適応できていないガキだった。それは二十になった今も同じだ。

 おれがそう思ったとき、どこからか、小さく反響した声がした。

「そんなことないよ」

 それはアウラの声だった。倉庫の奴らの声じゃない。おれは辺りを見回した。他のバイトの連中が見えるだけだった。

 そこで、ネガティブ思考にはまっていた思考が切れ、おれは我に返った。思考が変な方向に行っていたのだろう。おれはまだオート化していないタルパの声が勝手に聞こえた原因をそう解釈して、残りの仕事に集中した。ピッキングの作業が終わり、在庫管理を済ませた。おれは休憩室に戻り、手早く帰りの支度をした。疲れが体に沁みていた。

 本格的に夏になれば、作業はもっとつらくなるだろう。おれはこの先、このバイトを続けられるだろうか。おれは将来に対して悲観的な気分になった。

「自分のことを、もっと大切に思って」

 今度は近くで、アウラの声が聞こえた。

 おれはその時、はっきりと、その声が自分の内からではなく、外から聞こえていることがわかった。

(自分を大切に?)

 その時である。おれが想像していたタルパ、アウラの姿が、ぼんやりとおれの前に浮かび上がった。汗臭い休憩室の角に、アウラのワンピースの白が光った。

 そして消えてしまった。

 おれはその時、倉庫のバイトという身体的にしんどく、つまらない仕事に時間を費やしていることで、自分の人生を無駄にしている気がした。

 おれは自分の人生を変えようとしているのではなかったか。

 おれは休憩室を出て、ちょうどフォークリフトの操縦者と話している社員が見えたので、社員に今月いっぱいで辞めることを申し出た。申し出はあっさり受理された。

 倉庫を出ると、県道沿いのスーパーや自動車屋が、くすんだ赤茶色に染まっていた。芝生が生えた堤防に、赤い夕陽が沈もうとしている。

「アウラ、いる?」

 おれは誰もいない目の前の空間に話しかけた。おれはアウラがそこにいると信じた。

 その時、赤い空を翼が覆った。逆行で濃い灰色になったアウラの羽の隙間に、夕日の光が透けて見えた。

 おれの目線の高さまで、ふわりと浮かび上がった天使は笑って答えた。

「ここにいるよ」

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