脱色

@shimashima20

脱色

思い出すのは、決まって夜だった。理由はない。ただ、ふとした瞬間に、あのときの空気が立ちのぼってくる。
冷えたガラス窓に額を寄せて、外の街灯がにじむのを見ていると、時間が逆流するような気がする。
君に「愛している」と言おうとして、言わなかった夜。あれから、ずいぶん経った。

今の僕はもう、誰かを好きになるという感覚が、うまく思い出せない。感情の器があるとすれば、それが空なのか、満たされているのかさえわからない。ただ、何かが変わってしまったという実感だけが、やけに静かに残っている。


理由を探したこともあった。何か明確なきっかけがあったのか、自分のなかで何が折れたのか。でも、そういうものはいつもはっきりとは見つからない。
きっと理由なんてなかったのだろう。少なくとも、言葉にできるような種類のものではなかった。

時間は静かに、しかし確実に感覚を削っていった。変化に意味を持たせようとすること自体、もう必要ないのかもしれない。
人の心なんて、たぶんそんなものだと、夜の路地を歩くたび思う。


そう思うようになってから、不誠実な行動をする人のことも、あまり責める気にはなれなくなった。
いや、自分を納得させるためにそう思おうとしているだけかもしれない。

以前より単純に割り切るようになってしまったことは確かだ。
自分はそういう選択肢を、最初から存在しないものとして生きてきた。実際、それで困ったことはなかったし、それでいいとも思っていた。

けれど、ふと考える。守っていた、というより、守る必要がなかっただけなのかもしれない。
信念だったはずのものが、ただの環境による安定だったのだとしたら、僕が思っていた“誠実さ”は、もう少し不確かなものだったのだろう。


酔って帰る夜が増えた。居酒屋の暖簾をくぐるときの、油と煙草の混じった匂い。冷たいビールの泡を飲み干したあとに残る、わずかな苦味。
飲みすぎた日は、帰り道が妙に静かに感じる。

舗道に落ちた雨粒が街灯に照らされ、星のように光っていた。
足を止めて、何をしていたのかも忘れる。誰にも会わず、何も言わず、ただ歩く。
愛さなくても、生きてはいける。けれど、その空虚さに耐えるのは、思っていたより容易ではない。


あの夜、部屋にはオレンジ色の小さなランプだけが点いていた。
カーテンの隙間から街の光がぼんやりと差し込んで、君の髪をやわらかく照らしていた。
君はソファに座って、指先でマグカップの縁をなぞっていた。何も言わない。僕も言えない。

胸の奥まで言葉が来ていたのに、声にする前に消えてしまった。
必要がなかったのかもしれない、と今なら思う。
君がゆっくりとこちらを見て、小さく笑った。
その笑みだけが、いまも鮮明に残っている。


その夜から、どれくらい時間が経ったのだろう。
いまの僕には、もう誰かを強く求める感覚が薄い。
けれど、あの夜の光景だけは、なぜか失われない。

街灯の下で足を止めるたび、胸の奥で何かが微かに鳴る。
愛せないまま生きていくことの難しさを、僕はようやく知ったのかもしれない。

それでも歩く。
夜の匂いが冷たく、懐かしい。
言えなかった言葉が、今もどこかで形を持たずに漂っている。

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