第5話 「騎士団の反発」

 王の命が告げられた翌日、王都の第二騎士団詰所は異様な熱気に包まれていた。普段は規律正しく静まり返っているはずの石造りの広間が、今は重い怒声と憤りに満ち、剣の柄を叩く音や椅子を蹴る音が響いていた。戦から戻ったばかりの兵たちは鎧を脱ぐ間もなく集められ、誰もが顔を紅潮させ、言葉を抑えきれずにいた。


 「辺境だと? 副団長を遠ざけるなど聞いたことがあるか!」

 「英雄を追い出して、誰がこの国を守るんだ!」

 「俺たちを、ただの使い捨てだと思っているのか!」


 広間は怒りの声で満ち、若い騎士たちが口々に叫んでいた。古参の兵も眉をひそめ、口を閉ざしながらも目には怒りを宿していた。誰もが納得できなかった。あの撤退戦で殿を務め、帝国の精鋭十三騎の半数を討ち果たし、仲間を生還させた副団長。その名は既に王都の民にまで轟き、英雄と讃えられている。その男を遠ざけるなど、理不尽としか思えなかった。


 壇上に立ったのは第二騎士団団長、老練の騎士ガイウスであった。白髪交じりの髭をたくわえ、背筋を伸ばして兵を見渡すその姿は堂々としていたが、その眼差しの奥には深い苦悩が宿っていた。彼は片手を上げ、騒ぎを鎮めようと声を張り上げた。「静まれ!」その一喝でようやく怒声が収まり、兵たちがざわめきながらも耳を傾けた。


 「王の命は重い。我らが剣は王国に捧げたもの。その命に背けば、我らは叛逆者と呼ばれるだろう」ガイウスの声は低く重く、兵たちの胸に響いた。しかしその言葉が収めるよりも、むしろ火に油を注ぐ結果となった。若い騎士の一人が叫んだ。「それなら! 王が間違っているときはどうするんです! 俺たちの命を救った副団長を、どうして追いやるんですか!」


 その声に呼応するように他の者たちも叫び始めた。「副団長がいなければ、俺たちはあの撤退戦で死んでいた!」「副団長こそ真の英雄だ!」


 アルヴァンはその場にいた。壇上には立たず、広間の後方でただ沈黙していた。兵たちの怒声が自分に向けられていることは分かっていたが、彼は口を開かなかった。彼にとって功績は誇るものではなく、背負うべき重荷でしかない。今この場で声を上げれば、騎士団全体が王命に逆らう危険を孕む。だからこそ、彼は黙していた。


 その沈黙に苛立ったのはアリシアだった。彼女は副団長である彼の隣に立ち、兵たちの視線と怒りの渦を真正面から受け止めていた。彼女の胸には二つの感情がせめぎ合っていた。恋人としての「遠ざけられることへの悲しみ」と、副団長代理として「兵の士気を保たねばならない責務」。


 彼女は一歩前に出て声を上げた。「皆の気持ちは分かる。私も同じだ。アルヴァンは命を賭して仲間を守った。それは誰よりも知っている。しかし――」彼女は一瞬、隣に立つアルを見た。その黒い瞳は沈黙を選んでいる。だからこそ彼女もまた声を震わせながら続けた。「――しかし、ここで怒りをぶつけても何も変わらない。大切なのは、彼が託された任務をどう守るか。王命に背けば我らは騎士団として立てなくなる。ならば……ならば我らは、彼が遠くにいても誇れる騎士であり続けよう」


 その言葉に兵たちは沈黙した。納得したわけではない。だが、アリシアの声には確かな熱があり、その瞳には涙が宿っていた。彼女が本気で苦しみながら言葉を選んでいることは誰にでも分かった。


 ガイウス団長は重く頷き、アリシアの肩に手を置いた。「その通りだ。騎士団は一つだ。アルヴァン副団長がどこにあろうと、その剣と心は我らと共にある」


 その声に、広間を覆っていた怒りがようやく沈静していった。兵たちは拳を握りしめたまま俯き、それぞれの胸に複雑な感情を抱え込んでいた。


 兵たちがようやく広間を後にし、石畳の足音が遠ざかっていった。残されたのは団長ガイウスと副団長アルヴァン、そして数名の古参騎士たち。さらに、七騎士の数名も立ち会いのため残っていた。“鋼壁”のレオニードは壁際に立ち、巨大な体躯を揺るがせながら腕を組んでいた。“雷閃”のセリーヌは剣の柄を握ったまま、憤りを隠そうともしない。“戦略”のフィリクスは卓の端に腰かけ、無言で指先を組み合わせていた。


 「アルヴァンを辺境に送るなど、正気の沙汰ではない!」セリーヌがついに声を荒げた。銀髪が揺れ、雷のような怒気が広間に満ちる。「帝国の残党が動いているというのなら、なおさら都に彼が必要でしょう! それを追いやるとは……!」


 「落ち着け、セリーヌ」レオニードの低い声が響いた。だがその声にも苛立ちが混じっていた。「だが俺も同じ思いだ。壁を築く者が足りない時に、最も強固な柱を遠ざけるなど、王国は何を考えている」


 「考えているのはただ一つ」フィリクスが冷ややかに言葉を差し挟んだ。「恐れているのだよ。アルヴァン、お前を。英雄は民にとって希望だが、王にとっては脅威だ。だから遠ざける。それだけのことだ」


 その言葉に、広間の空気が重く沈んだ。誰もが理解していたことを、彼が冷徹に口にしたからだった。


 アリシアは唇を噛み、思わず声を上げた。「脅威? 彼が? 彼ほど民を守るためだけに剣を振るった人はいない!」その声は震えていたが、強い熱を帯びていた。彼女の青い瞳には涙が滲んでいた。


 フィリクスは彼女をじっと見た。淡々とした目の奥に、わずかな哀れみが浮かんでいた。「分かっているさ、アリシア。だが、権力にとって“民を守る剣”ほど厄介なものはない。なぜなら、それは王すら守らないかもしれないからだ」


 「くだらん理屈だ!」セリーヌが怒鳴った。だがアルヴァンは沈黙を守り続けていた。


 彼は広間の中央に立ち、ただ静かに皆の声を受け止めていた。怒りも嘆きも、理解も、すべてを。やがて彼は口を開いた。「……俺は辺境に行く。それが王命だからだ。騎士は剣を捧げた者。抗えば、我ら全てが罰を受ける」


 「アル!」アリシアが思わず叫んだ。彼女の声には悲しみが溢れていた。恋人としては彼を失いたくない。副団長としては、彼を失うことが騎士団の弱体に直結するのを理解している。それでも、彼は揺るがなかった。


 レオニードが重い声で言った。「お前の沈黙が騎士団を救うのか? 俺にはそうは思えん」


 アルヴァンは黒い瞳で彼を見据え、短く答えた。「剣は敵に振るうものだ。王都で仲間に振るうものではない」


 その一言が、全員を黙らせた。


 やがて広間を出た後、アリシアは彼の背中を追った。石の回廊に響く靴音が重く、二人だけになったところで、彼女は彼の名を呼んだ。「アル……」


 彼は足を止め、振り返った。無言のまま彼女を見つめる。その目は冷たくもあり、同時に深い憂いを湛えていた。


 アリシアは一歩近づき、必死に言葉を探した。「どうして……どうして黙って受け入れるの。私は副団長であり、七騎士であり……でも、それ以上に、あなたの恋人よ。あなたが遠くへ行くなんて……私には耐えられない」


 アルヴァンはしばし黙したまま彼女を見つめ、やがて低く囁いた。「俺がここで声を荒げれば、騎士団は裂ける。お前も、仲間も、守れなくなる。それだけは避けたい」


 アリシアの目に涙が溢れた。「そんな理屈……! 私はあなたを失いたくないのよ!」


 彼はゆっくりと彼女に近づき、その頬に手を添えた。冷たい指先が彼女の熱を受け止め、静かに言った。「アリシア。お前がいる限り、俺は剣を振るえる。たとえ遠くにいても、その想いは俺の力になる」


 彼女は唇を噛み、嗚咽を堪えながらも、強く頷いた。

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