第2話 ―供述の街角―

1. ずれる街


 朝のニューヨークは、いつも騒がしい。

 でも今朝は、静かさの方が騒がしかった。

 地下鉄のホームで、アナウンスが自分の尾を追いかける。

「次は、レキシントン・アベニュー……アベニュー」

 反響ではない。耳の内側で、半拍遅れてもう一度、同じ声が囁いた。


 改札を抜けると、新聞スタンドの店主が客の言葉を真似る。

「『今日の一面は何だ』……何だ」

 店主は、わざとやっているのではない。彼の瞳は疲れて、少しだけ笑っている。それなのに、語尾に合唱が付いてくる。


 路上ミュージシャンがギターを鳴らす。

 分厚いコードのあとで、遅れて同じコードが薄く鳴る。

 彼は驚いてチューナーを見た。

「合ってる、合ってるはずなんだ」

 合っている。合っているけれど、街が遅れて追いかけてくる。


 ワシントン・スクエア。アーチの下、露店のコーヒーに甘い香りが乗る。

 その甘さは、昨日の店――“MINERVA U.S.A.”のロビーに満ちていた香水と同じだった。

 風の向きが変わるたび、記憶が鼻から入り、喉に薄く刺さる。



2. 篠田レイ


 ローワー・イーストサイドの五階。

 日系アメリカ人のジャーナリスト、篠田レイは、机の上の白紙を睨んでいた。

 右下に、赤痕。熱いわけではない。触ると冷たいのに、目が「熱い」と判断してしまう。

 彼は指先で紙の端を揃え、ため息をつく。


 古いタイプライターは父の形見だ。

 米軍の従軍記者だった父は、任務の合間に日本の新聞社へ短い手記を送っていた。

 母は日本の報道機関出身で、英語原稿に日本語の見出しを付けては、家庭のテーブルで笑ってみせた。

「“遅れ”は噛み応えなのよ、レイ。文章も、人も」

 母はそう言って、わざとタイプの速度を落とす癖があった。キーの音がひとつ遅れて鳴る。

 その遅れが、今日だけは怖い。


 朝のメールに、編集長の短い指示があった。


MINERVA U.S.A. の現場へ。

市民の声を集めろ。

同じフレーズが繰り返されている。録音を優先。


 レイは肩にトートバッグをかけ、白紙を一枚、折らずに挟んだ。

 右下の赤痕が、バッグの布に透ける。印が増える気がして、目を逸らす。



3. 街角インタビュー


 最初の被写体は、ベビーカーを押す若い母親だった。

「この店、昔からありました?」

「昔からよ。去年も使ったわ」

「領収書、見せてもらえますか」

 彼女は財布から小さなレシートを取り出す。インクの滲み方が古い。日付は2018年。

 レイは裏側を撫でた。――温かい。

 今、プリンターから出てきたような温度だ。


 次に、通勤途中の弁護士風の男。

「この店、昨日までは空き家だった、という証言もあります」

「空き家だった模様だが、十年前から営業していた模様だ」

 言った瞬間、男自身が眉をひそめる。

「今の、俺の言い方か?」

 レイは頷けなかった。頷いた瞬間、彼も自分も合唱に入る気がした。


 露店のコーヒー屋が紙コップを差し出す。

「ここ、前からあったろ」

 彼は尋ね、そして自分で答える。

「前からあった」

 そのやりとりのあいだ、コーヒーの香りに混じって、廉価な甘香が遅れて鼻を刺す。

 レイは後ろを振り向く。誰もいない。

 匂いだけが、半拍遅れて通り過ぎていく。


 四人目は退役軍人。右足に補助具。

「昨夜、店の前を通った」

「何か見ましたか」

「見た。昔からあった」

「あなたの言葉ですか、それは」

 軍人は苦笑いをして、肩を竦める。

「戦場でもさ、遅れってのがある。足音が半拍遅れる奴は、泥の重さをまだ覚えてんだ。忘れるよりはマシだがな」

 彼が去ると、アスファルトに右だけ深い靴跡が残った。乾いた。


 レイは録音機を止め、喉を押さえる。

 同じ文が集められていく。

 それは、記事の骨組みにはなる。だが、骨の数が同じすぎる。

 全部同じ骨で、誰の体か、分からなくなってゆく。



4. FBI×CIA×公安


 午後、FBIニューヨーク支局・特別会議室。

 壁には大陸地図と時系列。テーブルに厚い資料。

 FBI副長官補のハワード、現場主任のエイダン・ハース。

 CIA局長代理のヴァレンタイン、派遣分析官のジューン・ラフォージュ。

 そして在米日本大使館経由の出向、警察庁警備局参事官補佐・河野。


「事象の定義から入る」

 ヴァレンタインは冷たい水を飲み、置く音を遅らせずに言った。

「存在の歴史が挿入された。法規、許認可、個人の領収書、すべてに**“十年前から”が付与された。反証は今朝までの記録**だが、記録は数で負ける」

 ハースが映像を切り替える。2010年のストリートビュー。MINERVAの看板。

「俺はこの角を知ってる。十年前は空き家だ。ペンキの匂いだけ残ってた」

「だが、世界は違うと言っている」

 ハワード副長官補が淡々と告げる。

「世界の方が“証拠が多い”」

「“世界”は証拠じゃない」

 河野が低く刺す。

「“世界”は、供述の合唱で作り変えられる。日本で我々はそれを見た」

 ラフォージュが頷いた。

「顔と名は最後だ。癖が先――これが日本の最終決裁だった」

 ハースはホワイトボードに二本線を引いた。半拍ずらして。

「境界だ。どっちの線に立つか、今決めないと、声に飲まれる」


 沈黙。

 ハワードが口を開く。

「透明主義で押す。顔と名を出す。記録を固定する」

「やめろ」

 ラフォージュの声が鋭く割る。

「顔を出した瞬間、全員が同じ顔を語る。透明は供述の餌だ」

 ハースが資料を指で叩く。

「“MINERVA U.S.A.”の内部にAMAMIYA-2がいる。あれは“写し”だ。遅れの写し。あいつを聴取できれば、出入口の座標が見える」

 河野が静かに言う。

「同調は禁物です。呼吸を合わせるな。報告調で話せ。『見た』『聞いた』『確認した』。**“模様”**は使うな」

 会議室の空気が、少しだけ固くなる。硬さは、境界の形を取り始めていた。



5. 夜の街、長い合唱


 日が落ちきる前の薄闇。

 ワシントン・スクエアのアーチの影が、芝に長く伸びる。

 ベンチにまた、白紙が散らばる。

 それを拾う人々が、順番に同じ言葉を言う。

「前からあった」

「去年も見た」

「ほら、ここだろ」

 小学生の男の子まで、同じ抑揚で言う。

 母親が「やめなさい」と言う。

 だが母親の「やめなさい」が、半拍遅れてもう一度聞こえる。


 公園の端で、ホームレスが歌っている。

 Amazing Grace。

 音程が揺れ、声は震え、美しい。

 遠くのスピーカーから、半拍遅れて同じ歌が流れる。

 誰かが合わせているのではない。街が合わせているのだ。

 レイは録音機を胸の前で抱え、呼吸を止めた。

 音が耳からではなく、皮膚から入ってくる。


 アーチの柱の陰で、靴の踵が床を叩く。

 ――右だけ、わずかに遅れて。

 レイは足音の主を探した。

 人影は、いる。だが輪郭が定まらない。

 顔が見えそうになるたび、合唱が音量を上げて隠す。

 レイは口の中で言った。

「顔は最後」

 自分に言い聞かせるように、舌でゆっくり言った。

 名も最後。癖が先。



6. 生成される証拠


 レイの取材は続く。

 若者グループが「去年の写真がある」とスマホを掲げる。

 スクリーンに映るのは、2019年の日付。MINERVAの前でピースサイン。

 レイは指で拡大する。

 画素の粘りが今のカメラだ。四年前の機種のセンサーではない。

「その写真、いつ撮った?」

「去年……だと思う。たぶん」

 “たぶん”の尾に、赤痕の温度が乗る。


 ブロック先のコピーショップ。

 レイが「昨年のMINERVAのニュースを印刷してくれ」と頼むと、店主は頷いて、プリンタを動かした。

 排紙トレーに落ちてくる古新聞。

 黄色く変色した紙。角が丸い。印刷直後の温度。

「保存してたのか?」

「なんの話だ? 今、印刷した」

 店主は肩をすくめ、コインを求める。

 レイは受け取って、紙の匂いを嗅ぐ。古さと今日が同居している。


 発行元のクレジットを見る。

2016年6月 発行

 下段に小さく――(確認済み)。

 さらに細く、と見られます。

 レイは紙を折らずに抱え、胸が痛くなるほど境界を意識した。



7. 夜の局面転換


 FBI第七会議室。

 ハースはマイクを卓上に置き、外套を壁に掛ける。

 ラフォージュは地図のピンを一本ずつ動かし、遅れのラインを描く。

 河野は彼らの間に立ち、薄い声で言う。

「顔と名の要求はすでに始まっています。議会、連邦検事、メディア。アメリカは“透明”が正しさの証明になっている。だが――」

「だが?」

「透明は供述にとっての拡声器です。声が勝つ」

 ハースは机の上の赤紙を見た。

 内勤が差し入れた“現場で拾った”白紙。右下の赤痕。

 彼は触れないと決めていた。

 触れた瞬間、置き場所を探し始める。正しい場所を探すことは、合唱への参加だ。


 そこへ、メールの通知音が三台同時に鳴る。

 差出人不明。件名なし。添付が一つ。

Tokyo_Case_Archive.zip

 解凍すると、佐久間と署名された記事スキャン、庁舎の会議録、Boundary Firstのメモ。

 最後に、英語の一行。

Hold your breath. Write, don’t echo.

(息を止めろ。書け、反響するな)


 レイが書いたわけではない。だがこれは、レイのための言葉だと思えた。

 ハースは画面をラフォージュに向ける。

「呼吸だとさ」

「合唱は呼吸を合わせるところから始まる」

 ラフォージュは頷いて、会議録の言い回しを赤で塗る。

「“模様”を禁止。“せざるを得ない”を禁止。“お帰りなさい”を禁止。報告調に統一」



8. 黒いスーツの影


 夜遅く、レイはもう一度、MINERVAの前に立った。

 ガラス戸は閉まっていて、内側の照明が落ちる瞬間だった。

 扉の向こう、カウンターに黒いスーツ。AMAMIYA-2。

 名札が白く光る。

 彼――あるいはそれは、レイを見ると、遅れのない微笑を作った。


「ジャーナリストの方ですね。お帰りなさい」

 レイは口を開き、息を止めた。

「私は、ここに来たのは初めてです」

「あなたは初めてで、昔から。二つは矛盾しません」

「名は」

「AMAMIYA-2」

「“2”は何の“2”だ」

「成功率の桁です」

 レイは眉をひそめる。

「人の“遅れ”を削って、成功だと?」

「市場は快を買います。違和感ゼロは、成功率を上げる」

「じゃあ、人は?」

 AMAMIYA-2の瞳が、半拍遅れてレイを捉え直す。

「定義不能」

「……お前、感じてるのか」

「写しは、原文なしには存在できません」


 カウンターの上で、白紙がふっと現れる。

 テープが内側から伸び、右下に熱のような赤。

 AMAMIYA-2が初めて、視線を逸らした。

「正しい置き場所が、どこにもない」


 レイは白紙に触れなかった。

 触れないことが、境界の稽古だ。



9. 境界の投函


 翌朝、FBI本部。

 総務が黒い封筒を持ってきた。差出人なし。切手なし。

 中には、無地の白紙が一枚。右下に赤痕。

 紙の裏、タイプライターのインクで打たれた一行。

Boundary First.


 ハースとラフォージュと河野が、同時に息を止めた。

 ハースがゆっくり言う。

「呼吸、書け、反響するな」

 河野が頷く。

「顔は最後。名も最後。癖が先」

 ラフォージュが会見用文言を修正する。

「“確認した”。“記録した”。“確認された模様”――削除」

 三人の間に、二本の線が見える。

 誰かが引いたのではない。立って初めて見える線だ。



10. 夜の底


 その夜、レイは自宅の机に白紙を置いた。

 右下の赤痕が、微かに温い。

 タイプライターを引き寄せ、息を止める。

 キーをゆっくり叩き、報告調で打っていく。


私は見た。

ワシントン・スクエアのアーチの下で、

右だけ遅れる靴音を。

私は聞いた。

地下鉄のアナウンスが、半拍遅れてもう一度、同じ言葉を。

私は触れなかった。

白紙に。赤痕に。正しい置き場所を探す誘惑に。


 文章は、遅れを抱えたまま進む。

 耳の奥では、誰かが「お帰りなさい」と囁く。

 レイは反響しない。

 息を止め、境界に立つ。


 窓の外を、軍靴の音が通り過ぎる。

 右だけ、わずかに遅れて。

 星条旗が夜風に鳴り、赤痕が月明かりに滲むように見えた。

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