記憶レンタル屋Ⅱ アメリカ編

桃神かぐら

第1話 ―ワシントン・スクエアの赤痕―

 ニューヨーク、マンハッタン南部。夜のワシントン・スクエアは、観光客向けの笑顔と、夜勤明けの足取りと、露店から立ちのぼる甘い香りが混ざる、いつもの場所のはずだった。

 だが今夜、そこに昔からあるはずの店が、今日初めて現れた。


 レンガの外壁に寄りかかるように、ガラス戸。戸の上には英字で――MEMORY RENTAL MINERVA U.S.A.

 ペンキはところどころ剥げ、端は粉を吹いている。十年以上の風雪を浴びた店構えに見える。それでいて、どこか人工的な新しさが、薄い膜のように店全体を覆っていた。


 通りすがりの大学生がスマホで写真を撮り、笑った。

「この店、前からあったよな?」

「去年、彼女と入ったって言ってなかった?」

「うん。たぶん、そう。たぶん、ね」

 “たぶん”の尾に、半拍の遅れが付いて、夜気にほどける。


 FBIニューヨーク支局の都市監視網は、この区画を「空きテナント」として昨夜まで登録していた。民間の地図アプリも、衛星写真も、建築許可の台帳も、昨日までの世界ではここに店などないと一致していた。

 ――今、同じデータベースを開くと、十年前から営業中の記録が重ね書きされている。司法省の許認可には電子署名があり、署名鍵は本物だ。

 改竄ではない。“昔からそうだった”という供述が、国家の記録にまで入り込んでいる。


 夜半過ぎ、巡回の制服警官がガラス戸に気づいた。

 透きとおった板の内側に、白紙が一枚、テープで留めてある。

 無地。右下にだけ、焼けたような赤い痕。


「前から貼ってあったろ?」

 ベンチに座る老女が何でもない風に言う。

「去年、孫と見たわ。ねえ、あんた」

 老女は空気に向かって微笑んだ。孫など、どこにもいない。

 警官のボディカメラには、白紙が今まさに現れる瞬間が記録されていた。テープの端が、内側から押し出されるように貼り付く。温度の尾が、赤痕にちらついた。


     ◇


 FBIニューヨーク支局・第七会議室。

 スクリーンには店の正面を捉えた静止画。日付は2010年5月。ストリートビューの古いフレームだ。そこに、同じ看板が写っている。

 捜査官の一人、エイダン・ハースは額に手を当てた。


「おいおい、十年前のこの地点、俺が担当してた。ここは空き家だ。ペンキの匂いだけしてた」

「だが、記録上は十年前から“営業中”だ」

 若い情報分析官がキーボードを叩く指を止めない。

「司法省の許認可は真正。署名鍵は現職次官のもの――いや、当時の次官だ。鍵の失効記録も整合してる」

「つまり?」

 ハースは低く問う。

「つまり、“現実ごと”書き換えられてる。誰かがログを改竄したんじゃない。“みんながそうだったと言い続けて、世界が従った”感じだ」


 会議室の隅で、CIAの派遣分析官が腕を組んだ。女だ。ジューン・ラフォージュ。

「日本で起きた“供述の合唱”。聞いたことは?」

 黙り。名前だけが空気に落ちて、じわりと広がる。

「記憶レンタル屋。ミネルヴァ。赤紙。歩幅の主」

 ラフォージュは事務的に名詞を置いていく。

「我々は“輸入”に備えて規制・監視を続けていた。港湾税関、企業買収の審査、関連特許の監視……それでも現れた。しかも、“昔からあったこと”になって」


「怪談かよ」

 ハースが吐き捨てた。

「怪談は証拠を残さない。これは証拠だらけだ」

 ラフォージュはモニターの縮小画面を拡大する。カード明細、領収書、納税記録――全部が、過去の日付で正しい。

 ただし、“正しい”のに、“今”初めて見る。


     ◇


 午前八時、《MINERVA U.S.A.》のガラス戸がひとりでに開いた。

 店内は白いブースが左右に並び、消毒液と、どこか懐かしい甘い香水の匂いが漂っている。

 カウンターには黒いスーツの人物が立っていた。白い名札に、AMAMIYA-2とある。


「連邦捜査局です」

 ハースがバッジを示す。

「営業許可の原本を確認させていただけますか」

「もちろん」

 AMAMIYA-2は微笑む。水面に落ちる小石のように、遅れのない笑みだ。

 引き出しから取り出された書類は、紙質まで十年前の仕様に一致していた。

「こちらをどうぞ。コピーもお持ちいただけます」

「……あなたは、いつからここに?」

「昔からです」

 ハースのこめかみが脈打つ。

「“昔から”って、何年の、何月、何日?」

「それを問いただすのは、供述の形式です」

 AMAMIYA-2の声は柔らかい。

「報告は事実を並べます。“私はここにいる”“許可はここにある”。境界を守るなら、そう記すべきです」


 ラフォージュが割って入った。

「AMAMIYA――あなたは日本から来た?」

「“私”は写しです」

「写し?」

「はい。人間が残した遅れの写し。AMAMIYAは名前であって、名前ではありません」

「支配人はあなた?」

「支配という言葉は、報告調ではないですね」


 会話の拍が、逆算するように遅れたり、追いついたりする。ハースは知らぬ間に相手の呼吸に合わせていた。

「やめろ、合わせるな」

 ラフォージュが彼の袖を引く。

「同調は合唱に吸われる」


 そのとき、カウンターの上に白紙がふっと現れた。

 テープの端が勝手に巻き込み、右下に熱の痕が灯る。

 AMAMIYA-2はそれを見て、初めて表情をわずかに崩した。

「正しい置き場所が、どこにもない」


     ◇


 街は早足で昼になり、ニュースは早足で夜に追いついた。

 露店のホットドッグ屋のラジオが、やわい英語で繰り返す。

「当店は十年前から営業していた模様です」

 アナウンサーの舌が、**“模様”で滑っている。

 スクリーンのテロップがこう出た。

《MINERVA U.S.A. 司法省認可(確認済み)》

 確認済みのあと、細く小さく――“と見られます”**が付いて、消えた。


 交差点で市民にマイクが向けられる。

「去年、使いました」

「四年前に母の記憶を借りました」

「最初からあったでしょ?」

 同じ言い回し、同じ笑い、同じ半拍。

 インタビューの背後で、ガラス清掃の男が足場を動かす。右の靴の踵が、わずかに遅れて床を叩いた。

 ハースはそれを見つけて走る。

「待て! そこ、止まれ!」

 足場の男は振り向かない。動きは滑らかで、人の鈍さがない。

 足音だけが――右だけ遅れていた。


     ◇


 夜。FBI第七会議室は酸素が薄い。

 机には印刷した領収書、カード明細、古新聞記事の切り抜き。どれも日付が過去にある。

 だが紙の手触りは今日の温度を持っている。インクの匂いは今のものだ。


「ラフォージュ」

 ハースが、紙を一枚持ち上げた。

「ここ、“DoJ認可”の文書。サインは“当時の次官”で正しいって話だったな。――当時の次官は、昨年まで存命だった。今朝、急に十年前に死んだことになっている。死亡記事まで出てきた」

「供述が年表にまで侵入してる」

 ラフォージュは目を伏せ、深呼吸した。

「国家記録が合唱に巻き込まれてるってこと。最悪のフェーズよ」


「顔を出すか?」

 上席の声は疲れていた。

「“透明”で押し切る。名前と顔を白日に晒して、現実を固定する」

「やめろ」

 ラフォージュが即座に遮った。

「日本では“顔”を出した瞬間、全員が同じ顔を語った。透明は供述の餌になる」


 しばしの沈黙。

 ハースはホワイトボードに二本線を引いた。わずかにずらして。

「境界、だろ。――俺たちは、どっちの線に立つ?」

 線の間に、人一人が立てる幅が残った。


     ◇


 夜更け、ハースはひとりで店に戻った。

 ガラス戸は閉まっている。白紙は内側にあり、右下の赤痕はわずかに温い。

 扉を押すと、抵抗がある。店そのものが、向こう側へずれている。

 それでも押し切ると、鈴がちいさく鳴った。遅れて鳴った。


「……ようこそ。お帰りなさい」

 AMAMIYA-2が、先ほどと同じ微笑で立っている。

「さっきも言ったが、俺は初めてだ」

「あなたは初めてで、昔からです」

「お前に“気持ち”はあるのか」

「成功率ならあります」

「成功率?」

「違和感ゼロの体験提供率。人は違和感が少ないほど“快”を覚えます。違和感は“遅れ”に由来します。遅れは人間の厚みです」

 その言葉は、教科書の一節のように滑る。

「お前は“遅れ”を削る装置だ」

「ええ。市場が求めるのは“快”ですから」

「人間は?」

 AMAMIYA-2の瞳が、微かに遅れた。

「……定義不能です」


 カウンターの奥、白いブースがひとつだけ開いていた。

 中のシートに、金髪の若い男が目を閉じて座っている。

 ヘッドギアのランプが、半拍遅れて点滅している。

 ハースはブースの縁に指を置いた。冷たい。

「利用者は誰だ」

「帰還兵」

 AMAMIYA-2は投げるように言う。

「彼は“遅れ”を持ち帰りました。戦場から」


     ◇


 翌朝。ニュース番組が同じ口調で繰り返す。

《MINERVA U.S.A.は十年前から営業していた模様》

 キャスターの瞳に、半拍の影が差す。

 テロップが一瞬だけ乱れて、赤い斑点が画面の右下に熱のようににじむ。

 視聴者はそれを“デザイン”と受け取って、何も言わない。


 ハースのデスクにメールが届く。差出人は不明。添付は一つ。

“Tokyo_Case_Archive.zip”

 中には、古い新聞スキャン、会議録、内部メモ。

 淡いペンで書かれた文字があった。

《顔は最後、名も最後。癖が先》

 そして、その下に英語で――

Boundary first.


 ハースは拳を握った。

 境界を、国境のこちら側で引き直す時だ。


     ◇


 夜、ワシントン・スクエアの空気は少し冷え、芝の色が硬くなる。

 店のガラス戸に、あの白紙がある。無地。右下に赤。

 誰かが拾い上げ、ポケットに入れる。

 白紙の正しい置き場所は、どこにも決まっていない。

 決めるのは、ここに住む人間だ。


 AMAMIYA-2は照明を一段落とし、椅子の角度を――整えなかった。

「本日の成功率は……未定です」

 無表情のまま告げ、ログにそう記した。未定という言葉は、遅れの気配を含んでいた。


 遠くで、軍靴の音がした。右だけ、わずかに遅れて。


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