第1章-24:優遇措置なき試練(図書館での隣席)
土曜日の午後。
二人は、地元の市立図書館の自習スペースにいた。ここは、海斗が提案した「優遇措置なき試練(True Break-Even Test)」の現場だ。
周囲には、受験生や資格取得を目指す社会人など、純粋な学習という目的を持つ人々が静かに集中している。この空間では、私語はもちろん、親密な視線や身体的な接触さえも、「他者の学習効率を妨げるノイズ」として扱われる。
二人は、向かい合わせではなく、大テーブルの隣り合う席に座っていた。
優理は経済学の専門書を、海斗は営業企画に関連するビジネス書を開いている。
彼らが普段、仕事で使う資料だ。
「観測プロトコル、開始します。現在の外部環境からの圧力は、極めて高いと評価します」
優理は、微かに口を動かしたが、声は喉の奥で止まった。
海斗の耳には、優理がタブレットに打ち込む微細なタップ音だけが聞こえた。
海斗は、優理の横顔を盗み見る。
彼女の表情は、いつも以上に硬い。
これは、彼女の分析通りの「社会的欺瞞」という感情的コストが、強く作用している証拠だった。
彼女は、偽の恋人として、この真面目な空間にいることに、強い羞恥心を感じている。
(彼女の羞恥心は、彼女の『本音のデータ』に最も近い。この状態での隣にいることの価値を測定する)
海斗は、契約書に定められた権利を一切行使しなかった。
親密な言葉も、肌への接触も、すべて封印した。
彼はただ、自分の存在だけを優理の隣に置き続けた。
十分ほど経った頃、優理のペンが止まった。
海斗は、優理が水筒を取ろうとして、手が自分の肘に触れたのを感じた。
「す、すみません」
優理は、静寂の中でその一言を絞り出し、すぐに水を飲んだ。
彼女の動きは不自然にぎこちない。
海斗は、優理の手元の資料に、彼女が引いたアンダーラインが、数ページにわたってまったく入っていないことに気づいた。
彼女の思考は、学習に集中できていない。
「優理」
海斗は、口を開かずに、自分のメモ帳を静かに優理の方へ滑らせた。
文字は、彼の端正な筆跡で、簡潔に書かれていた。
『集中できていない。不快か? (Yes/No)』
優理は、メモを読み、海斗を一瞥した。
彼女の瞳は、一瞬、戸惑いで揺れた。
彼女は、「不快」だと答えれば、この不必要な活動をすぐに終わらせ、「羞恥心という感情的コスト」をゼロにできる。
それが、最も合理的な選択だった。
しかし、優理は、ペンを握りしめ、「Yes/No」の文字の下に、「No」と丸をつけた。そして、小さく付け加えた。
『不快ではない。しかし、慣れない。』
海斗は、その答えを見て、静かに優理に微笑んだ。
その微笑みは、彼らの契約に対する、最大限の報酬だったかもしれない。
(観測リザルト: 感情的コスト(羞恥心)が発生する環境下において、甲の存在は『不快ではない』と評価された。これは、報酬ゼロにおいても、『甲というパートナーの社会的・精神的有用性』が、プラスに作用することを示唆する。契約は、真の損益分岐点を超えた)
海斗は、ペンを取り、優理のメモの下に、次の言葉を書き加えた。
『休憩を兼ねて、昼食へ行こう。隣にいることで、君のキャリアを損なうつもりはない』
二人は、無言で立ち上がり、静かに図書館を後にした。
優遇措置も、快楽も報酬もない空間で、彼らは、契約が信頼に足るという、最も価値のあるデータを得た。
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