ある学者の日記(2019年10月5日)

~中略~


 私は●●大学(実在の教育機関であるため伏せる)にて准教授の職に就いて久しい。

 着任以来、私は一貫して●●先生(実名のため伏せる)のお側で研究に励み、アカデミズムの伝統と矜持を守るべく、黙々と職務を果たしてきたつもりだ。


 ●●学会(実名のため伏せる)では、先生に代わって幹事を務めた回数は十指に余る。会誌の編集から年次大会の運営、各種後援団体との調整に至るまで、私は他の誰よりも精勤してきたはずだ。


 むろん、その献身は先生も十分に理解してくださっていた――と私は信じて疑わなかった。


 教授推薦は、当然、次は私だ。


 それは学内でも既定路線と見なされていた。


 ……はずだった。


 しかし、先生はあろうことか、私ではなく、まだ駆け出しの若輩――●●(実名のため伏せる)を後継に選んだというのだ。


 あの若造は、確かに最近のトレンドであるバイオアーキオロジーだの古DNA解析だのといった分野で多少の話題を集めていた。


 だが、論文数でいえば圧倒的に私が上であり、研究テーマの蓄積も、発掘現場の経験も、学界とのネットワークも、全て私が一歩も二歩も勝っている。


 にもかかわらず、先生は「これからは質の時代だよ」などと寝言のようなことをぬかした。


 全く嘆かわしい!


 新規性にばかり飛びつき、伝統的手法や地道な実証研究を軽んじるような姿勢は、管見たる国の走狗がやることだ。


 上層部の研究費配分に取り入りたいだけの、銅臭い俗物がやることだ!


 まさか、先生までもがそのような俗物に成り下がるとは!

 

 私は深い失望と怒りに震えた。

 

 いや、震えた、では生ぬるい。

 

 胸の奥から煮えたぎるような黒い熱が溢れ出し、全身の血が焼けるほどに沸き立った。


 ――正さねばならない。


 そう思うまで、もはや時間はかからなかった。


 幸いなことに、●●学会の裏方を回しているのは私だ。


 大会資料の作成、予算、査読の割り振り、役員との連絡。


 先生が表に立っているように見えるのは表面上の話で、実際の運営はほぼ私の手中にあるといってよい。


 先生がいなくなっても、何の問題もなく学会は回る。


 むしろ、より円滑に動くかもしれない。


 そして何より――

 先生が消えれば、ポストが空く。


 その後を埋めるのは、私以外にいない。


 教授会も、渋々ながらも私を推さざるを得なくなるだろう。


 そこまで考えれば、答えは自ずと決まっていた。


~中略~


 ここ最近、私はフィールドワークのため、滋賀県と京都府の県境に位置する●●市の●●山(実在の住所のため伏せる)へ頻繁に赴いていた。


 この地域には「古い神が眠る」という口伝が残っており、私は数年来調査を続けていた。


 そして昨年の台風。


 まるで天が手助けしたかのように、がけ崩れが発生し、山肌が大きく露出した。


 その崩れた地層の奥に、古びた石で組まれた階段の入口が現れたのである。


 乾いた土砂を取り除きながら、私は直感した。


 これはただの古道ではない――と。


 実際、階段の最奥には、ひっそりとした石室いわむろが存在していた。


 壁面には、風化しつつも奇妙な文様が刻まれており、中央には崩れかけた祭壇が鎮座していた。


 供物台のような石卓には、何かを置いていた痕跡が残っている。


 しかし供物そのものは跡形もなく、ただ凍った影だけがそこにあるようだった。


 何の神が祀られていたのか、まだ特定には至らない。


 先生は何やら見当がついている様子ではあったが、「まだ検証が足りない」と言って教えてはくださらなかった。


 私はその慎重さが、当時はただじれったかった。


 ともあれ、この発見は世紀の大発見たり得る。


 しかし同時に、もし大したものではなかったならば我々は嗤い者になる。


 その危険性のゆえ、我々は発掘を秘密裏に進めていた。


 研究室の学生にすら情報を与えず、手伝わせることも禁じた。


 表向きは「発表準備中」。


 裏側では水面下での探査が進んでいたわけだ。


~中略~


 は、ははは!

 ははははははは!

 はははははははははははは! ははははは!


 やった、やってやったぞ!


 ついに私は、先生を石室の中へ閉じ込めることに成功した!


 石室の分厚い石扉を閉めた瞬間、中から先生の怒号と悲鳴が響いてきた。


「開けろ! 開けてくれ、●●君! どうしてこんなことをする⁉」


 その声に、私は唇の端をつり上げ、軽く笑って返してやった。


「自分の胸に聞いてみてくださいよ、先生」


 その瞬間の先生の沈黙――


 あれは堪らなく甘美だった。


「出せ!」


 怒り狂い、叫び続ける先生に、私は愉悦すら覚えながら、


「何の神様かは存じませんが、せいぜいお願いしてみてはいかがですか? きっとお助けくださいますよ?」


 そう、ゲラゲラと笑いながら言い捨てた。


 殺害すれば足がつく。


 しかし、偶然先生が石室に残っていたことに“気づかず”扉を施錠した、という体裁ならばどうにでも理由はつけられる。


 今回は、先生が普段帰宅する時間帯に「少し気になる点があるので見ていただきたい」と呼び出し、私は外で待つふりをして、隙を見て扉を閉め、外側から鍵をかけた。


 次のフィールドワークは一ヶ月後。

 十分すぎるほどの時間だ。

 餓死するには、な。


 しかし、石室の祭壇は何の神のためのものなのだろう?


 まあ、よい。


 先生が死んだ後、私が研究を引き継ぎ、成果を発表すればそれでよい。


『オ……ゲ……』


 オ、ゲ?

 嗚咽か。

 先生の哀れな断末魔が、階段を登る私の耳朶をわずかに震わせた。


 ああ、いい気味だ。

 なんと心地よい響きだろう。


 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――


 ……あれ?


 ポトリ、と何かが私の目の前に落ちてきた。


 見ると、それは小さな魚だった。


 透明とも濁りともつかぬ粘液にまみれ、ピチピチと跳ねている。


 山奥に魚などいるはずがない。


 私は思わず眉をひそめ、思考の癖で鼻を触ろうと手をあげた。


 その瞬間。


 指先は、空を切った。


 ――鼻が、ない。


 私の、顔から。

 私の、鼻が。

 失われていた。


 皮膚の中心に、ぽっかりと穴が開いていた。

 温かい風が、むき出しの内部に入り込み、骨をなぞるように冷たい感触を置いていく。


「……ぁ……あぁ……ああああああああああああああああああッ!」


 山中に、私自身の絶叫が反響した。


 その声は、まるでどこか別の場所から聞こえてくるようで……。


 耳鳴りの向こうで、小魚がまだ、ピチピチと跳ね続けていた。




 1週間が経過した。


 鼻がもげて魚になった後、立ち上がろうとしたが、既に足がリンゴや蜜柑などの果物に変貌しており歩くことはできなかった。


 はいずることも不可能だ。


 私にできるのはこうして日記をつけることだけだ。


 終わりだ。


 何かが、私の身に取り憑いた。


 身体が欠けていく。ああ。


 あるいは――


 あの石室に祀られていた神が、先生の代わりに私を選んだのかもしれない。


 そんな思考が、私の脳裏を黒く塗りつぶした。


 その時。


 コツコツという洞窟の階段を下りる音が耳朶に響いた。


 幻聴だ。


 こんなところに人が来るはずが――



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