24話:風が教えてくれたのは、君の笑顔の裏側と、私のまだ知らない何か。


 道の傾きが、気づかないうちに角度を増していく。

 踏みしめる土が、さっきより少し湿って、少し冷たい。


 木々の間を縫うように、細く続く登山道。

 足元には丸い石や、濡れた木の根が顔を出している。



 息を整えながら、一歩ずつ進む。

 土のにおい、湿った草のにおい――耳に入るのは、自分の呼吸と、鳥の声と、菜摘のリズムの違う足音だけ。

 歩くたびに、ふとももがじんわりと重くなる。

 でも、その感覚が少し心地よかった。


 立ち止まって振り返ると、道の下に木漏れ日が差し込んでいた。

 登ってきたぶんだけ、見える景色が少しずつ変わっている。



 ただ、無心で足を運ぶ時間。

 誰にも話しかけられず、誰の視線も気にしない。

 そういう時間が、こんなにも落ち着くなんて、知らなかった。


 こういうのが、“ちゃんと登る”ってこと、なのかな。

 歩幅を合わせるでもなく、置いていくでもなく、菜摘の背中がちょうどいい距離にある。


 少し背を伸ばして歩く。

 背中のザックが、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。



 ***



 登山道を抜けた瞬間、木立の向こうの空がいきなり開けた。

 風の音が変わる。ごうっと、耳の奥まで吹き抜けていく。

 押し込められていたような空気が、一気にほどける感覚。


 そのまま、身体ごと外に投げ出されたような錯覚に、思わず足を止めた。


「うわ……」

 言葉より先に、声が漏れた。


 尾根筋がなだらかに伸びて、左右に深い緑の山影が続いている。

 遠くの高い山並みに、かすかに雪の名残。

 初夏の光ににじむような白が、淡く空の青に溶けていた。


「ここ、風すご……!」


 菜摘が髪を押さえながら、楽しそうに声を上げた。

 その笑い声さえも、風に乗ってどこかへ流れていく。



 私は、しばらく黙ってその場に立ち尽くしていた。

 こんなに広い空を、山の途中で感じるのは初めてだった。


 自分の輪郭が風に溶けて、世界の一部になるような――

 そんな、不思議な解放感。


「この風、すごい……」


「……なんか、全部飛んでいきそう」

 私がそう呟くと、隣で菜摘がふっと笑った。



「うん。飛ばしちゃえ、全部」



 その言葉に、私は顔を向ける。

 菜摘は両手を広げて、ほんの少しだけ背伸びしていた。

 風に揺れるボブの髪が、陽の光に透けて、輪郭がかすれて見える。



「いらないこと、ぜんぶ。ばーって飛ばしちゃえ」



 風がそのまま言葉をさらっていった。

 何もなかったかのように、軽く。


 明るく笑ったその言葉――

 なぜか、耳の奥に引っかかった。

 その軽やかな響きの奥に、ほんの少しだけ、祈りのような響きを感じたからかもしれない。


 いらないこと、ってなんだろう。

 過去? 後悔? それとも、まだ誰にも見せてない何か?



 風がまた吹いて、足元の砂利がさらさらと鳴る。

 私はただ、空の奥を見上げながら、その続きを聞けないまま、胸のどこかで待っていた。


 でも菜摘はもう、何も言わなかった。

 風の向こうを見て、ただ笑っていた。

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