23話:袖を捲った菜摘と、少しだけ緩んだ靴ひも。
土曜の朝、駅の改札前。
待ち合わせの時間より五分前に着くと、すでに菜摘が手を振っていた。
「おはよ! 秋穂、はやっ」
「そっちこそ」
「えへ、今日は楽しみすぎて早起きしちゃった」
きちんと背負われたザック。
ウェアはスポーティな淡い水色でまとめられていて、袖を少し捲っているのが初夏らしい。
足元はというと、いつものグレーのスニーカー。
体育でも履いている、履き慣れた、でも登山にはあまりにも不向きな靴。
その靴を見るたび、私は少しだけ胸がざわついた。
まるで、彼女がいつでもここから走り去って、あの体育館に戻っていけるように、わざとこの靴を選んでいるような気がして。
電車に揺られて、登山口の駅へ向かう途中。
私はふと、彼女の足元に視線を落とした。
「……ねえ、ちょっと」
「ん?」
「靴、擦れてる。そこ、かかとのとこ」
「あっ、ほんとだ。……ちょっと痛いかも」
「はい」
私はポーチから絆創膏を取り出して差し出した。
菜摘は一瞬、ぽかんとした顔をした。
「え、なんで持ってるの?」
「山だし。一応」
「秋穂、なんか……お姉ちゃんみたいだね」
お姉ちゃん。
……慣れてない。
けど、その言葉が、すとんと胸の真ん中に落ちてきた。
私が、菜摘の面倒を見てあげなきゃ。
そんな気持ちが、じんわりと広がる。
「……早めに貼っときなよ。登り始めたら余計に痛くなる」
「うん、ありがと」
菜摘はちょっと照れくさそうに、でも素直に礼を言って、靴下をずらして貼った。
その無防備な仕草を見ながら、私は決心する。
「……今度、見に行こうか。登山靴」
気づいたら、そう言っていた。
「え?」
「その靴、もうボロボロじゃない?ちゃんとしたやつ、揃えたほうがいいよ」
「えー、でもこれ、軽いし走りやすいんだよね。愛着あるっていうか」
その「走りやすい」という言葉に、私の心臓が小さく音を立てる。
「……山は、走るとこじゃありません」
「はーい、部長サマ」
菜摘は軽く肩をすくめると、ぱっと表情を明るくした。
「せっかくならさ、おそろいにしない? 色違いとか!」
「……それ、目立ちすぎない?」
「え~、いいじゃん。仲良し部活感。」
頬をふくらませて、菜摘が私の顔を覗き込んでくる。
その屈託のない眩しい笑顔に、思わず目がくらむ。
「……まあ、いいけど。私が、選んであげる」
私は顔をそらして、窓の外を眺める。
朝の光に、山並みが少しずつ近づいてきていた。
おそろいの靴。
同じ歩幅で、同じ道を歩くための、約束の印。
菜摘が、私以外の誰かのもとへ走り去ってしまわないように。
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