第19章 それぞれの歩幅

 氷のステージの喧騒が過ぎ去ったあと、事務所の空気は少し落ち着きを取り戻していた。

 結と顔を合わせたとき、俺は少しだけ緊張した。あのライブの件も、妙な気まずさの種になっているんじゃないかと気にしていたからだ。


「……こないだは、その、ごめんなさい」

 結は小さな声で切り出した。

 謝罪とも弁明ともつかない声。俺はすぐに首を振る。


「気にするな。あんな環境で平然としてろっていう方が無理だろ」


 彼女は目を瞬かせ、そして笑った。肩に入っていた力が抜けたように見えた。

 その笑みを見て、俺もようやく安心した。



 天とも廊下ですれ違いざまに話した。

「ねえ、前のことさ?」

 肩越しにそう問うと、彼女は首を傾げる。

「何のこと?」


 本当に何も気にしていない顔だった。

「……いや、ならいい」

「気にする必要ないって。結だって同じこと言うよ。あんたまで深刻そうな顔するから、余計に重くなるんだってば」


 笑いながらそう言う天の明るさに救われた気がした。

 気にしないで行こう。彼女たちの言葉に甘えて、俺もそのまま頷いた。


 ただ、裏側ではまだ処理が残っていた。

 ステージ後に拡散された「鼻水アイドル」タグや画像の数々。

 放っておけばネタとして永遠に残ってしまう。俺は深夜、PCを開いて一つ一つ検索をかけた。


 ファンアカウントへのDM。投稿の削除依頼。場合によっては法的措置をちらつかせながら、できる限りの証拠を消していく。

 まるで雑務の延長。だが、これだけは俺にしかできない仕事だった。


「……俺がやらなきゃ、彼女たちの名前に傷が残る」


 画面の光を見つめながら、そんな思いが胸に沈む。

 完全には消せなくても、せめて広がりを止めることはできる。

 その夜、俺は久々に夜更かしして指を動かし続けた。


 翌日、雨は事務所に姿を見せなかった。

 代わりに社長が軽く言ったのは、「平山明日香さんから直々のご指名だよ」という一言だった。


 その名を聞いた瞬間、空気がわずかに揺れた気がした。

 アイドルの象徴。常にセンターで立ち続ける存在。

 俺ですら名前を知っている、絶対的なトップ。


 やがて事務所に戻ってきた雨は、普段とは違う気配を纏っていた。

 青髪の揺れ方さえも軽く見える。表情には確かな熱が宿っていた。


「平山さん……すごい人だよ」

 口を開いたその声は、いつもより高く、よく通っていた。

「指導が的確で、声の響かせ方も全部具体的。ひとつひとつの言葉に迷いがなくて……まるで、音楽そのものが人の形を取って話してるみたいだった」


 言葉を重ねるごとに、雨の瞳は輝きを増していく。

 静かな湖面に石を投げ入れたように、彼女の心が波紋を広げているのが見える。


「しかも、私の歌を――『真っ直ぐでいい』って言ってくれたんだ」


 その瞬間、彼女の頬がわずかに赤く染まった。

 誇らしげで、どこか信じられないような、けれど確かに胸の奥に刻まれた言葉を大切に抱きしめている顔。

 普段は寡黙で感情を見せない彼女が、まるで別人のように解き放たれている。


 俺はただ、圧倒されていた。

 この空気を壊すのがもったいないと思うほどに。


「……気に入られてるんだな」

 ようやく絞り出した声に、雨は一瞬考えるように視線を落とし――そして力強く頷いた。


「そうなのかな。でも、少なくとも……『次のイベントにも呼びたい』って言ってくれた」


 ――『君だけでも呼びたい』。誉め言葉のはずなのに、その響きは、Open Haloという輪郭を薄くした。


 その言葉を口にする時の彼女の声は、迷いを知らなかった。

 ただの事実を伝えているはずなのに、その響きには未来を切り拓く確信と、追いかけるべき背中を見据えた憧れが入り混じっていた。


 彼女の中で何かが変わったのだと、はっきりわかる。

 憧れを手にした喜びと同時に、自分もそこへ近づこうとする決意。


 ――ああ、雨はもう、ただの“静かな子”じゃない。


 ふと、俺の口から言葉がこぼれた。


「……そこまで歌に自信があるならさ。ファンをもっと増やすために、雑談配信とかゲーム配信とか、やってみたらどうだ?」


 雨の目がこちらに向く。

 一瞬、驚きの色が揺れ――しかし次の瞬間には、きっぱりと首を横に振っていた。


「……やらない」


「そんなに即答?」


「私は歌だけでいい。歌で見てもらえなきゃ意味がない」


 言い切る声は冷たいわけじゃなかった。

 むしろ迷いを振り払った清涼さがあった。

 彼女にとって“雑談”や“ゲーム”は寄り道でしかない。

 本当に届けたいものはただ一つ――歌。


 俺は思わず肩をすくめる。

「……頑固だな」


 雨は淡く微笑んだ。

「そうかもね。でも、それでしか前に進めないから」


 その言葉に、彼女の強さと脆さの両方が見えた気がした。



 変わってバニラはといえば、新作ゲームの世界に没頭していた。

 控室でコントローラーを握る姿は、アイドルというよりゲーマーそのもの。

「ちょっと、やってみなよ」

 軽く差し出されたコントローラーを受け取ったものの――。


「え、待て……操作が……」

 画面上のキャラは数秒で奈落へ落下した。


「……は? 今の何?」

 バニラが素で呆れた声を漏らす。

「いや、操作説明が……」

「普通にチュートリアルあるでしょ!? 初期配置で落ちる人初めて見たんだけど」


 彼女の容赦ない突っ込みに、思わず笑ってしまう。

 アイドルらしさなんて一切ない、ただのゲーマー少女の顔。

 でも、そうやって素を出せる場所があることに少し安心もした。


 日常が戻ってきたかのように思えた。

 だが、俺には別の現実が迫っていた。


「単位警告のお知らせ」

 大学からのメールを開いた瞬間、胃が重くなる。

 出席不足、課題未提出、警告。

 赤字で並ぶ文字は、もはや言い訳できない状態を突きつけていた。


 スマホを机に伏せ、深く息を吐く。

「……知るか」


 呟きは空気に溶けて消える。

 彼女たちのことを思えば、学校のことなんて二の次に思えてしまう。

 本当はやばいと分かっている。けれど、それでも――今は。


 俺が背負っているのは、彼女たちの未来の方だ。


 翌朝、姉に紙を突きつけられた。大学からの警告メール。

 「単位、落とすなら――それは“選ぶ”ってことだ。覚悟決めろ。中途半端は許さない。」

 その言葉が、胸の奥で冷たく鳴った。



 ステージ後の和解。

 裏での小さな火消し。

 仲間の成長と、新しい関わり。

 そして、俺自身の小さな敗北。


 日常は穏やかに見えるけれど、確実に変化していた。

 その変化に飲み込まれるようにして、俺はまた次の日へと足を運んでいく。

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