第18章 氷のステージに現れる光

 事務所の空気は、まだ少し重かった。

 結と天――二人の間に流れる気まずさは、前回の小さな衝突の名残だ。

 視線が交わるたび、互いに言葉を選びすぎてしまう。

 普段なら賑やかな空気が生まれるはずのミーティングルームも、そのときばかりは静かな間が続いていた。


 バニラはいつもの調子でスマホを弄り、雨は平然と書類をめくっている。

 けれど、部屋の温度はほんのわずかに下がったように感じられた。

 俺も声をかけられず、ただ椅子に座ったまま様子をうかがう。

 息を呑むような沈黙。言葉を探す音すら、誰も出せなかった。


 ――そのときだった。


「イベント出演!?」


 社長の電話の声が、場を揺さぶるように響いた。

 貼り付いたような気まずさは、その一言で一気に霧散する。

 全員の視線が電話を終えた社長に集まり、空気は重さから熱へと転じていった。


「予定してたユニットが急遽キャンセルでね。代わりにウチに話が来たのよ」


 唐突な告知が、まるで雷みたいに場の空気を切り裂いていく――。


 姉――社長の一言。

 先日のコラボ配信で“炎上寸前からの持ち直し”を見せた回が、どうやら内輪で高評価だったらしい。小さな波が、思わぬ岸に届く。


「やるに決まってんじゃん!」

 恋乃天が椅子をはね飛ばすみたいに立ち上がる。

 瞳が星を映し、口元が弾む。こういう時の彼女は、空気の温度自体を引き上げる。


「わ、私たちで大丈夫なのかな……」

 紅結は手を胸に置いたまま、不安と責任のちょうど真ん中に立っていた。センターの癖。言葉の前に、背中で重さを測る。


「これ、かなり大きなイベントよね?」

 東村雨はパンフを受け取り、文字と数字だけを冷静に読む。視線は踊らない。現実の骨を確認する視線だ。


「でも配信映えしそう!」

 推藤バニラが口角を上げる。照明のワット数とカメラの機種を頭の中で割り算して、最適解に……行く前にニヤリと笑う。まず“映え”を嗅ぎ分ける本能。


――おいおい、浮かれてる場合か?


 俺は配られた資料をめくり、思わず眉間を押さえた。

「……会場、スケートリンクって書いてあるんだけど?」


 一瞬、沈黙。すぐに社長がさらりと答える。

「大丈夫よ。何度かやってるから」


「いやいやいや! “夏先取り”ってタイトルでスケートリンクはおかしいだろ!? しかも今はまだ春だぞ!? 氷だぞ!? 白い息見えるぞ!?」

 声を張り上げながら、自分の脳内にはすでに悪夢の光景が広がっていた。ライトに照らされた氷の床、転んだ瞬間に響き渡る悲鳴、そして俺の耳に突き刺さる客席のざわめき。


 そこへ、雨があっさりと口を開く。

「ごめん、その日……私は別のイベントの手伝いがあるの」


「ええっ!?」優子がテーブルを叩く。「せっかくのステージなのに!」


 芽亜も目を丸くする。「……それ、本気?」


「また機会あるわ。それに今回は――」雨は落ち着いた声で言葉を継いだ。「平山明日香さんの関係だから断れないの」


「平山さん!?」

 一斉に声が重なる。空気がざわつく。


 社長が肩を竦めて補足した。

「私がお願いしたの。『歌が上手い子を一人貸してほしい』って。まあ、頼まれたら断れないわ」


「そんな……」俺は頭を抱えた。「じゃあ、今回は三人で?」


「ええ。三人で登録しておくわ」


 嫌な予感しかしなかった。三人分に振付を組み直し、欠けたコーラスを埋め、MCの回しまで再構築して――しかも会場はスケートリンク。冷気に喉を削られ、滑る床でリズムを刻む。

(……本当にやるのか、これ)



 準備は疾走だった。

 スケジュールとにらめっこし、歌割りを再計算。バランスを崩さないよう、結の負担をほんの少しだけ下げる。天には“盛り上げ”を前寄せに。バニラには“コール&レスポンス”の仕掛けを二つ追加。

 衣装は予定通り(=薄い)。レギンス増し? 却下。ダウン? 論外。

 せめてもの抵抗で、俺は舞台袖用に貼るカイロと薄手の手袋を買い込んだ。指先が凍るとマイクの保持が甘くなる。喉用にホットドリンクも。楽屋への搬入許可はギリギリ通った。


「ブレスの位置、二小節ずらします」

 リハ室で、俺は譜面に小さく赤を入れていく。

「了解」

 雨の代役ラインは結が拾う。歌の重さが増す代わりに、コーラスのハモりは薄く。

 完璧を捨てて、崩れないほうへ。三人用の最適化。


 天はダンスのフットワークを氷想定で微調整していた。滑りはしないが、床が冷たいと足首の戻りが鈍る。そこに“勢い”が噛み合うよう、ステップを丸くする。

 バニラはMC台本の“箱”を増やした。三十秒の小箱。観客の体温を拾って温めるための火種。

 結は発声の深さを再確認していた。冷気は喉の奥を縮める。ならば前で響かせるより、腹で鳴らす。センターは、音の焚き火になる。



 会場に着いた瞬間、皮膚が後ずさりした。

 リンクサイドの空気は、目に見えるほど冷たい。息が白い花になって、すぐに割れる。

 照明は強い。だが、熱は遠い。

 音の反射はよく、足音は硬い。舞台監督が言った。「転倒だけは、絶対に避けて」。

 避けられるなら、鼻水も避けたい――それが三人の本音だったに違いない。


「ちょっと……めっちゃ寒いんだけど!」

 結が両手をこすり合わせ、肩をすくめる。

「マジありえない!」

 天は鼻をすすり、ジャンプでも跳ねそうな勢いで抗議する。

「衣装これ? 冬服じゃないの? せめてマフラー!」

 バニラ、やめろ。袖で鼻を拭く仕草は“可愛い”の手前で危険だ。


「ダウン着てステージ立つわけにもいかないでしょ」

 俺も止めたいが、ルールには逆らえない。

「時間だ。着替えて待機してくれ」


「マジ無理……鼻が取れる……」

 天の顔はすでに真っ赤。

「もしかして、これがキャンセル理由……」

 バニラ、今さら気づくな。


「でも……せっかくのステージだから頑張るよ!」

 結がコートを脱ぎ捨てた。震えが指先に残っていても、目だけはまっすぐ。センターの意地だ。

「へっくしゅんっ! ……あ」

 次の瞬間、センターとは思えないだらしない顔に。

 俺は迷わずティッシュを差し出した。

「……時間だ。行け」


 リンクの縁でスタッフが合図を送る。

 俺は一人ずつ背中を軽く叩いた。天、行け。バニラ、任せた。結、灯せ。


 コートを脱ぎ、震えながらステージへ向かう三人。

 背中を見送る俺は――ただ「頑張れ」と心で繰り返すしかなかった。



 グループ紹介のアナウンスが響く。

 スポットが氷の上で跳ね、反射した光が客席の頬を撫でた。

 三人は定位置に散り、最初の呼吸を合わせる。


 もう後戻りはできない。

 でも、寒い。とにかく寒い。

 衣装、薄すぎ。


「――Open Halo、いきます!」

 結の声が震えずに飛ぶ。氷の上を滑って、観客の耳に届く。

 天が満面の笑みで腕を広げ、バニラが軽やかにコールを誘導する。


 最初の一分は、耐える時間だった。

 頬が強張って表情が作りにくい。ブレスの度に鼻がつらい。

 袖で拭けない。プロは袖で拭かない。

 情けない姿だけは――そう、彼女たちは戦っている。


(せめて、啜って……耐えるしか……)


 マイクに乗らないギリギリの“スッ”が、歌の隙間に紛れ込む。

 幸い、観客の耳には届かない。届かないことを祈るたび、腹筋に力が入る。


 曲はいつも通り。

 振りも、完璧。

 ……の形を保ちながら、内側は火事場の冷静さで回っていた。


「ハイ! ハイ!」

 天のコールに、子どもが真似をする。小さな手袋が空を切る。

 バニラの“箱”が当たり、笑いの熱がふっと上がる。

 結のロングトーンが安定し、客席の肩がほどけていくのが見えた。


 問題は二番。

 長めのフレーズの最後で、鼻が悲鳴を上げる。

(お願い、あと少しだけ……!)

 結が腹で支え、天が間を拾い、バニラが被せる。三人で、隙を黙って埋め合う。

 そんなこと、誰も気づかない。気づかなくていい。舞台の上では“結果”だけが写るから。


 最後の決めポーズ。

 視線の先には拍手と歓声。

 でも、今の自分の顔がどうなっているか、想像もしたくない――それが三人共通の本音だった。


 暗転。

 音の尾が消えるより早く、三人は舞台袖へダッシュした。


「ティッシュ!!!」

 終わって最初の台詞がそれかよ、と喉まで出かかったツッコミは、鼻水で真っ赤な顔を見て吸い込まれた。


「いいから!」

 結が半泣きで言い、天がズビズビ言いながら手を伸ばし、バニラはもう箱を抱えていた。

 ここまで人気になったティッシュを、俺は見たことがない。

 手のひらでカイロを押し付け、温かい紙コップを渡す。

「これ、白湯。喉、冷やすな」


 暖をとる三人は、さっきまでステージで輝いていた“アイドル”の面影が少しだけ溶けて、ただの女の子に戻っていた。

 でも俺は、思う。


「鼻水垂らしたって、頑張ってたんだから、可愛いもんだろ」


 彼女たちにとっては許せない姿なのかもしれない。

 だけど、そんな素の姿こそが、俺には一番愛おしく見えた。



 楽屋で鼻をかみ終え、ようやく人心地が戻ったころ。

 社長がスマホを掲げて飛び込んできた。


「ちょっと見なさいよ、これ!」


 画面にはタイムライン。十秒ごとに更新され、文字列が雪のように積もっていく。

《#OpenHalo》《#鼻水事件》《リンクで根性》《寒さに負けないアイドル》《守りたくなる》《今日から推す》

《鼻水まで可愛いは新概念》《がんばったの伝わった》《プロの根性》

 中には茶化しもある。だけど、全体の温度は思ったより優しい。


「ちょ、ちょっと待って!? バズってるんだけど!」

 天がスマホを奪い取り、真っ赤な顔をさらに赤くする。

「見ないで! やめてー!」

 結は頭を抱え、声にならない悲鳴を上げる。

「ふふ、配信映えはするって言ったでしょ?」

 バニラはティッシュ箱を抱えたまま、ドヤ顔でピース。箱をマイクみたいに構え、ポーズを決める。


「これが“アイドル”なのか……?」

 俺は頭を抱えながらも、胸の奥が妙に熱い。

 舞台の冷たさに震えながら、それでも最後まで立ち続けた三人。

 光は、完璧さじゃない。立ち続ける意思が点けるものだ。


 社長が素早く指示を飛ばす。

「公式で“寒い中ありがとう”の文言を出す。謝罪はしない。『次は冬装に強化します』で未来形。写真は“終演後の笑顔+温かい飲み物”。ティッシュは映さない」

「ティッシュ、主役なのに……」

「主役にするな」


 俺は頷き、文面を三行でまとめる。

《氷のステージ、応援ありがとう。寒さに負けず、あなたの声に支えられて歌えました。次はもっと強く。#OpenHalo》

 送信。

 通知の波が返ってくる。

 小さな灯りが、画面の向こうで増えていく。



 帰り際、リンクの縁に立って、冷たい空気を胸いっぱいに入れた。

 暗い氷面にライトの残像が泳ぎ、誰もいない観客席は静かに沈んでいる。

 さっきまで“完璧じゃない”三人が、ここで確かに完璧より美しい瞬間を作った。


 仮面は守るためにある。

 でも、鼻水みたいにこぼれる素顔を、観客は嫌わなかった。むしろ、そこに温度を見つけた。

 芸名と本名。仮面と素顔。

 その境界は、今日、少しだけ揺れたのかもしれない。


「次は、寒さ対策、最初から入れよう」

 自分に言って、メモアプリを開く。

 チェックリストに項目が増える。

 ――“リンク会場時:衣装下に保温インナー可否交渉”“白湯×6”“ポケットティッシュ×∞”“MCに『寒さ共有ジョーク』一つ”。

 舞台は準備でできている。準備は愛でできている。たぶん。


 外に出ると、春の夜風が急に優しく感じられた。

 見上げれば、都会の空に星は少ない。

 それでも、胸の中にはいくつか増えていた。

 凍える光でも、灯せば暖かい。それを今日、三人が証明した。

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