第13話:線香の匂い
王の有無を言わせぬ声に促され、二人は足早に「四海堂」へと戻った。
夕暮れの雑踏の中を歩きながらも、三隅の背中には、依然として粘つくような視線が突き刺さっているように感じられた。
王に指摘された「線香の匂い」は、彼自身には全く感じられない。
だが、その言葉は、彼の皮膚の下にじっとりとした不安の種を植え付けるには十分だった。
店の重い扉を閉め、外界の喧騒を遮断すると、いつもの線香と古書の匂いが三隅を迎えた。
だが、今の彼には、その店の匂いと、自分にまとわりついているとされる「死の匂い」との区別がつかなかった。
「一体どういうことなんだ、王さん。線香の匂いってのは」
三隅は、自分のジャケットの襟元を嗅ぎながら、苛立たしげに尋ねた。
王は店の明かりをつけながら、いつもより険しい表情で答えた。
「穢れだ。我々は、呪いの源流に近づきすぎた。70年間、澱のように溜まっていた憎悪の念が、その存在を探る者を感知し、干渉を始めているんだ」
王の言葉は、まるで医学者が患者に病状を告知するかのように、淡々としていた。
だが、その内容は、三隅の常識を根底から揺るがすものだった。
「穢れが、俺にうつり始めてるってことか?」
「うつる、というよりは、目印をつけられた、と言った方が正確だろうな」
王はカウンターに手をつき、三隅の顔をじっと見つめた。
「お前は、この事件に深入りしすぎた。特に、周一族の墓、あの『梨花』という忘れられた名に触れたことで、呪いの側がお前という存在を『認識』した。お前は今、暗闇の中で、一本だけ線香を灯して立っているようなものだ。向こうからは、お前の場所がはっきりと見えている」
その言葉は、比喩表現でありながら、恐ろしいほどの現実感を伴って三隅に突き刺さった。
自分だけが、呪いの標的として捕捉されている。
その事実は、彼の全身の血の気を引かせた。
過去に友人が怪異に巻き込まれ亡くなったトラウマが、不意に蘇る。
また、自分に近しい誰かが、あるいは自分自身が、あの得体の知れない何かに引きずり込まれていくのではないか。
その恐怖が、彼の呼吸を浅くさせた。
「何か、できることはないのか。祓うとか、清めるとか」
「相手は70年モノの憎悪だ。生半可な術でどうにかなるものではない」
王はそう言うと、カウンターの奥の作業台へと向かった。
そこには、彼が道術に用いる様々な道具が、整然と並べられている。
彼はその中から、手のひらほどの大きさの、鮮やかな黄色の紙を数枚取り出した。
霊符の作成に用いられる、特別な紙だ。
「だが、何もしないわけにもいかん」
王は作業台の前に座ると、小さな硯に墨を注ぎ始めた。
そして、懐から取り出した小さなガラス瓶の中身を、その墨に数滴、垂らした。
どろりとした、赤黒い液体。鶏の血だった。
黒い雄鶏の血は、「陽」のエネルギーの強力な源とされ、魔を滅する力を持つという。
鶏血を混ぜた墨は、独特の鉄錆のような匂いを放ち、店内の空気をさらに張り詰めさせた。
王は筆を手に取ると、一度深く、静かに呼吸を整えた。
そして、精神を集中させると、黄色の紙の上に、流れるような、しかし力強い筆致で、複雑な文様と呪文を書き始めた。
それは、漢字のようであり、梵字のようでもあり、あるいは古代の象形文字のようにも見える、不可思議な記号の連なりだった。
彼の動きには一切の無駄がなく、派手さもない。あくまで、世界の法則に干渉するための「技術」として、淡々と手順をこなしているだけだ。
だが、その研ぎ澄まされた所作は、見る者を圧倒する一種の儀式的な緊張感を伴っていた。
三隅は、固唾を飲んでその様子を見守るしかなかった。
調査が行き詰まり、今度は自分自身が怪異の標的になり始めている。
これまで物語の「観察者」でいられたはずの自分が、否応なく「当事者」の側へと引きずり込まれていく感覚。
それは、彼のライター人生の中で、初めて経験する種類の恐怖だった。
数分後、王は筆を置いた。額には、玉のような汗が滲んでいる。
一枚の霊符を書き上げるだけでも、相当な精神力を消耗するのだろう。
彼は書き上げたばかりの霊符を指で挟むと、それを三隅に差し出した。
「これを、肌身離さず持て」
その声には、疲労の色が滲んでいた。
「気休めにしかならんが、無いよりはましだ。
穢れを完全に祓うことはできんが、お前の匂いを多少は紛らわせることができるかもしれん」
三隅は、まるで貴重品でも受け取るかのように、両手でその霊符を受け取った。
まだ乾ききっていない鶏血の墨が、生々しい鉄の匂いを放っている。
紙は薄っぺらいのに、ずしりとした重みを感じた。
これが、今の自分を守る唯一の盾なのだ。
彼は霊符を慎重に折り畳むと、ジャケットの内ポケットにしまい込んだ。
不思議と、ポケットに入れた瞬間、王に指摘されてからずっと感じていた左肩の重みが、僅かに軽くなったような気がした。
「……ありがとう、王さん」
「礼を言うのは早い」
王は二枚目の霊符を書き始めながら、顔も上げずに言った。
「これは、時間稼ぎに過ぎん。根本的な解決にはならん。呪いの本体を突き止め、その理を解き明かさない限り、いずれこの符の力も尽きる」
その言葉は、三隅に一時の安堵すら与えなかった。
調査を続けなければ、自分は喰われる。
だが、調査を続ければ、さらに深みにはまり、呪いを刺激することになる。
どちらに転んでも、破滅が待っているかのような、絶望的な二者択一。
「神戸、か……」
三隅は、同郷会館の帳簿にあった、あの細くか弱い筆跡を思い出していた。
周梨花が母と共に渡ったとされる、西の港町。あまりにも広大で、どこから手をつけていいか分からなかったその場所が、今や、自分の命を繋ぐための唯一の目的地となっていた。
「神戸に行くしかない。どんな手を使っても、梨花の足取りを掴む」
三隅の呟きに、王は筆を動かす手を止めずに答えた。
「ああ。だが、闇雲に探しても、また時間を浪費するだけだ。何か、理の糸口が必要だ。横浜と神戸。周梨花と、現代の被害者である橋本。そして、我々がまだ知らない、次なる標的。それらを繋ぐ、一本の線が、どこかにあるはずだ」
王の言葉に、三隅は頷いた。
そうだ、焦ってはいけない。王の口癖は「早まるな」だった。
だが、自分の身に危険が迫っている今、その言葉を守り続けることができるだろうか。
内ポケットの霊符の、微かな温かさだけが、彼の唯一の頼りだった。
四海堂怪異事件簿 月影 朔 @tetsyomu
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