Caput X : Susurri Urbis(王都のささやき)
Sub stellae lumine, voces occulte crescunt.
In cordibus hominum, rumor velut aura hiemalis serpens movetur.
(星の光の下で、声はひそやかにふくらみ、
人の心の内で、噂は冬の風のように忍び込み、揺らいでいきます。)
──────────
まだ空が白みきらないうちから、屋敷のどこかがそっと騒がしくなっていました。
遠くで布を払う音。
絨毯の端を直す気配。
廊下を行き交う足音が、いつもより一つ分だけ早く重なって聞こえます。
寝台から身を起こしたセレスティアは、胸の奥に残るかすかなざわめきに気づきました。
昨夜までの疲れとは違う、形のない揺れ。
窓を少しだけ開けると、冷たい朝の空気が頬をかすめていき、薄い雲の向こうでは、夜の名残りがまだ空に張りついています。
(……いつもと、違う)
理由はわかりません。
けれど、胸の奥で小さな波紋がひとつ広がりました。
◇
身支度を整えて廊下に出ると、屋敷はすでに朝の顔をしていました。
侍女たちが腕に布を掛けて行き交い、壁際の燭台は磨き直され、玄関へ続く赤い絨毯には、いつもより念入りにブラシがかけられています。
「おはようございます、セレスティア様」
すれ違った侍女が慌てて一礼し、そのまま足早に去っていきましたが、その背中には、言葉にはならない緊張が滲んでいます。
ちょうどそのとき、廊下の向こうから見慣れた姿が歩いてくるのが見えました。
「セレス」
カシアンでした。
襟元はいつも通りきちんと整っていますが、袖口には小さな皺が残っています。
その袖口の皺だけで、彼がどれほど早く動いたのかが伝わってきました。
彼は足を止めると、やわらかい声で告げます。
「……今朝、知らせが届いた。父上と母上が今日こちらへ向かっている」
セレスティアの胸が、ひそやかに跳ねました。
「お父さまと、お母さまが? 今日……?」
「急だが、そうらしい」
それ以上の説明はありません。
けれど、屋敷の隅々にまで行き渡った落ち着かない空気が、十分過ぎるほどの理由を語っていました。
「詳しい話はあとだ。……まずは、迎えないとな」
その言葉とほとんど同時に、玄関のほうから声が上がります。
「――馬車が到着しました!」
屋敷の空気が、一段階大きく揺れました。
そして、セレスティアの胸のざわめきもまた、静かな波から、はっきりとした鼓動へと変わっていきました。
◇
馬車の扉がゆっくりと開くと、冷たい空気が一筋、屋敷の中へ流れ込みます。
最初に見えたのは、しっかりとした肩の線でした。
深い紺の外套を身に纏い、背筋をまっすぐに伸ばした男性――ルミニス伯爵。
そのすぐ後ろに、淡い色のマントを羽織った女性が続きます。
柔らかな栗色の髪をまとめ、瞳にはあたたかな光と、消えない心配の色。――ルミニス伯爵夫人。
「セレス……」
そう呼びかけた声に乗った息づかいが、ここへ来るまでの道のりを物語っています。
「お父さま、お母さま。……お帰りなさいませ」
セレスティアはスカートの裾をつまみ、深く礼をしてから顔を上げると、母がもう目の前に立っていて、そっと娘の肩に触れました。
「顔を見たら、安心したわ」
少しだけ震えを含んだ指先。
「わたしは元気ですわ」
そう答えると、母の目尻にようやく笑みが浮かびました。
父は一歩下がった位置でふたりを見つめ、静かにうなずきます。
「元気そうで何よりだ、セレスティア」
それだけの言葉なのに、その奥にどれほど多くの思いが折り重なっているのか、セレスティアにはわかりました。
(心配を、かけてしまったのね)
胸の奥で、小さな痛みとあたたかさが同時に生まれます。
背後でカシアンが一礼しました。
「父上、母上。長旅でお疲れでしょう。どうかまずはお部屋で、ひと息つかれてください」
「そうしましょうか」
母はそう言いながらも、一度だけセレスティアの手を握りしめました。
その握り方は、しばらく離したくないと訴えているようでした。
◇
しばしの休息を経て、柔らかな日差しの満ちる客間で、セレスティアと両親、そしてカシアンは向かい合うように腰を下ろしていました。
「馬車の中でね、いくつか耳にしたの」
母がそう切り出しました。
カップの縁に添えた指先が、ごくわずかに動きます。
「“光が走った”とか、“星の娘が人を救った”とか……どの話にも、あなたの名がそっと添えられていたわ」
セレスティアは、カップの中で揺れる液面を見つめました。
(やっぱり……)
薄く予感していたことが、静かな言葉になって目の前に置かれた気がしました。
「華やかな言葉も多かった。感謝や称賛もな」
父が続けます。
「だが……世に広がる噂というのは、良い話ばかりでできているものではない。」
「……怖がっている方も、いらっしゃるのでしょうね」
セレスティアは、胸元にそっと手を添えました。
「“星が告げるものは、いつも優しいとは限らない”って、ずっと教えられてきたもの。わたしの力が、誰かを不安にさせてしまうのではないかと……」
母は、その言葉に静かにうなずきました。
「ええ。星の名を冠するものは、古くから人を惹きつけもすれば、怖れさせもするわ。あなたのおばあさまも、若いころ“見えすぎる瞳”だと言われたことがあったの」
祖母の姿がふと脳裏をよぎります。
いつも庭で空を見上げていた、細い背中。
父は少し身を乗り出しました。
「だからこそ、わざわざここまで来たのだ」
その声は穏やかでありながら、家の長としての重みを帯びていました。
「噂を確かめるわけではなく。……お前の顔を見て、気持ちを聞きたかったのだ。」
「……お父さま」
セレスティアは顔を上げました。
父の視線は、彼女の目をまっすぐに捉えています。
「お前自身は、どうしたい」
短い問いでした。
けれど、その中にはすべてが含まれているようでした。
どう、したいのか。
あの展望台で感じた恐怖。
足元の先に広がる、見えない闇の気配。
(わたしは――)
セレスティアは、ゆっくりと息を吸い、言葉を選びました。
「……怖いです。わたしの力が、誰かを不安にさせてしまうかもしれないことも。名前だけが人の口にのぼって、わたしの知らないところでひとり歩きしてしまうことも」
母の指先が、膝の上でそっと組まれました。
「でも――」
そこから先は、思っていたよりも迷いなく出てきました。
「もし、わたしの見る光が、誰かを守るために役立つのなら。怖くても、目を逸らしたくはありません」
その言葉を置いたとき、胸のざわめきが、ひとつ芯を得た気がしました。
「お父さまやお母さまが、わたしを守りたいと願ってくださるみたいに。わたしも、目の前にいる誰かを守りたいと思ってしまうのです」
部屋に、短い静寂が落ちました。
やがて、父が息をひとつ吐きました。
「……困った娘だ」
口の中だけで笑うような声でした。
「我が家は代々、“星を見る”者を生んできた。どうやらその血は、お前にもはっきり流れているらしい」
セレスティアは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じました。
母が、そっと彼女の手を握りました。
「本当はね、星なんて関係なく、陽だまりの中で本を読んだり、庭を散歩しているあなたを見ていたいのだけれど」
「お母さま……」
「でも、あなたの心がもう決まっているのなら――」
母の瞳には、寂しさと誇らしさが同時に浮かんでいました。
「わたしたちができるのは、その背中を支えることだけね」
父はうなずきました。
「王都のざわめきにも、星の声にも、誰かの期待にも。流されすぎるな。光を見るのはお前だが、道を選ぶのは、お前自身だ」
その言葉が、胸の奥で静かに重なり合い、ひとつの灯になりました。
◇
その日の夕方。
両親は、カシアンとともに諮問院への報告書の確認に向かいました。
屋敷の中がひととき静かになり、セレスティアは庭を抜けて温室へ向かいます。
ガラス越しの空は淡く色を変え、星々がひとつ、またひとつと姿を見せはじめていました。
温室の扉を開けると、昼の名残りを含んだあたたかな空気が迎えてくれます。
花々の影が、天窓から差し込むかすかな光を受けて揺れていました。
「……ねえ、聞こえている?」
セレスティアは、そっと掌を夜空のほうへ向けました。
「今日は、お父さまとお母さまが来てくださったの。心配もされたけれど……それでも、わたしの思いを分かってくださった気がする」
言葉を重ねるたび、昼間のざわめきがすこしずつほどけていきます。
「怖いのは、まだ変わらない。でも、それ以上に――守りたい、と思ってしまうの」
胸の奥で、ひとつ小さな震えが生まれました。
花の影が、風もないのにふっと揺れます。
――「それでよい」
あの声が降りてきました。
男でも女でもない、光の中を流れるような響き。
夜会で、展望台で耳にした声と同じで、どこか少しだけ近く感じられます。
セレスティアは目を閉じました。
――「恐れを抱くのは、光を見ている証。守りたいと願うのは、お前が“星の娘”である証」
「……あなたは、誰なのですか」
思わず問いが漏れました。
――「名は、まだ要らぬ。やがて、お前自身が見つけることになる」
遠くで、鐘が一度だけ鳴ったような感覚が胸の内側をかすめます。
――「まもなく、“招き”が訪れる。高き塔よりの声が、お前の名を呼ぶだろう」
「塔……」
王城の尖塔。諮問院の高い楼閣。
星を仰ぐ場所はいくつも思い浮かびます。
そのどれもが、あの日──夜会の庭で交わした静かな声を、ふと呼び起こしました。
ジュリアン・アルヴェール。
まだ遠いはずの名が、星の囁きと重なるように胸の奥でひそやかに揺れます。
――「そのとき、お前はまた選ぶことになる。恐れに留まるか。光へと歩み出すか」
セレスティアは、静かに息を吸いました。
「……わたしは、もう逃げません」
その決意を胸に置いた瞬間、ふっと胸の内側に、小さな熱が灯りました。
(怖い。それでも……この“招き”の先にあるものを、見てみたい)
――「ならば、星々はお前の選択を見守ろう」
声はそこで途切れました。
天窓の向こうで、星がひとつ、ひときわ強く瞬いた気がします。
セレスティアはそっと目を開けました。
冬の空は澄み、その向こうで無数の小さな光が、まだ誰も知らない物語を抱いて瞬いていました。
(お父さま。お母さま。兄さま……そして)
胸の奥で、いくつもの名前が静かに響きます。
その光は、まだ形にならない未来の予兆として、王都の上空で静かに揺れていたのです。
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星灯りの小姫 鹿乃きゅうり @Shikanokyuri
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