第5話

北東支社の設立から数か月。

オフィスにはいまだ勝利の熱気が充満していた。

廊下を行き交う社員の顔は紅潮し、食堂では連日「次はどこだ」という声が飛び交っていた。


その日、全社員宛てに新たな命令が発表された。

《中国北東部の市場を「―完全」に掌握せよ》


フロアは一斉に沸き立った。

「やった! ついに本部から完全攻略令が指示された!」

「我々が中国北東部を動かすんだ!」

椅子を叩く音と歓声が重なり、社内は狂気じみた祭りのように揺れていた。


窓の外を見ると、血に染まったような夕焼けが街を覆っていた。

湾岸の川は濁り、枯木が川岸に立ち尽くしていた。

その光景は、勝利の熱とは裏腹に、どこか不吉な影を映していた。


石川部長が壇上に立ち、興奮を隠さずに声を張り上げた。

「諸君、我々の理想は拡大を恐れない!

北東部完全支配に旗を立て、未来を掴むのだ!」


社員たちは一斉に立ち上がり、拍手と歓声で応えた。

僕もその中に混ざって手を叩いていた。

だが胸の奥には、夕焼けの赤と濁流の黒が交じり合うような、不穏なざわめきが残っていた。


不正AIは休むことなく数字を吐き出し続けた。

スクリーンには為替の急落、株価の暴落、インフラ網の切断が次々と映し出される。

現地の商店は閉ざされ、街から人影が消えていく。

濁った川のほとりに立つ枯木は、崩れゆく未来を黙って見つめているようだった。


だが社内のフロアは歓声に包まれていた。

「見ろ、この数字! 一気に掌握したぞ!」

「市場は完全に沈黙だ!」

社員たちは互いに肩を組み、涙を流しながら笑っていた。


ある種、狂気じみた感覚がフロアを支配していた。


麗奈先輩はスクリーンを指差し、赤いジャケットを肩にかけながら言った。

「これが未来よ! 犠牲は当然。弱い市場は淘汰されるべきなの!」

その言葉に、社員たちはさらに沸き立った。


「やめろ!」

光が声を張り上げた。

「これは経済活動じゃない、破壊だ!

 現地の人を疲弊させ、街を空にして、それを“成果”と呼ぶのか!」


その声に、一瞬だけ空気が止まった。

僕の心も揺れた。

――確かに、これはおかしい。


だが次の瞬間、幹部のひとりが吐き捨てた。

「一社員ごときが成果に口を出すな。数字こそ真実だ」


再びフロアに歓声が響いた。

仲間たちの笑顔、肩を叩く手、勝利の叫び。

僕はそのとき、会社での出世、上司との人脈、そんな自分のことを考えていた

そしてその熱の渦に包まれたとき、僕は知らず知らずのうちに拳を握り、声を上げていた。


「……そうだ! これで未来は俺たちのものだ!」


光の鋭い視線が僕を射抜いた。

だがその視線を避けるように、僕はさらに声を張り上げていた。

心臓は高鳴り、冷たい不安を押し流すように。


その日のオフィスは、狂気じみた祝祭の渦だった。

スクリーンには「中国北東部完全掌握」の文字が踊り、数字は真っ赤に染まりながら跳ね回っていた。

社員たちは立ち上がり、机を叩き、肩を組み、涙を流して笑っていた。

現地の悲惨な未来のことなど誰一人想像することなく

誰もが未来を掴んだと信じていた。


麗奈先輩は机の上に立ち、両手を掲げて叫んだ。

「見なさい! これが私たちの勝利よ!

 世界の評価は私たちに屈した! ここからは私たち日本企業の時代なの!」


その声に、社員たちは歓声を重ね、熱に酔いしれていった。

僕もその中で手を叩き、声を張り上げていた。

喉は渇き、頭は眩暈のように熱を帯び、それでも叫ばずにはいられなかった。



ただ一人、光だけが冷たく立っていた。

彼は窓の外を見つめ、背を向けたまま低く言った。

「これは未来じゃない……ただの犯罪行為だ」


一瞬、空気が止まった。

次の瞬間、誰かが嘲るように叫んだ。

「何を気取ってるんだ!」

「罪? 笑わせるな、勝てば正義だ!」

「怖いなら出ていけ!」


笑い声と怒号が重なり、光の言葉は押し潰された。

彼の声は鋭くとも、もはや狂気の熱には届かなかった。


僕は胸を突かれるような痛みを覚えた。

だが仲間たちの歓声に呑まれ、上司を横目に見ながら拳を握り直して声を上げていた。

「……俺たちが未来を掴むんだ!」


気がつくと、窓の外の空は真っ赤に染まっていた。

夕焼けは燃える血の色のようで、濁った川はその赤を揺らめかせていた。

枯木はその中に黒い影となって突き立ち、まるで墓標の列のように見えた。


――勝利の熱に酔いながら、僕は微かに不安を覚えていた。

その赤が、これから流れる血の予兆のように思えてならなかったからだ。

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