第5話「芽生えた心、燃える嫉妬」
麒麟宮に仕える女官たちの間で、ある噂が囁かれるようになったのは、鈴蘭が側仕えになって一月ほどが経った頃だった。
「陛下が、最近よく眠れるようになったらしいわ」
「それだけじゃない、あんなに眉間にしわを寄せていらっしゃったのに、心なしか表情も穏やかになったような……」
「原因は、あの新しい女官よ。鈴蘭とか言ったかしら」
女官たちの声は、嫉妬と好奇心で満ちていた。罪人の娘で、毒見係上がりの地味な女官。そんな彼女が、なぜ皇帝の側に。誰もがその理由を測りかねていたが、蒼焔が鈴蘭に向ける視線に、特別なものが含まれていることに気づき始めている者も少なくなかった。
蒼焔自身は、自分の変化に気づいていなかった。ただ、あの静かで控えめな女官が側にいることが、いつの間にか当たり前になっていた。彼女が淹れる薬草茶の香りがしないと、落ち着かない。書を読んでいてふと顔を上げた時、そこに彼女の姿がないと、無意識に探してしまう。
長年、彼の心を覆っていた厚い氷が、春の陽光に溶かされるように、少しずつ、しかし確実に、その形を変え始めていた。
その日、蒼焔は庭園を散策していた。これも、最近になって始めた習慣だった。以前は、草木に興味など少しもなかった。だが、鈴蘭が楽しそうに植物の話をするのを聞いているうちに、自分の宮の庭にどんな花が咲いているのか、気になったのだ。
「陛下、こちらは芍薬(しゃくやく)でございます。根は、痛み止めや婦人病の薬として使われます」
後ろについて歩いていた鈴蘭が、艶やかな桃色の花を指さして言った。
「薬になるのか」
「はい。美しい花ですが、強い力も秘めているのです」
鈴蘭は、花を見つめながら、どこか嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、後宮のどの妃たちの作り笑いよりも、ずっと自然で、蒼焔の心を惹きつけた。
(こいつは、花と話している時が、一番生き生きとしているな)
そう思った時、向こうから鮮やかな衣装をまとった一団が歩いてくるのが見えた。中心にいるのは、寵妃の珠妃だった。彼女は、蒼焔の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせ、蝶のように優雅な足取りで近づいてきた。
「まあ、陛下。このような場所でお会いできるとは。お散歩でございますか?」
甘い声で話しかける珠妃の目は、しかし蒼焔の隣に立つ鈴蘭を、一瞬、鋭く射抜いた。
「ああ」
蒼焔は、短く答えた。彼の興味は、すでに目の前の寵妃から、足元に咲く小さな白い花へと移っていた。
「鈴蘭、この花は何だ」
「それは、雪ノ下と申します。小さな花ですが、日陰でも健気に咲く、とても強い植物です」
「ほう……」
蒼焔と鈴蘭が、自分を無視するかのように花の話を続ける。珠妃の完璧な笑みを浮かべた顔が、わずかに引きつった。彼女は、後宮で最も美しい花だと自負していた。その自分が皇帝の目の前にいるというのに、彼の心は、名も知らぬ雑草と、薄汚い女官に奪われている。
その屈辱に、彼女の爪が強く掌に食い込んだ。
「陛下、わたくしの宮にも、珍しい異国の花が咲きましたの。よろしければ、今宵、いらっしゃいませんこと?」
珠妃は、精一杯の愛嬌を込めて蒼焔の袖に手をかけようとした。しかし、蒼焔は、まるでその手を避けるかのように、すっと身を引いた。
「今夜は政務がある。失礼する」
冷たい一言だけを残し、蒼焔は鈴蘭を伴ってその場を去ってしまった。
取り残された珠妃は、唇を強く噛みしめ、二人の後ろ姿を憎悪に満ちた目で見送った。彼女のプライドは、ずたずたに引き裂かれていた。
(あの女……! 罪人の娘の分際で、陛下をたぶらかすとは!)
珠妃の宮に戻ると、彼女は侍女たちに当たり散らし、高価な花瓶を床に叩きつけて粉々にした。
「許せない……。絶対に、許せない!」
美しく整えられた顔が、嫉妬の炎で醜く歪む。彼女は、すぐに腹心の侍女を呼び寄せた。
「あいつのことを調べなさい。鈴蘭とかいう女の全てを。弱みでも何でもいい、あいつを宮から追い出すための材料を見つけ出すのです!」
その日から、鈴蘭の周辺で、不可解な出来事が起こり始めた。
彼女が薬草園で育てていた大切な薬草が、何者かによって根こそぎ引き抜かれていたり。彼女の部屋の前に、呪いの言葉が書かれた札が置かれていたり。陰湿で、執拗な嫌がらせだった。
鈴蘭は、誰の仕業か、薄々気づいていた。しかし、相手は皇帝の寵妃。下手に騒ぎ立てれば、逆に自分が罰せられるだけだ。彼女は、ただ黙って、荒らされた薬草園を元に戻し、呪いの札を拾って燃やした。悲しかったが、後宮とはこういう場所なのだと、自分に言い聞かせた。
しかし、そんな鈴蘭の様子を、蒼焔は見逃さなかった。
ある夜、不寝番をしていた鈴蘭の手に、小さな傷がいくつもついていることに、彼は気づいた。
「その手はどうした」
「え……? ああ、これは、薬草園の手入れをしていて、少し……」
「嘘をつけ」
蒼焔の低い声が、部屋に響いた。
「誰かが、お前に何かをしているな。言え。誰の仕業だ」
その声には、有無を言わせぬ凄みがあった。鈴蘭は、彼の真剣な眼差しから、目をそらすことができなかった。彼の瞳の奥に、これまで見たことのない、激しい感情の色が揺らめいている。
それは、怒り。そして、おそらくは……心配。
自分のために、この冷酷な皇帝が、心を動かしている。その事実は、鈴蘭の胸を熱くさせた。同時に、この人を、これ以上厄介事に巻き込んではいけないと、強く思った。
「……何でもございません、陛下。本当に、私が不注意なだけです」
鈴蘭は、そう言って、無理に微笑んでみせた。
その健気な笑顔が、かえって蒼焔の心を苛立たせた。なぜ言わない。なぜ自分を頼らない。
彼は、この小さな女官を、自分の知らないところで傷つけられていることが、我慢ならなかった。それは、彼自身もまだ気づいていない、独占欲という感情の芽生えだった。
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