第4話「癒やしの薬草茶」

 鈴蘭が調合した匂い袋の効果は、てきめんだった。あれほど苦しげな眠りあを続けていた蒼焔が、嘘のように穏やかな寝息を立てる夜が増えたのだ。明け方に目覚めた彼の目元から、常につきまとっていた深い隈が、心なしか薄くなったように見える。


 彼は、そのことについて何も言わなかったが、鈴蘭を見る目が少しだけ柔らかくなったのを、彼女は感じていた。

 それは、ほんの些細な変化だった。書を読んでいて、ふと顔を上げた時に向けられる視線。食事の際に、彼女が淹れた茶を口にするときの、微かな口元の緩み。他の誰も気づかないような、小さな変化。


 だが、その小さな変化が、鈴蘭の心を温かくした。罪人の娘として、誰からも顧みられずに生きてきた彼女にとって、自分のしたことで誰かが安らぎを得てくれるという事実は、初めて感じる喜びだった。


「陛下、今日のお茶は、菊花(きくか)に枸杞(くこ)の実を浮かべてみました。目の疲れを和らげる効果がございます」

 蒼焔が政務の合間に目を通す書簡の山を前に、眉間のしわを深くしているのを見て、鈴蘭はそっと声をかけた。彼は一瞬、驚いたように顔を上げたが、黙って鈴蘭が差し出した茶器を受け取った。


 湯気と共に立ち上る、甘く優しい香り。蒼焔は、静かに一口含むと、長く、細い息を吐き出した。

「……悪くない」

 その一言が、鈴蘭にとっては最高の褒め言葉だった。


 それから、鈴蘭は蒼焔の体調や気分に合わせて、日々、違う薬草茶を淹れるようになった。頭が重いと聞けば、鎮痛効果のある白芷(びゃくし)を。少し咳き込んでいるのを見れば、喉を潤す甘草(かんぞう)を。

 彼女の淹れる茶は、いつしか蒼焔にとって欠かせないものになっていた。


 ある晴れた日の午後、蒼焔は珍しく、書簡から顔を上げて窓の外を眺めていた。

「鈴蘭」

「はい、陛下」

「お前の故郷は、どこだ」


 突然の問いに、鈴蘭は少し戸惑った。自分の過去を話すことは、父の罪を蒸し返すことになるかもしれない。

「……都から少し離れた、小さな村です。薬草を育てて暮らす、静かな……」


 言いかけて、鈴蘭は口ごもった。静かだった村は、父が捕らえられてから、すっかり変わってしまったに違いない。

 蒼焔は、そんな彼女の心の揺らぎを見透かしたように、静かに言った。

「そうか。お前の知識は、そこで得たものか」

「はい。父が、薬師でしたので」


 父の名を出すと、蒼焔の漆黒の瞳が、僅かに鋭さを増したように見えた。

「お前の父の名は、白蓮(はくれん)だな」

 鈴蘭は息をのんだ。皇帝が、一介の罪人の名を知っているとは。

「……はい」

「十年前に、宮中の薬を横流しした罪で捕らえられた。間違いないか」

「父は、無実です!」


 思わず、強い口調で返していた。はっとして、鈴蘭は慌てて床にひれ伏した。

「申し訳ございません! 私は、陛下に対して、なんて無礼な……」


 死を覚悟した。皇帝への口答えは、死罪に値する。

 しかし、頭上から聞こえてきたのは、意外な言葉だった。

「……顔を上げろ」


 恐る恐る顔を上げると、蒼焔は値踏みするような、それでいてどこか違う、複雑な目で彼女を見つめていた。

「朕の前で、父の無実を訴えるか。面白い女だ」

 彼は、怒っているようには見えなかった。むしろ、その口元には、初めて見るような、ごくかすかな笑みの影さえ浮かんでいた。

「お前の父の事件、記録ではそうなっている。だが、世の中には、記録に残らぬ真実もある」


 その意味深な言葉に、鈴蘭は戸惑った。皇帝は、何かを知っているのだろうか。父の事件の裏に、何かがあったとでも言うのだろうか。

「陛下……?」

「もうよい。下がれ」


 蒼焔はそれ以上何も語らず、再び書簡に目を落としてしまった。

 鈴蘭は、釈然としない気持ちを抱えたまま、部屋を辞するしかなかった。しかし、彼女の心の中には、小さな希望の灯がともっていた。

 もしかしたら、この方なら。皇帝陛下なら、父の無実を証明してくれるかもしれない。


 その日から、鈴蘭の蒼焔に対する感情は、少しずつ変化していった。最初はただ恐ろしいだけの存在だった。だが、彼の内なる孤独や苦悩に触れ、そして今、父の事件について何かを知っているかもしれないという期待が生まれた。


 彼女は、以前にも増して、心を込めて蒼焔の世話をした。それはもう、ただの女官としての務めではなかった。彼に少しでも健やかでいてほしい。そして、いつか父の無実の罪を晴らしたい。その二つの願いが、彼女の行動の源になっていた。


 蒼焔もまた、そんな鈴蘭の存在を、空気のように自然に受け入れているように見えた。

 彼が、あれほどまでに人を遠ざけていた「冷酷皇帝」が、無意識のうちに、小さな女官に心を許し始めている。

 その事実に気づいている者は、まだ誰もいなかった。


 ただ一人、その変化を苦々しい思いで見つめている人物を除いては。

 皇帝の寵妃、珠妃。彼女の美しい顔には、嫉妬と憎悪の炎が静かに燃え始めていた。

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