第16話 帰る香り

 夜と朝のあいだ。

 まだ誰の声もない京都の底で、空気だけが動いていた。


 帳簿に囲まれた低い卓の前。

 頬には紙の跡が残り、指先には乾いた墨の痕がこびりついている。

 眠気に抗いきれず、横向きに転がった体の上に、羽織がそっと掛けられていた。


 外はまだ白んでいない。

 障子の向こうで、風がかすかに鳴る。

 紙と墨の匂いが混じる空気の中で、

 澄弥の寝息だけが、その静けさをやわらかく揺らしていた。


 やがて、障子の外が白みはじめる。

 遠くで鳥の声がひとつ鳴き、

 それが合図のように、夜の沈黙がほどけていった。


 澄弥はゆっくりと目を開けた。

 かけられていた羽織を脇へどける。

 その布の奥から、淡い香が鼻を掠めた。


 卓の端には、白布で包まれた小さな包み。

 その隣に、焚かれていない香の皿が静かに置かれている。


 一瞬、息が止まる。

 誰もいないはずの部屋に、誰かの気配だけが残っていた。


 包みをそっと開く。

 笹の葉の上に、むすびと沢庵が並んでいた。

 思わず障子へ目をやり、

 再び、むすびへと視線を戻す。


 ひとつ手に取り、しばし躊躇してから口に運んだ。

 冷めた米の甘みが舌に広がり、

 ひと口ごとに、喉の奥のこわばりがほどけていく。


 食べ終えて、指先で香の皿を寄せる。

 火の痕も灰の跡もない。

 けれど、香そのものの薫りが、かすかに漂っていた。


 その薫りが、ゆるやかに胸の奥に沁みていく。

 それは――滝川の家に満ちていた気配だった。


 父の書斎。

 母の袖。

 そして、あの頃の兄の衣。

 夜更けになると、細い煙が家を包み、

 賑やかな家の中を、時雨がただ静かに見つめていた。

 障子の向こうで、その姿が、香の煙とともにゆるやかに溶けていった。


 その温もりが、今、静かに戻ってくる。

 墨の匂いと溶け合い、夜の名残と一つになって――。


 澄弥は、知らぬ間に涙が頬を伝っているのに気づいた。

 理由はわからない。

 ただ、胸の奥の硬いものがほどかれていく。


 小さな笑いがこみ上げる。

 笑いながら、息が震えた。


 澄弥は、先ほどの羽織に手を伸ばした。

 指先が布の端に触れる。

 その感触に導かれるように、胸の前へと手繰り寄せる。


 強く抱き留めると、微かな香が立った。

 深みのある、甘く凛とした気配。

 それは、静寂をともない、澄弥の呼吸の奥まで届く。


 ――帰るべき場所を示す、わたしたちの香り。


 香が、静かに澄弥を包む。

 疑っていたのは、兄ではない。

 信じられずにいた、自分の心だった。


 その思いが、ゆるやかに胸へ沈んでいく。

 澄弥は袖で涙を拭い、

 羽織を丁寧に畳み、香の皿のそばに置いた。


 ――まだ数は揃わない。

 けれど、数を合わせてはいける。


 外では、鳥の声がふたたび鳴きはじめていた。

 夜の底から朝が滲み出し、

 香の匂いが、そのあわいを静かにつないでいた。

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